第三十六話 起死回生 ~はんげき~
突然人の姿に戻ったミカドに、斉天大聖は驚きを隠せない。
瞠目し、口をわずかに開けている。何が起こったのかも理解できていない。
「こんなことが……」
「奇跡を起こすのも人間のなせるわざだ」
涼しい顔でミカドは言う。さっきまで囚われの身だったのが嘘のようだ。身につけた巫女服にも全くよれがない。
斉天大聖の手は震えていた。怒りを抑えきれない、そんな様子が見て取れる。彼女の背中から赤いオーラが出現し、恨みを放つように広がっていく。
「人間ではないあなたが、人間面するな!」
薙刀がミカドに振り下ろされる。その刃から気の束が伸び、叩き潰さんとした。ユリに向けられたものより激しい怒りが伴い、まるで巨大なハンマーのようだ。
ミカドはユリの肩を抱き、とん、と跳躍する。
ミカドがいた場所に気が叩きつけられ、がぁんと音を立てた。
白い壁が叩き壊され、飛散する。粉々に砕けた壁は、もはや砂となっていた。
ユリを離れた場所に連れていくと、ミカドはユリの持つ天叢雲剣を手に取った。
「私に剣を託してくれ」
ミカドの温かみある、安心感のある声が戻ってきて、ユリはやっと安堵した。
そうだ。この不敵な笑み。誰も心配させまいとする、嫌味なくらい完璧人間。それでこそ、あたしが好きになったミカドなんだ。
「言われなくてもそうするつもりよ。何を今更」
ユリも口の端にうっすら笑みを浮かべ、剣の柄をミカドに握らせる。
二人の指が触れ合い、思わずユリはミカドの指をきゅっと握った。
「必ず勝ってよ」
「無論」
ミカドは指を絡め、握り返した。
ユリの心を安心感が包み、思わず彼女はその場に崩れ落ちてしまう。今まで無理してきたぶんが、いっぺんに押し寄せてきて、立っていられなかったのだ。
ミカドは踵を返し、跳躍して斉天大聖のもとへ向かう。
斉天大聖は二人を追いかけるでもなく、その場にじっとうずくまっていた。
斉天大聖は内なる怒りを押しとどめ、ミカドににんまりと笑った。その笑みは恐ろしい形相で、口から覗く歯は肉食獣のようだ。
ミカドは身構える。斉天大聖は歯の隙間から押し出すように、呻きのような声を発した。
「あなたに手ひどくやられたまま、私が何の策も練らないと思った?」
ミカドはふんと鼻を鳴らす。
「何でも仕掛けてみろ。私にはお前を倒す以外の未来などない」
「そんな未来は閉ざしてあげる」
斉天大聖はうずくまったまま、そのオーラを増大させていく。殺気を伴い、可視化された赤潮のようなオーラは鮮血が広がっていくかのようだ。しかしミカドは動じない。
「うふふふふ……」
斉天大聖の肉体は徐々に変化していく。
めきめきと、花嫁衣裳を内側から破り、その肉体は倍以上に膨らんでいった。
それとともに禍々しいオーラが圧を増す。ずっ、ずっ、とねちっこく、周囲を威圧するようなオーラが広がっていき、常人ならば息さえできない重苦しさがあたりを包んでいった。
もはや肉塊と化した斉天大聖の身体は、ぐよぐよと粘土のように新しい形を作っていく。
あまりにグロテスクな光景に、ミカドは剣を振るう気にもなれなかった。どのみち筋繊維が繭のようになっており、刃物は通らないだろう。
やがて肉の繭が裂け、鮮血と共に斉天大聖は再びこの世に生まれ落ちた。
「見なさい。これが美しくなった私。私の内面、それを表現する力で成した」
完全体となった斉天大聖は、もはや人間の姿ですらない。
それはグロテスクな聖書の天使のようでもあり、中国の神話に現れる動物と一体になった女にも見える。下半身が鱗を持つ馬、上半身は羽毛に包まれた女の裸体。そして側頭部と腕に無数の眼を持っている怪物だ。
麒麟の下半身を持つケンタウロス。それが形容するに相応しい言葉だった。
上半身の羽毛が逆立ち、自らを濡らしていた羊水のような液体を弾く。ぴんと羽毛が、鳥の羽のように膨らみを持った。
「ああ。お前は美しいよ」
ミカドは嘆息する。
斉天大聖がある種の神々しさを放っていることは否定できない。神話生物の威厳。その雰囲気を彼女は身にまとっていた。
「しかし同時に醜い。お前は人の精神を持つ者が目指すべきではない場所に達してしまった」
ミカドは斉天大聖に歩み寄っていく。その顔は真剣。しかし同時に憐憫をも秘めていた。
斉天大聖は今まで以上に発達した気をもって、右手の薙刀に力を込めた。
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「あっちむいてぷん!」
こぉん、と音がして亜空切断がカルマに迫る。
カルマは縦横無尽に白い空間を跳びまわり、見えない足場を踏んで、その位置をだいたい記憶していた。
足場自体は少なく、実はそれほど広くない空中にまばらにあるのみ。この空間は単純な構造になっているようだ。斉天大聖はユリと直接会うのが目的で、ここはカルマを閉じ込める役割しかないらしい。
嘗めやがって、とカルマは思った。
だぁん、だぁんと二発撃つ。
「ひゃあっ!」
仮面たちはおどけて逃げ惑う。自分たちを狙う銃弾などさもお見通しのようだ。そして奴らは、速い。
しかしカルマは、その銃弾が何かに弾かれるのを見逃さなかった。
それは見えない足場。それに跳弾した弾が、明後日の方に飛んでいった。
そうか。この足場は銃弾を弾く。
しかしカルマがそれに気づき、次の手を思い浮かべるより先に仮面たちが戻ってきた。
「あっち向いてぷん!」
仮面たちが指を合わせてカルマに向ける。
カルマは今いる足場からわざと落ち、自分に向けられた指の向きから逃れた。間髪入れず、こぉんと音がして、空間が切り取られる。
新しい足場に飛び乗り、カルマは仮面たちの額に照準を合わせた。カルマの脳細胞が激しく回転する。今まで把握した足場。それを利用し、この素早い仮面たちを一網打尽にする方法はあるのか。
その思考は詰将棋をするより速く、カルマの脳裏に答えを導き出す。
あるじゃねぇか。起死回生の手。にぃ、とカルマは笑った。
今度は外さない。ここしかない。
しかし仮面たち四人が体勢を立て直し、指を向ける方が早かった。
「あっちむいてぷん!」
足場にしっかりと立ったカルマは、今度はかわせない。
瞬きの間に、カルマの左手がえぐり取られた。切り取られた皮膚は焼け付き、血の一滴も滴らなかった。
一瞬後、だぁんとカルマが右手の銃で一発撃った。




