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仲直りからの

 コーチの候補が見つかったのは嬉しい限りだが、その人物が水上のお姉ちゃんという点が大きな問題だった。

 チアリーディング部のコーチを引き受けてもらうには妹の水上に口を利いてもらう必要がある。だが、どういうわけか俺は目の敵にされていて、智菜に関しては先週に喧嘩をしている。面と向かって『みっともない』と言い放って、謝りもせずにそのままだ。とても頼めるような状況ではなかった。


 麻雀対決の後、帰宅した俺は智菜に電話をしてコーチの件を説明した。予想外に智菜の声は明るかった。


『さっすが優真! コーチを見つけるなんてすごいじゃん! 大好き! 愛してる!』


 電話の向こうでくるくると踊る智菜が目に浮かぶようだった。癖なのか、智菜はよく無意識に身体を動かしている。


『あたしも、謝った方がいいよなあってずっともやもやしてたんだよね。同じクラスなのに険悪なままっていうのもやだし。謝って、仲直りして、それでお姉さんにコーチを頼めないかって話してみる!』


 まっすぐで眩しいところが智菜のいいところだ。眩しすぎて溶けてしまいそうになる。


 ジャンの話を聞いたことで、俺の中では水上のイメージが変化していた。少し前までは凶暴でおっかないやつと思っていたが、今は、正義感が強く、根っこの部分は優しい人、という見方をしている。智菜が誠意をもって接すれば、水上も私怨よりチアリーディング部のことを優先してくれるのではないか。そう思ったし、そう信じたかった。


 翌日の金曜日、智菜は早速行動を起こした。五分休みに水上が野々村の席に来て話しかけようとする。その寸前で割り込み、声をかけたのだ。


「ねえ水上、ちょっといい?」


 これは悪手ではないかと俺は思った。水上は今、野々村の席まで来ている。その隣には俺が座っている。つまり、嫌悪の対象である俺がすぐ傍にいるのだ。そんな状況で冷静な対処をすることは難しい。また喧嘩になることを俺は覚悟した。


「……なに?」


 水上が硬い声で応じる。息を呑む音が聞こえた。


「あのさ、この間はごめんね? あたしもついカッとなって、変なこと言っちゃった。ずっとそれを謝りたかったんだ」

「……別に、気にしてない。わたしも喧嘩腰だったと思うし」

「ほんと? じゃあ、仲直りってことでいい?」

「まあ、うん」


 案外あっさりと水上は頷いた。握手こそしなかったものの、しっかりと和解の意思を示してみせたのだ。偉い、偉いぞ水上、と俺は心の中で喝采を送った。


 呆気ない結末を目の当たりにして、どうして智菜がこのタイミングを選んだのかが分かった気がした。智菜はよくも悪くも楽観的な性格をしている。きっと、仲直りできると確信していて、その一部始終を俺に見せつけたかったのだろう。ほらね、問題なかったでしょ、と横顔が言っている。


 違和感を覚えたのはその後だった。決着がついたはずなのに水上は智菜を追い返そうとせず、それどころか何か言いたげに見上げている。二人の間にもどかしい沈黙が落ちる。


 固まった空気を動かしたのは智菜の方だった。視線を逸らして頬を搔く。


「あのさ、仲直りって言った直後で図々しいんだけど……あたしチアリーディング部に入ってて、今、コーチをしてくれる人を探してるんだよね。コーチもいないのに大技に挑戦しようって流れになっちゃっててさ、けっこうまずい状況なんだ。水上のお姉さんがチアリーディングやってたって聞いたんだけど、お願いできたりしない?」


 智菜さん、それは交渉が下手ってもんじゃないですかね。コーチのために仕方なく仲直りしたように見えますよ?

 やっぱり喧嘩になるか? と身構えたのだが、水上の返答は予想外のものだった。


「実は、わたしも最近チアリーディング部にコーチがいないって話を聞いて、白崎に声をかけようかなって思ってたところなんだ」

「うそ! ほんとに?」


 智菜がぱっと笑顔を咲かせて手を叩く。


「え、じゃあ、引き受けてもらえるってこと?」

「わたしが勝手に決めるわけにはいかないよ。詳しいことを聞きたいし、わたしからも説明したいことがあるから、放課後少しだけ残ってくれる?」

「分かった、いいよ。あ、部長とか呼んだ方がいい?」

「ごめん、二人きりがいい。複雑な事情もあるから」

「りょ。じゃあ、放課後ね!」


 上機嫌に手を振って智菜が自分の席に戻っていく。水上も野々村に話しかけることなく引き返した。


 なんだか青春のワンシーンを特等席で見てしまったような気分で、ほうと息を吐き出す。すると、ポケットのスマホが震え出した。見れば智菜からのRINEで、『ありがと』とメッセージが入っている。ご丁寧にハートマーク付きだ。

 水上のお姉ちゃんがチアリーディング経験者という情報を持ってきたのは俺だが、水上は元からそのことを智菜に話そうとしていた。智菜がさっさと謝っていれば、もっと言うとあのときに突っかかっていなければ、とうの昔に解決していた問題だったのだ。だから俺は何の役にも立っていない。また何もしていないのに感謝されてしまった。


 水上は隙あらば野々村のところに来て、俺の視界から野々村を遮ろうとする。しかし、今日は青春イベントのお陰でブロックがお留守になっていた。


 オムライス大作戦以降、野々村とはひと言も話していなかった。野々村が無視するというのもあるが、俺も唇を拭いてしまったことを思い出してちょっと気まずい思いをしていたのだ。智菜を見習って俺も変な空気を払拭したい。そう思って野々村に声をかけようとした。


 なんかすごいものを見ちゃったな。そんな軽口を叩くつもりだった。


 けれど、野々村を見た途端、言葉に詰まってしまった。

 野々村は、自分の拳をもう片方の手で包み込んで震えていた。顔を伏せ、目を瞑り、息を殺すように唇を噛んでいる。

 まるで狼に出くわしたウサギのように、野々村は怯えていた。


 どうして、と考えるまでもなく浮かんできたのは、智菜の顔だった。さっきまでの出来事を思い返せば原因は智菜以外に考えられなかった。


 なぜ野々村が智菜に怯える必要があるのか。野々村と智菜の間に何かあったのか。自己紹介でのあの発言にも智菜が関係しているのか。


 分からない。分からないことだらけで息が苦しくなってくる。

 困惑する俺をよそに、次の授業が始まった。



 放課後、俺は智菜に教室での待機を命じられた。どうやら一番にいい報告をしたいらしい。俺に報告されても「よかったな」くらいしか言うことはないのだが、まあ彼女を褒めるのも彼氏の役目だろうと素直に従うことにした。


 掃除が済んで教室から人が()けると、水上は智菜を連れて教室の外に出ていった。扉を閉める直前、振り返りざまに帰れと無言の圧力を掛けられた。俺は意味もなく会釈をした。


 用もない教室に独りぼっち。はっきり言って暇だ。とはいえ、智菜も水上も鞄を置いていってしまったので勝手にどこかに行くわけにもいかない。仕方なく宿題を済ませてしまうことにする。

 鞄から英文法のテキストを取り出し、指定のページを開く。小テストをするから憶えてくるように、という宿題が出されていた。


 英語はそこそこ得意な方だ。師匠が〝いい男〟は英語ができる、英語だけやっておけば他は後でどうとでもなる、と言ってくれたお陰で小学生の頃から勉強していた。当時は日本にいるのにどこで使うのかと懐疑的だったが、中学生になってありがたみを痛感した。この高校に入ることができたのも、その先で智菜に出逢うことができたのも、すべては師匠の教えがあったからだと思う。ありがとうございます、師匠。


 十五分ほどで宿題が終わったので、パラパラとテキストを眺める。オタクくんが言っていた『Close, but no cigar.』を探してみたがやはり載っていなかった。あんなのどこで憶えるんだ。


 教室の扉が開いたのはそのときだった。智菜かと思って見てみれば、そこには野々村が立っていた。

 野々村は、あ、という顔をして身を竦ませた。数秒の逡巡(しゅんじゅん)を挟んで教室に入ってくる。


 俺は野々村が席に来るまで待って声をかけた。


「忘れ物か?」


 こちらに一瞬だけ視線を移して、こくんと顎を引く。よかった。反応してくれた。どうやら二人きりのときだと無視はされないらしい。


 野々村が机に手を入れ、英文法のテキストを引っ張り出す。それを眺めながら声量を落として訊ねた。


「野々村、変なことを訊くんだけどさ、何か危ない目に遭ったりはしてないか? 例えば、誰かに脅されているとか、恐い手紙を貰っているとか」


 野々村は動きを止めて、不思議そうな顔でこちらを向いた。


「ないよ……?」

「ないか。それならよかった。恐がらせるようなことを言ってごめんな? 気にしないでくれ」


 俺がこんなことを訊いたのはオタクくんのせいだった。

 昨日の麻雀の後、オタクくんはなぜか上機嫌で、不気味な笑みまで浮かべていた。金銭的な儲けが出たとはいえ、水上に関する有力な情報は得られなかったのだからこれはおかしい。そう思って訊ねてみると、オタクくんは口の端を吊り上げてこう言った。


「やっぱり優真に来てもらって正解だったよ。お陰で水上春香の弱みを握れた。これで野々村紗代の秘密くらいは喋ってくれると思うな」


 ジャンの話では水上の弱点は家族とポン介と野々村とバスケだった。人の心がないオタクくんでもさすがに家族や愛犬に手を出すとは思えない。バスケができない身体にする、なんて暴力的な手も使わないだろう。だとすると残りの弱点は野々村だけになる。そこで野々村の身を案じた、というわけだ。


「大丈夫だとは思うけど、もし何かあったらすぐに連絡をくれ。俺がなんとかする」


 オタクくんを止められるのは俺しかいない。きっと殴れば目を覚ますはず。人を殴ったことなんてないけど。


「うん……」

「あ、あともう一個。記憶の魔女はまだ手掛かりも掴めてないんだ。でも、頑張って探すからもう少し待っててくれ」

「うん……ありがとう」


 そう言って野々村は控えめに微笑んだ。やっぱり、野々村に笑ってもらうには記憶の魔女を見つけ出すしかないようだ。


 テキストを鞄に入れ、野々村が身を翻す。その背中に明るい声を投げた。


「じゃあな、野々村。気をつけて帰るんだぞ」


 野々村は振り返って口を開き、けれど何も言わずに立ち去ってしまった。

 挨拶くらいしろよな、と怒ってもいいところなのに、俺は野々村がこっちを向いてくれただけで嬉しかった。


 本当にバカだと思う。彼女でもない人を好きになって、喋ってくれただけではしゃいで、表情や仕草一つで一喜一憂している。こんなの全然〝いい男〟じゃないと分かっているのに、心が言うことを聞いてくれない。


 記憶の魔女を見つけ出して、野々村がつらい記憶を消してもらって心から笑えるようになったら……俺はどうするのだろう。野々村のことをきっぱり諦められるのだろうか。それとも、すぐ傍で笑顔を見たいと望んでしまうのだろうか。


 答えの出ない問いに煩悶(はんもん)し、机に突っ伏す。

 静寂に身を委ねようとしたら、急に色んな音が意識に入り込んできた。天井で唸る空調、グラウンドから飛んでくる野球部の掛け声、遠くから響く吹奏楽部の演奏。それらすべてが、目を背けるなと言ってきているようだった。そんなこと言われてもさ、と一人で文句を垂れる。


 遠くの音を拾うように耳を澄ませていると、ばたばたと慌ただしい足音が近づいてくることに気づいた。不穏な気配を察知して身体を起こす。


 だん、と力任せに扉を開けて入ってきたのは智菜だった。顔を赤くし、息を乱している。明らかに怒っていた。でも、それだけではない。大きな瞳いっぱいに涙を(たた)えていた。


 智菜は俺を見てくしゃりと表情を歪ませ、その拍子に涙を落とした。初めて見る智菜の泣き顔に、俺は掛ける言葉を失ってしまった。


 立ち上がり、智菜の方へ向かおうとする。が、その前に智菜は鞄を引っ掴み、逃げるように教室を飛び出した。


「智菜!」


 慌てて叫んだが遅かった。どんどんと足音が遠くなっていく。


 水上と喧嘩でもしたのだろうか。でも、智菜が泣かされて帰ってくるとは思えない。仮にそうだったとしても俺に泣きついてこないのはおかしい。

 いや、今は考えても仕方がない。事情なら智菜から直接聞けばいい。


 そう思って追いかけようとしたところで行く手を阻まれた。いつの間にか扉の前に水上が立っていた。


「ごめん。行かないで。わたしの話を聞いて」


 水上は唇を噛み締め、必死に涙を(こら)えていた。俺はこういう顔に弱い。智菜を泣かせた張本人だと分かっていたのに、怒る気が失せてしまった。

 盛大な溜め息を吐いて鞄を近くの机に放り出した。


「何があったんだよ?」


 水上は目を擦ってから、ぽつぽつと話し出した。


「わたしが余計なことを言って怒らせた」

「もう少し詳しく話してくれ」

「お姉ちゃんにチアリーディング部のコーチをお願いするって話は引き受けた。というか……本当はもうお姉ちゃんには相談していて、お姉ちゃんもやるって言ってたの。練習中に大怪我した人を知っているから、コーチがいない状態で危険な技なんてさせられないって。お姉ちゃんがやる気になっているし、わたしとしてはこちらから頼んででもコーチをやらせてもらわなきゃいけなかった」

「それがどうしてこうなったんだ?」

「お姉ちゃんにコーチの話をする代わりに、一つお願いを聞いてほしいって言ったの。お願いっていうか、考えてほしいことみたいな感じだけど」

「どんなお願いだ?」

「ごめん。それは言えない」


 肝心なところは言えないらしい。なら俺にどうしろっていうんだ。

 無言で先を促すと、水上は溜め息を挟んでから続けた。


「そうしたら、白崎が怒っちゃって、『じゃあコーチなんか要らない』って言い出したの。謝って、お願いのことはなかったことにしてほしいって言ったんだけど、聞いてくれなくて、それで、こうなった……」


 いまいち要領を得ないが、なんとなく話は分かった。

 チアリーディング部のコーチの件は智菜と水上の間で利害が一致していた。しかし、水上はそのことを隠して交換条件を出し、その条件とやらが智菜の逆鱗に触れ、智菜の方からコーチを断るに至った。ざっとこんなところだろう。


 問題はその〝交換条件〟の内容だが、水上が口を割らないとなると知る手立てがない。恐らくは智菜も話してくれないだろう。智菜が泣いて怒るほどの条件が何なのか、俺には想像もつかなかった。


「それで、俺は何をすればいいんだ?」


 水上は俺にさせたいことがあるはず。でなければ嫌いな俺を引き留める理由がない。そう考えて訊ねると、水上は項垂(うなだ)れるように頭を下げた。


「皆月から白崎を説得してほしい。お願い。お願いします」

「水上はお願いをなしにするって言っているから水上のお姉ちゃんにチアリーディング部のコーチをしてもらえよ――って言えばいいんだな?」

「うん」

「ちなみに、どうしてそこまでお姉ちゃんにコーチをさせたがるんだ?」

「もしもチアリーディング部で何かあったら、お姉ちゃんは自分がその場にいればって責任を感じてすごく落ち込むと思う。お姉ちゃんだけじゃなくて、わたしも……。理由はそれだけ」


 ジャンの言う通り、水上は〝責任感が強くて優しいやつ〟のようだ。クラスメートの、おまけに喧嘩している相手のためにここまで親身になれるのだ。素直にすごいと思う。


 智菜の要望に付け込んだ水上ももちろん悪いが、もう謝っていて、チアリーディング部の安全を第一に考えている。こうなると意地を張っている智菜の方が悪いと言わざるを得ない。


 俺はできるだけ柔らかい声を作って返事をした。


「分かった。時間は掛かるかもしれないけど、なんとか説得してみる」

「ありがとう。お願いします」


 水上はめそめそと泣きながらもう一度頭を下げた。


 鞄を提げ、今度こそ教室を後にする。そこでふと思い立ち、すれ違ったばかりの水上を振り返って訊ねてみた。


「なあ、水上はやっぱり俺のこと嫌いか?」

「ごめん。大嫌い」


 即答だった。そこまで嫌いな俺に頭を下げたのだと知ったら、俺も頑張らないわけにはいかない。


「……あ」


 なんで嫌いなのか訊けばよかった、と気づいたのは、校舎を出た後のことだった。

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