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分かり切っている答え

 遅くなることを想定して、母さんには夕飯は外で食べてくると伝えていた。


 なんだかがっつりしたものが食べたい気分だったのでバイト先の牛丼屋に行くことにした。俺が勤める牛丼屋は週一でもOKでシフトも融通が利く。憶えることは多いし、忙しいときは目が回るほど忙しいが、暇なときは眠ってしまいそうなほど暇、という緩急の激しい店だった。他の店舗も似たようなものらしく、ある店ではスタッフが結託して勝手に休業にし、居眠りしていたなんて事件もあったと聞く。それ、絶対居眠りじゃないですよね、と思ったが、さすがに言えなかった。


 店には仲のいい先輩アルバイターの鳥口(とりぐち)さんがいて、勤務日だけ使える割引を俺にあてがってくれた。つくづく、俺は人に恵まれていると思う。


「嬉しそうだね。何かいいことあった?」


 食べている最中に鳥口さんにそう訊かれた。実はさっき童貞を卒業したんですよ、と言ってしまいたい気分だったが、それは〝いい男〟が言う台詞ではないし、智菜にも失礼な気がして、ぐっと呑み込んだ。代わりに、「まあちょっと」と濁しておいた。言い終えてから、尊敬する先輩に割引してもらいまして、くらい言えばよかったと反省した。俺は随分と浮かれていたらしい。


 帰る途中にふと思い立ち、閉店間際のケーキ屋に飛び込んだ。鳥口さんのお陰でお金が浮いたことだし、師匠にお礼の品を買っていこうと思いついたのだ。イチゴのミルフィーユケーキを二つ買う。一つは自分へのお祝いだ。


 家に着いたのは八時半頃。父さんは風呂に入っていて、母さんは洗い物をしていて、姉ちゃんはリビングでテレビを前にリモコンを握っていた。俺は部屋で着替えてくるなり、姉ちゃんの前に(ひざまず)いた。


「師匠、こちらお礼の品です。お納めください」

「え、なに急に。何かあった?」


 今日、彼女の家に行くことは伝えてあったはず。察しが悪いとは師匠も耄碌(もうろく)したものだ。

 しかし、母さんがいる前でそういう話をするわけにもいかない。詳しい説明は諦めた。


「師匠の弟子でよかったとしみじみ感じているんだよ、俺は。これはその恩返し」

「優真、本当に立派になって……わたしも師匠として鼻が高いよ」

「あんたたち、本当に仲がいいわね」


 片膝を立てる俺と涙ぐむ姉ちゃんの前に、母さんが皿とフォークを持ってきてくれた。すべてお見通しなのかちゃんと二組ある。さすがは師匠の母君だ。


 姉ちゃんは映画を観ようとしていたところだったという。一緒に観ようと誘われたのでお供させてもらうことにした。

 映画は最近配信が開始された医療ものだった。いや、医療ものにかこつけた恋愛ものだろうか。とはいえ、医療ものと銘打つだけあってその部分もしっかりしていた。性格の悪い天才外科医が恋人の病気をきっかけに改心し、仲間とともに成功確率0パーセントの超難関手術に挑む。説明はよく分からなかったが、専用の機械を作り、新しい手法を編み出す過程には胸が躍った。


 病気の恋人を見ていたら、野々村の顔が頭に浮かんできた。

 野々村ならこんな病気もあっという間に治してしまえるのかもしれない。そう考えると野々村はすごく立派だと思った。何者にもなれない俺と違って、野々村は多くの人に求められ、感謝されている。それは間違いなく誇るべきことだ。


 なのに、野々村はいつも俯いている。「跪いて感謝しなさい愚民ども。がはははは」なんて絶対に言わない。言ってもいいくらい偉大なことをしているのに、自分を責めるように膝を抱えて(うずくま)っている。


 野々村は数え切れないほど多くの命を救っている。

 では、野々村のことは誰が救うのだろう。

 答えは分かっているはずなのに、今の俺は向き合うことができなかった。


 病気の恋人が医師を勇気づけるシーンで姉ちゃんがぼやいた。


「こういうのさ、普通男が言うもんだよね。彼女に言わせちゃ駄目だよ」


 文句を言う口振りなのに少し涙ぐんでいた。


「優真はこういうこと言えるようになりなさいよ。それが〝いい男〟ってもんなんだから」


 生まれ変わっても愛してる、なんて台詞、言う機会があるだろうか。できればない方がありがたい。


 俺はこの病気の女性に共感できなかった。彼女は「誰かと幸せになってくれてもいいよ」と言っていたが、好きな人が自分ではない誰かと幸せになるなんて考えられないし、考えたくない。自分の手で、自分の隣で幸せになってほしいと思う。


 この映画のように、自分のすべてをなげうってでも好きな人の幸せを願うのが本当の〝愛〟なのだとしたら、俺はまだお子ちゃまで、〝いい男〟ではないのかもしれない。


 エンドロールが終わると姉ちゃんは大きく伸びをした。


「うーん。まあまあよかったね。星4.5!」


 それは〝まあまあ〟ではないのでは?


「優真にしてはいいチョイスだったね」

「ん? 姉ちゃんが選んだんだろ?」

「あれ? 前に気になってるって言ってなかったっけ?」

「俺じゃないよ」


 見たことも聞いたこともない映画だった。間違いなく俺じゃない。


「そっか。じゃあ元カレかな? そう思うと評価下げたくなってきたかも」

「映画に罪はないだろ」


 外面がよく、無駄に交友関係が広いためか、有益な情報やちょっとしたいいことを俺のお陰と勘違いされることがよくある。昔からそうだ。ハンカチを拾ってくれてありがとうとお礼を言われたり、持ち込んだ漫画が先生に見つからずに済んだと感謝されたり、ボール磨きを率先してやったと褒められたり。どれもまったく身に覚えがないのでそのたびに否定することになり、そのたびになぜか謝られるのだ。いい人そうに見えるように振る舞っているだけで、俺は全然いい人ではないのに。


 湿ったティッシュを片付ける姉ちゃんに、できるだけ平坦な声で切り出した。


「師匠に訊きたいんだけど」

「いいよ。何?」

「もしも付き合っているときに他の人を好きになったらどうする?」


 師匠の目が鋭くなった。思わず居住まいを正す。


「浮気は許しませんよ」

「そういうんじゃないって。師匠は俺に、付き合えるときに付き合えって教えただろ? 付き合った後に好きな人ができたらどうするつもりだったんだろうって気になっただけ」


 本当はそれだけではなかった。間違いなく、野々村のことを意識していた。

 野々村に向ける感情が恋愛に絡むものなのかは俺にも分からない。でも、好きになってしまうのではないかという恐れがあった。


 智菜のことを大切に想っている。心の中では結婚も誓っている。そんな中で野々村を好きになってしまったら、俺はどうすればいいのだろうか。

 もちろん、答えは分かり切っている。それを師匠の教えとして胸に刻みたかった。


 師匠は得心がいったように頷いた。


「それはまあ、他に好きな人ができたって伝えて、きれいに別れるしかないね。こんな気持ちで付き合っていることが申し訳ない、本当にごめんなさいって話して。あ、でも、別れる前に別の子に手を出すのは絶対に許さないから」

「じゃあ、彼女と別の子を同じくらい好きになったら?」

「決まってるでしょ。先に付き合っていた方を優先する。後の子はすっぱり諦める」


 その言葉が聞きたかった。

 明日、野々村とオムライスを食べに行って、笑顔になってもらえたら、そこで俺はお役御免。野々村のことは忘れてしまおう。


 俺は晴れやかな気持ちで立ち上がった。

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