第五話 日常 ~せいかつ~
その夜、ユリはなかなか寝付けなかった。
自分のへそに手をやる。手を突っ込まれたはずなのに、血は出ていない。痛みももう収まってきている。しかしそんなことはどうでもよくなっていた。
それほど広くもない部屋で、少女二人が同じ布団に入っている。
ミカドはパジャマを着ない主義らしい。下着姿の彼女は目を瞑り、眠っているようだった。
絹のようなきめ細かい肌に、そっと触れたくなる。
肌は繊細ながらも、その薄皮の下に力強い筋肉があるのがわかる。華奢でも、彼女の中に熱いものがあるのがわかる。触れば、彼女の強さを分けてもらえるだろうか?
(いやいやいやいや!)
ユリはかぶりを振った。
もはやイケメンと言っても差し支えない美少女が、しかもヒーローが、怪物から自分を守ってくれる。まるで漫画の中の世界だ。
あまりにも出来すぎている。まるで誰かに仕組まれているかのようだ。
こんな夢のような機会、自分にあっていいのだろうか……。
お泊り会なんてほとんどしたことがない。オロチ一族の娘というだけで妖術を使うんじゃないかと囁かれ、クラスメイトには距離を置かれていたし、ユリ自身も他人に肌が触れ合う距離まで近づくのを許しはしなかった。
しかし今、二人は近くにいなければならない。
妖怪に襲われる。この布団の外は厳しい世界が舞っている。しかし二人がいるこの空間は、安全と言い切ることができた。
(この人、あたしをとことん幸せにしてくれるんだろうか……)
ユリは考える。白馬の王子様なんてちゃんちゃらおかしい、けれど、超絶強い女の子なら信頼できる。顔だってユリの好みだ。
彼女はこれからもずっと、ユリを守ってくれるのだろうか?
(そうだったら、すごい嬉しい)
彼女の人生観におけるターニングポイント。
恋人、に今すぐなろうとは思わない。そこまでユリは貪欲ではない。
少しずつ互いに距離を縮めていけたら、と思う。
こんなに近くにいるのに、ミカドは簡単に他人に心を開かないオーラがあった。近寄りがたい何かがあった。
自分は他人の心の機微に敏感だと思う。ミカドの心を覆っているものが何なのか、ユリは知りたいと思う。
そして自分も疲れからか、気づかぬ間に眠りに落ちていった。
・
翌日。
目覚ましの音でユリは起き、キッチンから漂う良い匂いに気づいた。
居間まで行くと、ミカドがエプロン姿で味噌汁の味を見ている。
こちらに気づいたようで、ミカドは振り返る。怜悧な目が再びユリを見据えた。
「起きたか。飯にしよう。ちょうどご飯が炊けたころだ」
「朝ごはんまで作ってくれたの!」
「一緒に住むんだから、当たり前だろう?」
感激の目でユリはミカドを見つめた。
まるでスパダリ。身の回りのことは何でもやってくれる。こんなカレシがいたら筆頭ランキングだろう。ミカドは女の子だけど、ユリはそれでも構わなかった。
(ああ、あたしって……)
まるで乙女ゲーの主人公になったよう。
もし人生が乙女ゲーであるなら、この後色んなイケメンが言い寄ってくるのだが。どう対処すればいいのだろう?
いやいやいや。ユリはかぶりを振る。そんな都合よすぎること、あるわけない!
「自分の分は自分でよそえ。冷めないうちに食べよう」
ユリは頷いて、自分がパジャマのままなのに気づいて、慌てて制服に着替えに寝室に戻った。
朝食は焼き鮭、味噌汁、白米、生野菜のサラダ。シンプルではあるが、朝に食べる分には重すぎない、栄養バランスの取れた配置だ。
「本当は玄米の方がいいんだがな。週末に買ってこよう」
「それって、二人でショッピングってこと?」
「そうなるな」
ユリは嬉しくなってしまう。
ミカドの美貌や気遣いもさることながら、何より、自分が心許せる相手を見つけられたのが一番嬉しい。
味噌汁を一口飲む。
今までにない、鼻に抜けるような爽やかな香りがあった。ユリは驚いて訊いてしまった。
「これ、何が入ってるの?」
「紫蘇の葉だ。刺身の敷物になっている、あの葉だ。味噌汁に入れると高原の風のような、爽やかな味がする」
「へぇ……。あたし、あの葉っぱ嫌いだったけど……好きになったかも」
ミカドは料理にも精通してるんだな、と思った。今度、ミカドに料理を習おうかとユリは思った。
焼き鮭の皮もべとつかず、パリパリに仕上げてある。その日、ユリは今までで最高の朝食を味わったのだった。
後片付け、戸締りをし、二人で登校する。その感覚が新鮮だった。
・
「え~、転校生を紹介します」
やる気のない担任が名簿を読み上げる。
生徒たちは眠そうな顔をして、中にはベタ寝している奴もいる。女子高とはいえ、お嬢様、と言うべき生徒は一人もいない。ここはそういう学校だった。
「土屋ミカド君。入りなさい」
すらっとした華奢な脚が教室に入ってくる。ポニーテールが教室の窓から入ってくる風にふわりと浮き上がる。
王子様のような横顔を見た瞬間、女子たちは色めき立った。先程のだらけた態度が嘘のようだ。
「ミカドくん、かっこいい名前!」
「どこに住んでるの?」
「部活は決めたの?」
ぶつぶつと何か言い続ける担任を無視して、女子たちがミカドの周りに集まってくる。
ミカドはにこやかに笑いながら、「ああ、それはね」と一つずつ質問に答えていった。
「まだこの学校に来て、よくわからないことも多いんだ……よかったら、誰か教えてもらえるかい?」
ミカドのその言葉に胸を貫かれたのか、女子たちが次々に手を上げる。
「私、購買部のおすすめメニュー知ってる!」
「私だって学校の秘密スポット、教えてあげるんだから!」
「それより、いい身体してるわね! 陸上部に来ない?」
それらにミカドは愛想笑いとは思えない、太陽のような笑みで返す。
ユリは教室の片隅で居場所を失っていた。自分がミカドの関係者だと知られたら、嫉妬の矢が一斉にこちらを向くだろう。ミカドもそのことは知っているようで、ユリの名は口に出さなかった。
そしてミカドの振る舞いは、文武両道と言って差し支えない。授業中の質問は教師がたじろぐほど全て堂々と、正しく回答する。バスケでも長身を活かしたプレーを見せ、パスを回された直後から一人で全抜きし、ゴールを決めた。体操服を着た、汗にまみれた身体でさえ、彼女のスレンダーな身体は輝きを放っているように見える。
ミカドが何かするたびに女子たちから黄色い声が飛ぶ。一日にして学園の王子様となってしまった。
きゃあきゃあ言われる女子たちにまんざらでもない顔をするミカドに、次第にユリは怒りを感じ始めていた。
ミカドについて下手なことが言えず、肩身の狭い思いをしている。
(あいつ、あたしを幸せにするんじゃなくて、滅茶苦茶にする奴かもしれない……)
何故だかそう思えた。
ミカドに、他の女の子に靡いてほしくない。しかし焦燥感は、彼女が他の子と話すたびに募っていく。ミカドは人付き合いにおいても完璧な人間だ。
自分なんかとは、釣り合わないくらい……。
しかし、ミカドの寝顔を知っているのは自分だけ。それだけの優越感で、ユリは学校を乗り切り、ミカドと共に帰路に就いた。放課後なおも追いすがってくる女子たちを撒くのが一苦労だったようで、校門から少し離れた地点で二人は落ち合った。
・
「あいつが巫女、神の器……ねぇ」
路地裏から、帰路に就く二人を見ている人物がいる。
頭に黒い布を被った、シスターの服。だがスカートの丈は短く、腰のホルスターには二丁拳銃が収められている。金髪のカールがかった髪。背は低いが、年齢はユリたちとそう変わらないように見える。
「しかし、隣の女……あれが天叢雲剣の女だろうな。だとしたら社は何を考えている?」
少女はぶつぶつと言いながら、腰の拳銃を抜き、弾を込めた。
その弾はミカドが持っているのと同じ、隕石から作られた弾『メギド』だった。
西洋魔術協会から派遣された彼女……流カルマは知っている。岬ユリにまた新たな怪異が迫りつつあることを。