オムライス大作戦
迎えた翌日は薄い雲が空に膜を張り、暑くも寒くもない過ごしやすい気候となった。絶好のオムライス日和である。
放課後、部活に行く生徒とは時間をずらして野々村と一緒に学校を出た。智菜のように外で待ち合わせをしなかったのは、疚しいことは何もないと主張するため。別に見られても構いませんよ、というポーズだ。とはいえ、内心では智菜と水上に見つかったらと怯えていた。校門を抜けるまでは背が丸まっていたかもしれない。
野々村と星ヶ崎学園に向かうことはオタクくんに伝えてあり、既に来客パスも発行してもらっていた。学食も夜六時までやっているらしい。残る関門は守衛さんのチェックだけだが、まあなんとかなるだろう。なってもらわなくては困る。
付いてきてくれたのはいいものの、やっぱり野々村は浮かない顔で、じっと自分の手を握り締めている。俺が脅して強引に連れていっているみたいだ。ちょっと気まずい。
だが、俺は初セックスを褒められたことで自信がついていた。セックスとは会話である。ならば、セックスを褒められた俺は会話もそれなりの力量があることになる。野々村を尊重し、野々村を知ろうとし、野々村にも俺を分かってもらおうとすればいい。心を通わせたいという気持ちはきっと伝わるはずだ。
「野々村」
呼びかけると野々村は目だけを動かして俺を見た。俯き加減ではあるが、一応会話はしてくれるらしい。
「ちゃんとお腹は空いているか?」
「……うん」
「いいぞ。偉い。これから行くところは三ツ星レストラン出身のフレンチシェフが作るオムライスが食べられるんだ。俺はビーフシチューオムライスしか食べたことないけど、メニューにはシーフードオムライスっていうのもあったぞ。野々村はどっちが食べたい?」
「えっと、じゃあ、ビーフシチューオムライス……」
「それがいいだろうな。俺が味を確かめているっていうのもあるし。あ、絶対にオムライス以外頼んじゃ駄目だぞ。もう二度と行けないところなんだから」
野々村が目をぱちくりさせる。そうだろ、気になるだろう?
「そこは特別な通行証がないと入れない場所にあるんだ。恐らく、俺も今回が最後だ。なんなら今日も入れてもらえない可能性すらある」
「食べられないってこと……?」
「うん。そのときは本当にごめん」
頭を下げず、顔だけで謝る。薄目を開けて確認すると野々村は下唇を噛んで固まっていた。がーん、という音まで聞こえる気がする。本当にオムライスが好きみたいだ。
万が一の可能性は本当にあるのだが、最悪の事態に備えてオタクくん妹にも待機してもらっている。うまく構内に入れるはずだ。うん。そのはず。
「そのときは別のオムライス屋さんに行こう。近くの店を調べてきたんだ。野々村のおすすめの店があればそっちでもいい。野々村は美味しいオムライス屋さんを知ってるか?」
「……うん」
「お、どこだ?」
「えっと、『オムの樹』」
「まさかのチェーン店」
いや、チェーン店が悪いとは言わないけれど。思わずつっこんでしまったじゃないか。
「俺も『オムの樹』は行ったことあるよ。美味いよな。でも、これから行くところは想像を絶する美味さなんだ。あれはオムライスじゃない。芸術だ」
「芸術……?」
「そのときは腹立つやつが一緒にいたんだけど、それでも芸術だと感じたんだ。今日は野々村が一緒だからもっと美味いと思う」
「でも……」
俺の顔を盗み見て、野々村は遠慮がちに言う。
「食べられないかもしれないんだよね……?」
「うん、そうだ。そのときはごめん」
威勢よく謝ると野々村は少しだけ口元を緩めてくれた。またすぐ引き結ばれてしまったけれど、たしかに笑いそうになったのだ。
たったそれだけのことに、胸の奥が温かいもので満たされていくのを感じた。
やっぱり俺は、野々村が笑ってくれることが嬉しいみたいだ。
野々村が笑ってくれるだけで、胸がぽかぽかして、ふわふわして、同時にきゅっと締めつけられる。
野々村を助けたいと思っていたはずなのに、それだけだったはずなのに、俺は俺のために野々村の笑顔を見たいと望んでしまっていた。
やめておけ、と智菜の彼氏である理性的な俺が警告する。表情が緩んだくらいでこれだぞ。満面の笑みなんて見た日にはどうなるか分からないぞ。だからやめておけ。
その通りだと思う。でも、俺の心は子どもみたいにはしゃいでいて、先走る気持ちのまま言葉を重ねてしまう。
それから俺は野々村に話しかけつづけ、野々村はぽつぽつと呟くようにではあったけれど、きちんと応えてくれた。
この時間で俺は野々村の色んなことを知った。身長は158.6センチだとか、誕生日は十二月二十一日で星座は射手座だとか、血液型はO型だとか、運動は苦手だとか、泳げないだとか、成績は真ん中よりちょっと下だとか、水上とは中学の頃に知り合っただとか、小さい頃は医者になりたかっただとか。
驚いたのは、聞けば聞くほど俺との共通点が見つかったことだ。苦手な科目も、好きなバンドも、好きな色も、大学生の姉がいることも一緒。おまけに俺が昨日観た映画の話をすれば、野々村もそれを観たと言い出す。内容も正確に把握していたので話を合わせているわけではなさそう。もし有名な占い師が割り込んできて、目の前にいるその人があなたの運命の人ですよ、と言われたら信じてしまいそうだった。
まあ、運命の人だったとしても俺にはどうしようもないのだが。
思いつくまま喋っていたので話題はあちこちに飛んだ。担任の松坂先生はああ見えてコスプレが趣味らしいぞ。同じクラスの仁とは去年同じ部活だったんだが、あいつは女子バレー部とお近づきになりたいっていう不純な動機で男子バレー部に入ったんだ。バイト先の先輩に鳥口さんって人がいて、その人の高校では飛行機が禁止されているらしい。なんでも、十年前の修学旅行で一人だけ飛行機から落ちたという噂があるそうだ。……そんな他愛ない話を、丁寧に、時々冗談めかして語った。
野々村は基本的には頷いたり、か細い声で返事をしたりするだけだったが、堪え切れず、といった様子でほんの一瞬だけ笑みを見せてくれることもあった。
野々村の笑った顔はとびきり可愛くて、目にしただけで幸せな気分になる。
自分でもうまく説明できないのだが、智菜と野々村に対する〝可愛い〟は違う種類のものだ。智菜のは、楽しくなって、好きが溢れて、キスしたくなるような〝可愛い〟。野々村のは、嬉しくなって、愛おしくて堪らなくて、抱き締めたくなるような〝可愛い〟。でも、幸せだと感じるのは同じ。どちらも優劣なんてなくて、どちらも大切にしたいと思ってしまう。
昨夜にした決意は早々に揺らぎはじめていた。学校を出るまでは何があっても平気だと思っていたのに。
そうこうしているうちに目的の星ヶ崎学園に到着した。来客パスでゲートをくぐり、守衛さんに声をかける。一年四組の太田花音さんに呼ばれて来ました。そのひと言だけで守衛さんは頷き、名札ホルダーと注意書きのプリントをくれた。堅牢なセキュリティシステムを有しているのにチェックはガバガバだった。実にありがたい。
「やったな、野々村。入れたぞ。世界一美味いオムライスが食べられるんだ」
囁きかけると、野々村はこくんと顎を引いた。ほんのり頬が赤くなっていて、わずかに口角が上がっている。嬉しそうだ。よかった。俺も嬉しいよ。
食堂にはちらほらと学生の姿があった。女子高なので当たり前だが、全員が女子で、男である俺に好奇の視線を送ってくる。尻込みしそうになる気持ちを押し殺し、堂々と足を進める。野々村にみっともないところは見せられないと意気込んでいたのかもしれない。
俺と野々村はビーフシチューオムライスを頼んで、向かい合う形で席に着いた。ここに来るまでは海老のクリームソースのシーフードオムライスを食べようと決めていたのだが、直前になって変えてしまった。野々村と一緒に、野々村と一緒のものを食べたくなったのだ。
野々村は念願のビーフシチューオムライスを前に息を呑み、そっと顔を近づけると、わっと小さな歓声を上げた。分かる。分かるぞ。ビーフシチューの芳醇な香りに殴られたんだよな。驚いちゃうよな。でも、本番はここからだぞ。
スプーンで切り崩されたビーフシチューオムライスがふーふーと息を吹きかけられ……ついに小さな口に運ばれる。
直後、野々村が目を丸くして固まった。
ゆっくりと咀嚼し、慎重に呑み込んで、口元を手で隠して、ひと言。
「……美味しい」
野々村はほっと溜め息を吐いてそう言った。
満面の笑み、ではないのだろう。それでも、目が優しい形になっている。
その光景を、俺はスプーンを握ったままじっと見つめていた。
なんだか胸がいっぱいで、すぐ食べる気になれなかった。俺にとっては、世界一美味いオムライスよりも、野々村の笑った顔の方が何万倍も価値があった。
「ありがとう」
勝手に口が喋っていた。野々村が大きく瞬きして、視線をテーブルの端に移す。
「どうして、皆月くんがお礼を言うの?」
「野々村にここのオムライスを食べてほしかったんだ。野々村が俺の願いを叶えてくれて嬉しい。だから、ありがとう」
「わたしも……」
野々村はその先を口にしなかった。『ありがとう』だったかもしれないし、『嬉しい』だったかもしれない。両方だったらいいな、と欲張りなことを思った。
せっかくの至福の時間に水を差してはいけないと、話しかけることは控え、黙々とビーフシチューオムライスに取り掛かった。やはり世界一美味い。でも、野々村の笑みを見た後だと感動は薄かった。俺はオムライスを堪能することよりも、野々村の顔を盗み見ることに集中していた。
「ご馳走様でした」
野々村は呟き、空になった皿に頭を下げた。そういうところも可愛い。
美味しかったか、なんて訊かない。そんな野暮なことは訊いてはいけない。そうですよね、師匠。
野々村の隠し切れていないほくほく顔を見つめていたら口元が汚れていることに気がついた。微笑んで指摘する。
「野々村、口にソースが付いてるぞ」
「あ、えっと」
「ほら」
テーブルからペーパーナプキンを取り、野々村に差し出す。
差し出すだけのつもりだった。
俺の意思に反して手は野々村の口元に伸び、唇に付いたソースを拭っていた。無意識にそうしていた。
野々村が、え、という顔をして、俺もまた、え、と固まった。
どうしてこんなことをしたのかは自分でも分からない。智菜にもこんなことはしない。だとしたら師匠の教育のせいだろうか。初めて師匠を恨みたくなった。
突然の出来事に動揺し、心臓が暴れ回る。それでも必死に笑顔を取り繕った。
「取れたぞ」
俺はなかったことにしようとした。それ以外にできることが思いつかなかったのだ。
野々村は返事をせずに俯いた。耳が赤くなっているのを見て、さらに心音が乱れてしまう。
何をやっているんだ俺は。どうして彼女でもない人にこんなことをしたんだ。というか、口を拭って「ほら取れた」とか普通にキモすぎる。こういうのは『ただしイケメンに限る』というやつじゃないか。いや、イケメンでもさすがにこれは〝ない〟。本当にあり得ない。完全に終わってる。俺はバカか。バカなのか。これから野々村とどう接すればいいんだ。俺はいったい、野々村をどうするつもりなんだ。
パニック寸前の俺を現実に引き戻したのは一人の女子だった。
ゆるふわウェーブの茶髪が野々村の背後に忍び寄り、頭頂部に鼻を寄せ、すんすんと匂いを嗅いだ。異様な光景に驚き、動揺が上書きされる。俺はこの瞬間まで、どうして野々村をここに連れてくることになったのかを忘れていた。
診断の魔女による純潔チェックはそれで終わりだった。姫路は何も言わないどころか一瞥もくれずに歩き去る。仕事人を思わせる毅然とした態度であった。
こうして、オタクくんの目的は果たされた。
帰りは口を利いてくれないんじゃないかと不安だったが、野々村は行きと変わらないくらいの口数で応じてくれた。ただ、笑ってはくれず、それどころか泣きそうな顔になってしまっていた。
オムライス大作戦は俺の失態によって台無しになったのだった。




