いい男失格
本日は2話更新です。
その事故が起きたのは放課後、俺と仁がアリーナ前で対人をしているときだった。
不意に、バレーボールの弾ける音に被さるように救急車のサイレンが近づいてきた。何かあったのかと呑気に考えていたら、淡い水色の上着を着た数人の大人が体育館に駆け込んできて、次に戻ってきたときには運動着姿の女子を簡易担架に乗せていた。その女子が智菜だった。どこにも外傷は見られなかったが、ぐったりとしていてぴくりとも動かない。気絶しているようだった。
「智菜」
叫んだつもりだったのに掠れた声が出た。駆け寄ろうとしたがチアリーディング部の部員たちの壁に阻まれて進めず、茫然としている間に智菜は体育館の外に運ばれてしまった。
普段避けていることも忘れて、俺はチアリーディング部の樋口に声をかけた。樋口はがたがたと震えながら泣いていた。
「智菜が、スタンツの状態から飛んで、でも高さが足りなくて、頭から落ちたの……それで、動かなくなっちゃって……」
頭から落ちた。そのひと言で全身の血が一気に引いた。視界がぐらぐら揺れて、一瞬にして世界が色彩を失った。自分が立っているのか、倒れているのかも分からなくなった。
人は首の骨が折れたら死ぬ。漫画でそういうシーンを飽きるほど見てきた。
じゃあ、智菜は? 智菜はどうなった?
まさか、死ぬのか……?
嫌だ、と口の中で呟いていた。じわりと視界が滲んだ。
「智菜は、大丈夫なのか?」
「分かんない!」
結局、樋口からはそれ以上の情報を聞き出すことはできなかった。智菜がどうなったかなんて誰にも分からなかった。
智菜に連絡しても返信はなく、そのまま翌日を迎えた。
水曜日、朝のホームルームで、松坂先生は教室にぽっかりと空いた席を見つめながら語った。
「昨日、白崎さんが部活の練習中に怪我をしました。しばらく学校には来られないそうです」
「しばらくってどれくらいですか? 智菜は無事なんですか?」
俺は挙手もせずに訊ねていた。クラス中が俺を振り返る。気の毒そうな視線に腹が立った。
松坂先生は俺の視線を避けるように目を逸らし、小さく頭を振った。
「意識はあるそうですが、いつ戻れるかは分かりません。もしかしたら……」
その先を松坂先生は口にしなかった。俺も聞きたくなんかなかった。
智菜がいないというだけで俺の学校生活は一変した。自分の笑顔はぎこちなく、発する声は白々しく聞こえ、ずっと何かが喉につかえているように息苦しい。口を開けば溜め息がこぼれる。身体の重要な器官がなくなったような感覚だった。
智菜からの返信はないものの、既読が付くのが唯一の救いだった。智菜は生きている。この世界からいなくなったわけじゃない。でも、連絡したくないのか、したくてもできないのかは分からなかった。
あんまりしつこく連絡するのも迷惑かと思い、送信は一日一回とルールを決めていた。
事故から三日経った金曜日、俺は智菜に『会いたい』と送った。会って何かが解決するわけでもないし、俺にできることがないことも分かっている。それでも、俺は智菜に会いたかった。その気持ちを素直に伝えた。
既読が付いて、また今日も返信はなしかと諦めていたら、昼休み前にスマホが震えた。期待しちゃいけないと自分に言い聞かせながら画面を見る。自分で送っておきながら声が出るくらい驚いた。智菜からの返事だった。
『あたしも』
先生の目も気にせず、すぐに次のメッセージを送る。
『会いに行きたい。どこに行けばいい?』
『蓮花記念病院』
『分かった。今日行くよ』
本当はすぐにでも学校を抜け出して行きたかったが、智菜にも準備があると思い、留まった。一応、追記しておく。
『放課後に行く。たぶん、四時半くらいになると思う』
それ以降、智菜からの返事はなかった。俺も何も送らなかった。
会えると喜んだのも束の間、急に暗く冷たいものが胸に押し寄せてきた。智菜は今、どんな状態なのだろうか。突拍子もない嫌な想像が頭を掠める。片脚を切除されていたら。目が見えなくなっていたら。全身を機械に繋がれていたら。そのとき、俺はどんな顔で智菜に会えばいいのだろうか。笑って励ますべきなのだろうか。泣いて悲しむべきなのだろうか。どちらもうまくできる自信がなかった。
どうしよう。どうしたらいいんだ。
額に両手を当てて悩んでいると、ふと、野々村の顔が頭に浮かんできた。
そうだ、野々村だ。瀕死の猫だってあっという間に治したのだ。治癒の魔女の能力なら、智菜がどんな状態だろうと元通りにできる。
四時限目終了のチャイムが鳴ると教室に音が溢れ返った。サッカー部やバスケ部の集団が食堂に向かい、賑やかな女子が弁当を取り出して机をくっ付ける。その中で俺は隣の席の野々村に声をかけた。
「なあ、野々村」
野々村はいつも通りこちらを向いてくれない。息を詰めるように俯いている。
構わず、俺は続けた。
「智菜が……あ、白崎な? 白崎が怪我をしたって先生が言ってたろ? 今、蓮花記念病院に入院しているらしいんだ。だから、もしよければ――」
「紗代。お昼食べよ」
俺と野々村の間に水上が割り込んできた。背中を向け、俺から野々村を隠すようにして立つ。意地でも話をさせないという強い意思を感じた。
普段からやられている嫌がらせ。はいはいすみませんね、と引き下がるのが正しい対応だと分かっている。でも、今日に限っては我慢できなかった。
「水上。今、大事な話をしてるんだ。邪魔しないでくれ」
「今日は他のところに行こうよ。久々に食堂っていうのも――」
「水上!」
思わず叫んでいた。こんなに大きな声を出したのは去年の部活以来のことだった。
この三日間、ずっと智菜のことが心配で、どんな状態なのかと不安で、でも俺には何もできないことが悔しくて、一人で苦しみつづけてきた。〝いい男〟は泣かない。そう自分に言い聞かせて必死に押さえ込んできた気持ちが、抑圧の反動で弾けてしまった。
俺はとっくに限界だった。たまたまその引き金を引いたのが水上だったというだけで、きっと、遅かれ早かれ俺はこうなっていたのだと思う。
残っているクラスメートたちが驚いた顔で俺を見つめる。触れれば切れてしまいそうな張り詰めた空気が教室を支配していた。誰もが浮足立ち、けれど、その場から一歩も動こうとしなかった。
水上はなおも無視し、野々村を連れていこうとする。
それを見て、ぷつんと、俺の中で何かが切れた。
「無視すんなよ! 智菜が怪我をしたのはお前のせいだろ!」
そのひと言で水上は動きを止めた。ゆっくりと、錆びたロボットのようなぎこちない動きで振り返り、足元に視線を落とす。
「それは……ごめん」
「ごめんじゃねえよ! 水上が余計なことを言わなきゃ、智菜は怪我なんてしなかったんだ!」
俺の意思とは関係なく言葉が迸る。
本当は水上のせいじゃないと分かっていた。
水上に智菜の説得を頼まれたのも、なのに日を置こうなどと甘いことを考えて先延ばしにしたのも、前日に長電話で夜更かしをさせたのも、全部俺だ。水上は何も悪くない。智菜が怪我をしたのは俺のせいだった。
けれど、誰かのせいにしないと自分を保てないから、水上のせいにしようとしたのだ。
やめろ。やめてくれ。これ以上は何も言わないでくれ。
そう思うのに、俺の口は止まらない。
「なんで余計なことを言ったんだよ! 俺が嫌いだからか? 智菜にまで嫌がらせして、本当はこうなることを望んでいたんじゃねえのかよ!」
違う。そんなこと思ってない。水上はそんなやつじゃない。
「智菜が怪我をして嬉しいか? これで満足かよ? なあ!」
「……っ、ごめん。ごめんなさい……」
水上は顔を隠そうともせずに涙を落とした。
その姿を目の当たりにして血の気が引き、ようやく冷静になれた。同時に、俺は泣いた。水上に八つ当たりした自分がみっともなくて、悔しくて、許せなくて、涙が止まらなかった。
「くそっ」
椅子を倒して立ち上がり、教室を飛び出した。俺は全然、〝いい男〟ではなかった。




