第三話 邂逅 ~であい~
我を忘れて走っていたユリは、いつの間にか自分が別空間にいることに気づいていなかった。
逢魔が時。それは夕方のほぼ数分の出来事のはずだ。それが今、三十分以上も続いている。
町並みがやや歪んでいくことに、ユリは数百メートル走ったあたりで何かおかしいと感じ始めた。
家々は捏ねた粘土のようにねじれ曲がり、木々は不自然に折れ曲がっている。その頽廃的な光景は、まるで悪夢に迷い込んだかのようだ。
ユリは前方に威圧感を感じ取り、急停止する。
夕日に背中を照らされ、体全体が影になる形で『それ』は立っていた。
ユリと同じ制服。あの首を吊っていた少女、ヒガサだ。やはり生きていたのか、と最初は思った。
しかし異様なのは、その背中が妙に盛り上がり、肌がぶよぶよで死人の色をしていることだった。白目は煮た魚のそれで、鋭い牙の覗く紫色の唇からよだれが滴っている。
その様は、まるで地獄の鬼だ。背骨が大きく曲がった、身長二メートルの餓鬼だ。
「あぁあぁ……」
亡者のうめきをヒガサは漏らす。
「ひいっ!」
ユリは恐ろしさのあまり、へたりと座り込んでしまった。
この異様な空間は、ヒガサ……もとい、ヒガサの死体に乗り移ったものが仕組んでいるに違いない。誰にも助けを求められない。
ヒガサの形をした『もの』は、ずるり、ずるりとユリに歩を進める。
逃げなきゃ、ユリはそう思った。
だが、どこに? この空間に逃げ道があるはずがない。逢魔が時がずっと続くここは、人間界とは隔絶された空間なのだ。
じりじりと迫ってくる怪物にユリは、絶望の顔を向けるしかなかった。脚がガクガクと震え、生まれたばかりの小鹿のようになっていた。
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ミカドは疾駆し続けた。脇道のない一直線の歩道は、ユリが他に行き場のないことを意味している。
走り続けていると、前方に二つの人影が見えた。
絶望している顔のユリに、怪物がじりじりと近づいている。その様は獲物が怯えている様子を楽しんでいるかのようだ。
ひゅっ、とミカドは跳躍する。怪物はようやく迫ってくるミカドに気づいたが、時すでに遅かった。
どがっ、とミカドは強烈な蹴りを怪物にお見舞いした。
ミカドのすらりとした脚はアスリート並みに鍛えられており、見た目に合わない力強い一撃を加えたのだ。
「『ヒルコ』か……」
敵を蹴りざま、ミカドは呟く。『天魔波旬』の中でも下等な生命体だ。
ヒルコと呼ばれた怪物は吹っ飛び、数メートル地面を擦った。
しゅたっとミカドは華麗に着地する。
突然現れた珍客に、ユリは動揺を隠せないようだ。ヒルコとミカドを交互に見て、何が起こっているのか必死で考えようとしている。
ミカドはへたりこんでいるユリを見下ろした。
こいつが護衛対象。一見普通の女子高生だが、ミカドは事前に彼女のデータを教えられていた。
であれば、この場を潜り抜ける方法は一つ。
「おい、そこの女」
「はっ、はいぃ!」
ミカドが言うと、ユリはびくっと身体を震わせる。
この女が護衛対象なら、体内の『あれ』は既に形作られているはずだ。
「へそを出せ」
突然何を言われたのかわからないといった、ユリの当惑が伝わってきた。
「あの……どういうことですか?」
「へそを出せ!」
ミカドに強い口調で言われ、ユリは一層びくっとする。
そして無我夢中でセーラー服の裾をまくり上げ、へそを出した。
やや痩せ気味だが、良いラインの腹部があらわになった。へそは、腹部の下部中央につつましくある。生娘特有の柔肌が晒されていた。
「こっ……これでいいんですか?」
「ああ」
ミカドは震えているユリの肩を掴む。
えっ? えっ? と言いたげに瞬きを繰り返すユリ。
ミカドは彼女の肩を引き寄せ、へそに手をやった。
ずぶり。
ミカドの細い指が、ユリの小さなへそを押し広げていく。
あまりにも突拍子もない出来事に、ユリは真っ赤な顔で焦燥を隠せていない。
「あなた、何して……!」
ユリに構わず、ミカドは一心不乱に穴を押し広げる。
やがてへその穴に、ミカドの手が全て入ってしまった。
「痛っ、痛い……!」
激痛がユリを襲う。
へその中をまさぐるミカドは一心不乱に何かを探した。ユリは苦悶の表情を湛えながらも、初めての感覚を制御できずにいる。ミカドが指を動かすたびに、あっ、あっ、と呻き声が漏れてしまう。
「やめて、あなた、何なの!」
ミカドは何も答えない。言ったところで、この場でユリが理解できるとは思わない。
やがてミカドの手が、固いものに触れた。ミカドはそれを掴む。
「ううっ……」
ずるりと一気にへそから『それ』を引き抜くと、ユリは苦悶の声を発した。
「ああっ!」
大きくユリはのけぞる。ユリのへそから出てきたものは、血にまみれた長いものだ。
それは間違いなく剣であった。
ユリはぜいぜいと息をつき、自分の中から出てきたものを信じられない目で見た。
「あたしの……あたしのへそから、剣が……」
「ヤマタノオロチの血筋を引く者が代々体内に持つ、天叢雲剣。三種の神器の一つにして、天魔波旬と戦う武器だ」
ミカドが言うと、剣はひとりでに輝きを放つ。
剣にこびりついていた血がばっと飛び散り、その全貌があらわになった。
柄の部分に拳銃のトリガーのようなものがついている。その刀身は太刀のようでもあり、高貴さを放っていた。
ヒルコが起き上がり、ずりっ、ずりっと体勢を立て直す
「グァァァ……」
呻き声を発するヒルコを、ミカドは冷たい目で見ていた。
「魂のない死体に乗り移ったか。この程度の敵にはいささかオーバーキルだが、せっかく剣を使うチャンスだ。思う存分試させてもらう」
ミカドは剣を構えたまま、だっと駆ける。
高速で相手に迫り、その巨体を袈裟斬りにした。ヒルコの肩の部分がばっくりと割れ、緑色の血が噴き出す。
「グゥゥゥアアッ!」
ヒルコが叫んでも、ミカドは容赦しない。
続けて下から上へ、V字の斬撃を食らわせる。
ヒルコの両肩から夥しい血が溢れた。
ぎゃあお、ぐおうとヒルコはのたうち回る。
ミカドは間髪入れずその胴体を蹴った。
再びヒルコは投げ飛ばされ、空中に血の軌跡を描きながら、数メートル先に転がった。
ヒルコは上体を起こし、そのぎざぎざの口から長い舌が伸びる。しゃあっと蛇のようにミカドに迫る舌には、もう一つ口があり、牙がある。
ミカドはその攻撃を剣で受け止める。じゃりぃぃん、と火花が散った。しかしミカドは攻撃を受けきり、弾いた。断ち切られた舌が路上に転がり、しばらく生き物のように蠢いた。
「呆気ないが、これで終わりだ」
ミカドはポケットから何かを取り出す。
それは銃弾だった。金色の、鉛玉ではないオーラを放つ弾。隕石『メギド』から作られた銃弾だ。
剣の柄に一発、それをセットする。かちゃり、と音がした。
「グゥアアアアアアアアアアアアアア!」
両腕も舌も失ったヒルコが苦肉の策で突っ込んでくる。
しかしミカドは冷静に、迎撃する構えを取った。
ミカドは剣のトリガーを引く。柄の部分から紅蓮の炎が立ち上り、刀身の先まで達する。まるで炎の剣だ。
ミカドは襲い来るヒルコに、炎の剣で斬りつけた。
斬られたヒルコの身体に炎が燃え移り、その身体を焼く。浄化の炎は人外を滅する。
しゅうしゅうと蒸発していくヒルコの身体。
「クゥアアアアアア……」
無念の声を発しながら、ヒルコは消えていく。
かしゅん、と剣の柄から空薬莢が飛び出し、地面に転がった。
ヒルコは徐々に小さくなっていき、後には燃えかすだけが残る。
「ふん」
たわいもない、とミカドは心の中で思う。今ので剣の使い勝手はおおよそ掴んだ。
ミカドの手の中の太刀は、徐々に消えていく。空気に溶けていくようだ。
逢魔が時は終わり、夜の闇が訪れ始めた。
後方で見ていたユリは、ぼうっとしたままミカドの背中を見つめていた。