表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/55

浮気について考えてみた

本日は2話更新です。

「野々村紗代は記憶の魔女を探しているんでしょ? だったら、『魔女を見つけた』って言って連れてくればいいんだよ」


 星ヶ崎学園の食堂で、オタクくんは何の負い目も見せずにそう言った。晴れやかな笑みまで浮かべている。目的を達成するためなら手段は選ばない。感情よりも合理性を優先する。オタクくんとはそういう男だ。人の心はないのだろうか。


 姫路と別れた後、無駄足を踏ませた詫びとして昼飯を奢れとオタクくんに迫ったら、構内の学生食堂に連れていかれた。来客の身分で勝手に利用していいのか不安だったが、来客者向けの注意書きには駄目と書かれていないし、注意されたら出ていけばいいか、と楽観的に考え、行ってみることにした。

 星ヶ崎学園には直営のカフェテリアが入っており、三ツ星レストラン出身のフレンチシェフが料理長を務めているという。そんな漫画みたいな学校が現実にあるのかという話だが、実際にここにあるのだから仕方がない。


 授業が始まっているようで幸いなことに生徒の姿はなかった。教師か用務員か分からないおじさんが一人いるだけ。女子たちに囲まれて物珍しい目を向けられながら食べるのはちょっと嫌だな、と思っていたのでこれは助かった。


 メニューを見ていたらオムライスが食べたかったことを思い出し、ビーフシチューオムライスを注文した。ふわふわの半熟卵のオムライスに、牛肉がごろごろと入ったビーフシチューが掛かっている。濃厚な香りを嗅いだ瞬間にはもう美味いと感じていた。端の方をそっと崩し、スプーンの上に小さなビーフシチューオムライスを作って口に運ぶ。同時に悶絶した。まろやかなバターで味付けされたライスも、口の中でほどけるような牛肉も、ビーフシチューのがつんとくる旨味も、すべてが俺の想像を超えていた。まさしく最高級の一品。いや、品ではない。もはや芸術だった。俺は芸術を食べていた。

 スプーンが止まらず、美味い美味いと手を動かしていたらいつの間にかなくなっていた。ライス一粒はおろか、ソースの一滴も残っていない。空になった皿を見て、もうお終いなのかと茫然とした。


 そこにオタクくんのひと言である。余韻が台無しだ。思わず拳を握り締めてしまった。


 野々村を騙すような真似はしたくなかった。期待だけさせて裏切るなんてことをしたら、ただでさえ俯いている彼女がどうなってしまうか分からない。もし泣かせてしまったらと想像すると、俺まで憂鬱な気分になってくる。

 そのことをやんわり伝えると、オタクくんは冗談を聞いたように笑った。


「ここに魔女がいるのは噓じゃないんだから騙すわけじゃないよ。『記憶の魔女』とは言わないだけ。ほら、何の問題もないでしょ?」


 問題があるのはオタクくんの方だ、と思ったが、言っても無駄そうなので言わないでおいた。


「接点がある優真が誘う方が早くて確実なんだ。優真ならできる。僕は信じてるよ」

「勝手なこと言うなよ……」


 その後は来客用の吊り下げ名札を守衛さんに返して、三人で一緒に帰路に着き、各々自宅の最寄り駅で降りていった。どこかに遊びに行こうという流れにはならなかったし、俺もそんな気分じゃなかった。

 家に着いたのが十五時前。終日付き合わされる覚悟をしていたので急に暇になってしまった。勉強するにしても集中できなさそうだし、ゲームをするにしても起動が面倒。そんなわけで、ランニングウェアに着替えて外に出ることにした。


 もやもやしたときには走るのが一番。疲労で頭が空になり、走り切った後には充実感で気分が晴れる。中学の頃からよくこうしていた。最後に走ったのは去年の六月後半、部活の先輩が引退するまでだったろうか。

 コースは決まっていて、線路と並行するように住宅地を抜けていき、サッカースタジアムの外周を一周して戻ってくる。これで往復十キロ。ペースは早歩きと走りの中間くらい。タイムはいつも一時間を切るか切らないかといったところだ。


 およそ一年ぶりのランニング。以前工事中だった場所には歯医者が建っていた。見覚えのないケーキ屋ができているが、その前が何の店だったかは思い出せない。変化といえばそれくらいのもので、変わらない街並みが続いていた。見慣れた景色が迫り、後ろへと流れていく。風は熱を孕んで生暖かく、身体にまとわりついてくるようだった。


 体力が落ちているのか、思っていたよりも早く息が上がってきた。でも、これでいい。余計なものが振り落とされていく感じがする。

 いつの間には意識は自分の内側に向けられていた。ぼんやりとした思考が湧き上がってくる。


 オタクくんに野々村を星ヶ崎学園に連れてきてくれと頼まれてしまった。そんなの断ればいいと思うし、実際に口では断った。しかし、オタクくんはがっかりするどころか、得意げに笑みをこぼした。


「優真は野々村紗代を連れてくるよ。僕の勘がそう言っているんだ」


 何の根拠もない戯言(ざれごと)だ。俺が野々村を連れていく理由なんてどこにもない。野々村が処女かどうかなんてどうだっていいし、知ったところでどうしたいわけでもない。オタクくんの下らない願望に野々村を巻き込むのだって気が引ける。


 なのに、心のどこかでは野々村を誘いたいと考えている自分がいた。


 あの芸術的なオムライスを野々村にも食べさせてやりたい。あれを食べたら野々村だって笑顔になるはずだ。

 そんな想いがぐるぐると胸の中を駆け回っている。


 これが善意なのか下心なのかは自分でも分からない。


 善意は、もちろんある。だって、俺が誘わなければ野々村はあのオムライスを一生食べられない。三ツ星レストラン出身のフレンチシェフが作るオムライスは、来客パスがなければ目にすることも叶わないのだ。オムライス好きにとってこんなに悔しいことはないだろう。


 でも、それだけかと言われたら迷わず頷くことはできない。

 もっと野々村のことを知りたいと思う。笑ってほしいと思う。笑顔を見たいとも思ってしまっている。

 これは下心なのだろうか。


 いや、違う。そんな(よこしま)な気持ちなんかじゃない。


 俺には智菜がいるのだから、もしもいい感じになったとしてもそれまでだ。野々村との関係がクラスメートから友達に変わるだけ。俺が智菜を裏切ることはあり得ない。姉ちゃんを泣かせた男のような真似だけは、何があっても絶対にしない。


 だったら誘ってもいいのではないか。

 どうせ断られるのだろうし、気遣いで声をかけるくらいは許されるのではないか。


「そんなわけあるかよ……」


 乱れた呼吸に溜め息が混ざる。

 こんなものは言い訳だと本当は分かっている。言い訳を探しているということは、後ろめたい気持ちがある証拠なのだろう。


 どこからが浮気かという命題がある。この話題になったとき、智菜は「気持ちが動いたら」と答えていた。気持ちが動くから何かをしたいと思う、動かなければ何もしたいと思わない、という理屈だ。本当に何もないのであれば女友達と二人でご飯くらいはいいらしい。「ちょっと嫌だけど、仕方ないときもあるよね」と付け加えていた。


 一方、師匠は「恋人が傷つくこと、嫌だと思うことをしたら」と言っていた。俺は師匠の弟子なので、やっぱり師匠の考えに近い。気持ちがないからと言って他の相手とキスやセックスをしていいはずがないし、過激なことを言うと、パートナーがいるのに他の人とそういうことをしたら罰金刑や懲役刑でも構わないとすら思っている。他人を傷つけたら罰があるのに、一番大切にすると誓った人の心を殺して何も咎められないなんて絶対におかしい。だから、彼女がどう思うかを基準に考える。


 智菜は「ご飯くらいはいい」と許してくれているが、「ちょっと嫌」と言っていたなら、野々村と二人で食事に行くことは避けるべきだ。そもそも、智菜は俺が野々村に近づくことを嫌がっている。アウトかセーフかで言えば、まあ、アウトだろう。


 よくないことだとは分かっている。後ろめたい気持ちも自覚している。

 けれど――。

 俺は、独りという暗闇で塞ぎ込んでいる野々村を放っておけない。誰かの助けになっているのに悲しい顔をしているなんて納得がいかない。俺にできるのなら、手を差し伸べて暗くて苦しいところから引き摺り出してやりたい。


 野々村には笑っていてほしい。


 それが純粋な気持ちだった。自分の気持ちに噓は吐けない。


 脳に疲労が溜まり、なんだか投げやりな気分になってきた。

 難しく考えるのはやめだ。もう、これは善意だと言い張る。助けたいから助ける。もちろん浮気はしない。智菜に怒られたら謝る。それでいいじゃないか。


 それでも智菜の彼氏である俺が非難してくるので、賭けをすることにした。

 月曜日の放課後までに野々村が口を利いてくれたら誘う。いつも通り無視されてしまったら二度と誘わない。


 挨拶も交わしてくれない野々村が急に態度を変えるとはとても思えない。突然隕石が降ってくる方がまだ確率が高い。これだけ勝算がゼロに近ければ誰も文句は言わないだろう。

 我ながら無謀な賭けに出たものだ。チャンスはたったの一日。しかも教室には水上というお邪魔虫までいる。諦めろと言わんばかりではないか。


 しかし、どうやら神様は俺に諦めさせたくないようだった。


 そろそろスタジアムが見えてくるというそのとき、道行く人々の中に艶やかな黒髪を見つけた。白のブラウスに丈の長いスカートを合わせた後ろ姿。片手にレジ袋を提げ、俯き加減に歩いている。

 どうしてか、それが野々村だと分かった。


「野々村!」


 気づいたときには呼びかけていた。自分の声が心なしか弾んでいることに驚く。

 彼女は足を止めて黒髪を翻す。やっぱり野々村だった。

 大きく瞬きをして野々村が呟く。


「皆月、くん……」


 俺はバカな犬みたいに駆け寄っていた。野々村と話せる。それだけのことが嬉しい。表情が緩むのを抑えられない。


「奇遇だな。こんなところでどうしたんだ?」

「えっと……? 近くのスーパーに買い物に行っていただけだけど……」


 言われてようやく、ここが野々村のマンションの近くであることを思い出した。サッカースタジアムに向かう時点で想定しておくべきだった。


「そういえばこの辺りに住んでるんだったな。それは夕飯の食材か?」

「うん。お母さんに頼まれて……」

「あ、分かった。オムライスだろ」


 野々村が口元に手を添える。笑いそうになったみたいだ。

 すぐに表情を引き締めて野々村は頭を振った。


「ううん。今夜はハンバーグ」

「あれからオムライスは食べたか?」

「食べてないよ……」


 怒られるとでも思ったのか、野々村はちらりと俺の顔を窺い、目を伏せる。

 運は俺に味方していた。好物のオムライスの話をしたのに、野々村はあれからずっとお預けをされている。ということは、だ。オムライス欲は最高潮に達しているに違いない。


 先ほどまでの葛藤も忘れ、俺は笑顔で誘っていた。


「野々村、一緒にオムライスを食べに行こう。めちゃくちゃ美味しいところを知ってるんだ。食べないと絶対に後悔するぞ」


 この言葉だけで野々村は笑ってくれると思っていた。

 けれど、その反対だった。彼女は息を止めるように唇を結び、大きく目を見開く。その瞳は小刻みに揺れ動いていた。


 どうしてそんな顔をするんだ?

 俺はただ、野々村に笑顔になってもらいたいだけなのに。


「嫌だったか?」

「嫌じゃ、ないけど……」

「じゃあ行こう。ちょっと遠いけど、それだけの価値があるオムライスなんだ。来週の放課後でどうだ? 火曜から金曜ならどこが空いてる?」


 野々村の表情には気づかないふりをして明るい声を出す。少しだけ早口になってしまった。

 野々村がどんな事情を抱えているのかは知らない。でも、だからこそ、野々村はあのオムライスを食べるべきだ。オムライスで悩みを吹き飛ばすんだ。そんな思いを目に込めて返事を待つ。


 長い逡巡(しゅんじゅん)を挟んで、野々村は絞り出すように言った。


「じゃあ……火曜日」

「よし。火曜日だな。約束だ。世界一美味いオムライスだから、楽しみにしておけよ」


 野々村の気が変わるのが恐くて、俺は一方的に告げると同時に駆け出していた。


 やった、という気持ちと、やってしまった、という気持ちが半々で同居している。野々村を誘えたことが嬉しい反面、本当に誘ってしまったことに動揺していた。智菜に対する申し訳なさもある。

 でも、後悔はしていない。俺は俺が正しいと信じることをやったまでだ。これで野々村が笑顔になれるのならそれでいい。それ以上は何も望まないし、誓って何もしない。


 迷いを振り切るようにペースを上げた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ