第四十話 彼方 ~はるかとおくに~
真っ白な空間の中で、ミカドは『調律者』と対峙していた。
完全な神の器となった自分が、真に神を宿す身となるか試されているのだとミカドは思った。
「私を呼んだ斉天大聖は死んだ。それにより私は天叢雲剣を持った、神の器であるお前に従うことになる」
ミカドの目の前にあの仮面がいる。ぽっかりと空いた目は相変わらず感情を見せない。
「私をその身に宿し、お前は何を望む?」
「何も望まん」
きっぱりとミカドは言った。
ミカドには世界を守ろうとする思いはあっても、変えようという気はさらさらない。
無欲、というわけではない。単に興味がないのだ。
「岬ユリが安心して暮らせる世界にしたいとは思わないのか?」
「それはあいつが望まないだろう。あいつは施しなど受けず自分の足で立って歩きたがる、そういう女だ」
「そうか。信頼しているのだな」
仮面はどこか安堵したような口調になる。
「だが完全なる神の器となったお前は、人の世にはいられない。五十六億七千万年後に生まれ変わり、破滅に至るこの世を救うことになるのだ」
「それもアカシックレコードに刻まれた運命とやらか?」
「そうだ」
ふっとミカドは笑った。
「私は運命から逃げない。逃げたこともない。だからなんの恐怖も後悔もないさ」
「そうか」
仮面の調律者はすうっと上空に上がっていく。
「お前と話すのはここまでだ。それだけの覚悟があれば、私が干渉しなくてもやっていけるだろう」
「お前はどうするんだ?」
「もう一人の少女に会いに行く」
「そうか。私からよろしくと伝えておいてくれ」
仮面は空中に溶けるように消えていった。
ミカドは一人、目を瞑る。
今まで熾烈な戦いを繰り広げてきた。ほんの少しだけの休息を、彼女は必要としていた……。
・
(私は死んだの……?)
斉天大聖は一人、真っ暗な空間で眠りについていた。
何も見えない。しかし奇妙に温かい闇が彼女を包んでいる。
(私は、私は一体何のために戦ってきたの……)
斉天大聖がそう思ったとき、不意に白い着物を着た、自分とそっくりな外見の少女が目の前に現れる。
それは美猴王だった。
「今更なんの用?」
「私はあなた。あなたは私。あなたに取り込まれたとき、魂に私の一部が混ざったの」
美猴王はそう返答する。くっと斉天大聖は自嘲した。
「自分自身に慰められるなんて。私も堕ちたものね」
「私が存在したのは、あなたを救うためだった。今ならわかる。自分を一番理解できるのは自分だもの」
美猴王は横たわる斉天大聖の頭をぎゅっと抱きしめた。
「辛かったわね。苦しかったわね。あなたが闇に飲まれたなら、私は光となってあなたと一つになる。陰陽一体となった魂は、神とともに宇宙に行く。宇宙の果で永遠に生きるのよ」
「……でも私は、何もできなかった……」
「いいえ。あなたは運命に抗おうとした。それ以上に誇らしいことなんて、ないわ」
「そう……」
二人の頭上に仮面が現れる。そして空中からぬっと出た手が手招きした。
「あの人が呼んでる。行きましょう」
美猴王は斉天大聖にくちづけをした。
斉天大聖は初めて安心感を覚える。自分を理解してくれる他者。それもまた、自分と同じ属性を持つ存在なのかもしれない。美猴王は切り離されてから経験を経て、斉天大聖とは違う存在となったが、根本の部分は彼女と同じだ。
そして二人は渾然一体となり、魂だけの存在となって神のもとへ飛んでいった。
・
再び真っ白な空間。
岬ユリの前に仮面が現れる。
「……あんたの顔、見たくないんだけど」
毒づくユリに調律者はため息をついたようだ。
「なら手早く結論だけ言おう。土屋ミカドは人の世には戻れない。星の救世主となる運命がまだ彼女にはある」
「あたしはどうなるの?」
「人の世に戻れ、岬ユリ。それが土屋ミカドの望みだ」
ユリの手には天叢雲剣がある。
調律者は手を伸ばし、それを受け取ろうとした。
「それを返してくれ。その剣がなくなっても、お前は死ぬことはない。身体を再構成し、常人と変わらなくする。そうすれば天魔波旬と出会う前の生活に戻れるだろう」
ユリは鞘に収まった剣をぎゅっと掴んだ。
このまま普通の世界に戻る? 否。ミカドが戻ってこないなら、彼女の中で結論は出ていた。
「やだ!」
ユリは剣を抜き放ち、仮面に斬りかかった。
「ミカドのところに連れていきなさい!」
仮面とユリの間の時空が斬り裂かれ、ゲートが開く。不安定な時空に亀裂が入り、別の時間軸への扉が現れたのだ。
「……であれば、その穴を見るがよい」
仮面には傷ひとつついていない。ユリは仮面が指差す亀裂の中を覗き込んだ。
その空間亀裂からは、滅びた地球が見えた。黒い地肌を晒す大地、くすんだ太陽。そして地平線の向こうに立つ人影。
「……ミカド!」
それは確かに巫女姿のミカドだった。
矢も楯もたまらずユリは亀裂に飛び込んだ。
そしてごつごつした大地を駆けていく。調律者はそれを見守るのみだった。
「……これはアカシックレコードにはなかった。運命を受け入れる者、そして運命に抗う者か……。滅びと戦うことになるのは同じだが」
空間亀裂が自然に閉じていく。調律者はそれ以上干渉しようとしなかった。
「私はこの星から永遠に去ろう。運命と戦うのはお前たちだ。この先どうなるか、私にもわからないが……。お前たちに幸があることを願う」
そう言い残し、神は消えた。虚無の空間に何も残らなかった。




