プロローグ
「野々村紗代です。誰とも親しくするつもりはありません。わたしのことは放っておいてください」
隣の席の彼女はひと息にそれだけ告げて座ってしまった。教室は水を打ったように静まり返り、浮ついていた空気は吹雪に見舞われたように凍りついた。
クラスの全員がぽかんとした顔で彼女を見つめる。俺もその一人だった。
新しいクラスで仲良くやっていきたい、と意思表示するだけの自己紹介の場でわざわざ喧嘩を売ったのだ。きっと、毅然とした態度で無視を決め込んでいるか、誰彼構わず睨みつけているのだろうと想像していた。
けれど、違った。野々村というらしいその女子は唇を噛んで俯いていた。切れ長の目の淵には涙が滲んでいるようにすら見える。
どうして野々村があんなことを言ったのか。何が野々村にそうさせたのか。俺には分からない。話したこともないのだから分かりようがない。ただ、今の言葉が本心ではないことはその表情が物語っていた。
机から身を乗り出してそっと野々村の顔を覗き込む。
お隣さんが泣きそうな顔をしているのに、見て見ぬふりをするなんて俺にはできなかった。ここで何もしないようでは〝いい男〟にはなれないのだ。気の利いた言葉で野々村を笑顔にして、ついでにクラスにも和やかな雰囲気を作りたい。できるかはともかく、やれるだけやってみようじゃないか。
そんな俺の決心を察してくれたのか、遠くの席から仁の声が飛んできた。
「先生、皆月くんが野々村さんに見惚れてまーす」
おちゃらけたそのひと言で凍っていた空気が溶かされ、くすくすと笑い声が漏れ聞こえてきた。突然注目を浴びてしまい、頬が熱くなるのを感じる。
言われて気づいた。野々村はたしかに整った顔立ちをしている。鼻と口が小さくて、目尻がちょんと上向いていて、輪郭がシャープで、長い黒髪は溜め息が漏れそうなほど艶やかで、なんだか高級な猫みたいだ。真冬の夜のように暗く冷たい表情を貼りつけているけれど、笑ったら相当可愛いだろう。
せっかく仁が打ちごろのトスをくれたのだ。ありがたく決めさせてもらう。
姿勢を正し、へらへらと笑って頭を搔く。
「すみません、見惚れてました」
手応えあり。男子を中心に笑いが巻き起こり、さっきまでの冷たい空気はきれいに吹き飛ばされた。口笛が吹かれ、拍手が打ち鳴らされる。「付き合っちゃえよ!」などと囃し立てる声もあった。
クラスに温度が戻ったのだから申し分ない成果だ。が、内心では冷や汗を搔いていた。背中から殺気を感じる。後で智菜に謝っておかなければ。
ところが、俺の行動を面白く思わなかった人物がもう一人いた。
自己紹介が再開され、隣の列が終わって目の前の席の小柄な女子が立ち上がる。小柄というか、すごく小さい。服装次第では小学生に間違われても文句は言えないだろう。
「水上春香です。去年は四組でした。部活はバスケ部に入っています。これからよろしくお願いします」
彼女は緊張した様子もなくはきはきと喋った。俺も称賛の思いを込めて拍手を送る。
問題はその後だった。水上は棘を含んだ声で先生にこう提案した。
「先生、すぐに席替えをした方がいいと思います。皆月くんは背が高いので、後ろの人が可哀想です」
名指しでの攻撃。本当に後ろの人が可哀想だと思って、というわけではないことは明らかだった。なぜなら、振り返った彼女が親の仇でも見るような目で俺を睨んでいたから。
もしかして水上が野々村にあんなことを無理やり言わせたのではないか、という考えが頭をよぎったが、憶測でものを言うわけにもいかない。まあ、怒っている相手には突っかからないのが一番だ。師匠もそう言っていた。
憎しみの視線に気づかないふりをして後ろの席に身体を向ける。仁のお陰で俺は〝いじってもいいキャラ〟に認定されているはず。遠慮なく答えてくれるだろう。
「もしかしなくても、俺って邪魔?」
わざと深刻そうな顔を作って問いかける。皆月優真の秘技、顔芸である。
「黒板は見えない、かな」
「言いづらいけど……かなり」
「衝立としては最高」
「おい、誰が衝立だ」
後ろの女子二人、男子一人は物怖じせずにそう言ってくれた。すぐ後ろの女子は緊張してか、睫毛が震えている。俺、身体がデカいから恐いよね。ごめんね。
くるりと正面に向き直り、その勢いのまま挙手をする。
「先生、後ろの三人が可哀想なので俺も席替えをした方がいいと思います!」
「えっと、皆月くんもそう言うのでしたら、そうしましょうか。自己紹介が終わったら席替えをします」
新任の女教師、松坂先生はちょっとおどおどしながら宣言した。席替えという学校お馴染みのイベントにクラスが湧き立つ。
水上の狙いは分からないが、これで目的は達成されたはずだ。とはいえ、どうだ満足か、なんて勝ち誇るつもりはないし、ナイス提案だ、などと厭味を言うつもりもない。一方的に嫌われているのは癪だけど、『君子、危うきに近寄らず』だ。ここは穏便にスルーしよう。
と思っていたら、
「チッ」
舌打ちされた。見ないようにしていたから投げキッスだった可能性もなきにしもあらずだが、まあ、うん、舌打ちだろう。俺の何がそんなに気に入らないんですかね。
喧噪に紛れて隣を盗み見ると、野々村は石のように固まって机に視線を注いでいた。自意識過剰かもしれないが、俺を視界に入れまいとしているようにも見えた。
こうして、俺の高校二年生の初日は見知らぬ女子二人から嫌悪されるという悲しいものとなった。師匠、〝いい男〟への道のりは遠いようです。
ちなみに、自己紹介で「視力は2.0です」と付け加えたらウケた。本当は1.2だけどね。
毎日1話ずつ更新していく予定です。
よろしくお願いします。