第二十五話 敗北 ~ふくつ~
阿鼻叫喚の地獄絵図。ミカドは目を見開いて、その様を神輿の上から見ていた。
人々が天魔波旬へと変化する。肉体のない天魔波旬たちの力が強まり、生きた人間に憑依できるようになったのだ。響き渡る絶叫、立ち込める血の匂い。それをどうすることもできず、天叢雲剣を持ったミカドは見ていた。
「生命があるべき姿へと変わっていく。闇に蠢いていた天魔波旬が地上へと上がっていくのよ」
斉天大聖がふわりと空中に浮き上がり、言う。
彼女の全身の気は昂り、大地と反発して浮かび上がれるほどになっていた。
「逢魔空間はいずれ世界全体を包み込む。そしてすべては『正しい』世界になるの。今までが間違っていた。『十二匹の猿』たちが生きていた星を再現するために、不要な生き物が暗闇の中で強いられることは許されてはならない。あなたたちが生きてきたのは、そんな不公平な世界なのよ」
「それでも、人は必死で生きてきた。人として生まれたのであれば、自分が善く生きられるよう、最大限の努力をせねばならない。まして異形の怪物に襲われて死ぬなど、あってはならない」
「人ではないあなたが何を言ってるの?」
斉天大聖が嘲笑する。
「『神の器』。人間の中にごく少数生まれる、神の遺伝子を受け継ぐ者。もはやそれは人間ではない。それがよりにもよってオロチの娘だなんて。『双子の妹』が気になって仕方ないでしょう? だからこそあなたは、『妹』を愛した。『妹』には真っ当な人間として暮らしてほしかった……そうじゃない?」
ミカドは無言。
「あなたたちの素性くらい全部わかるわ。双子として生まれ、別々に生きることを余儀なくされた。あなたちは似たような気の流れを持つ。そこで同年齢なので双子姉妹と仮定すれば、全てがつながる。まったく悲劇の姉妹ね」
斉天大聖は空中を一歩一歩進み、じりじりとミカドに迫る。
「最後の仕上げ。あなたを上空にいる神の依り代として使う。そうすれば神はずっと私のそばにいる。天叢雲剣を手にしようが、もう遅いわ。あなたと私の力の差は歴然。すべては私の手の中……」
逢魔空間の地平がどんどん拡張されていく、ように思われた。が、一瞬ぴりっと電撃が走るように、時空の拡張が止まる。
斉天大聖はハッとその方を見た。光のような溢れる力が、逢魔空間を押し返している。
「……社の連中め、遅いぞ」
ぼそりとミカドが言う。逢魔空間は、何かの力と拮抗していた。
それは、この地点にいても聞こえる祈祷の呪文だ。
社に仕える祈祷師たち。彼らが今、逢魔空間の周囲に集い、呪文を詠唱して、広がりを防いでいるのだった。
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逢魔空間が物化町から出ようとする水際。祈祷師たちがヘリで到着し、各々が定位置についていった。
白い服を着た祈祷師たちが物化町を円を描くように囲み、呪文を唱える。
こちらからは目に見えないが、物化町を覆っている逢魔空間の存在を感じられる。祈祷師の呪文は、それを抑える効果があった。
「ユリ……」
祈祷師の中に、ユリの父親はいた。
離婚したのも、社の本社にいる母と協議の末決めたことだ。ユリを捨てようと思ってしたことではない。ただユリには伝えていなかった。できればユリは、裏の世界と関わりなく生きてほしかった。幼少期からそんなものを教えたくなかったのだ。
自分たちはユリのために、ユリと離れることを決めた。ユリの体内にある天叢雲剣は、『神の器』である土屋ミカドと、それに比肩しうる人物でなければ制御不能だ。ユリの中の天叢雲剣が、祈祷師の父、社の母の力に呼応して暴れ出す可能性がある。だからこそ両親は断腸の思いで娘に一人暮らしを強いるしかなかった。
ユリの父は周りの祈祷師たちとともに必死で詠唱していた。中にいる『娘たち』が戦っていることは想像に難くない。だが、自分にできることは、これ以上被害が拡大しないよう食い止めることしかない。妻も社の本社で自分の戦いをしている。
皆頑張れ! 涙混じりにそう念じるしかなかった。
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逢魔空間が物化町より外に行かないことを悟った斉天大聖は、不敵な笑みを取り戻す。
「社の戦力はせいぜい、結界を張るくらいね……。土屋ミカド。あなたを前線に出してくる時点で、それが社の限界。自ら最後の手段を出してくるようなものよ」
「違う。私は可能性そのものだ。私は希望をもたらす者。そして悪を断つ者だ!」
「その可能性を私に寄越せ!」
がぁんと、ミカドの剣と斉天大聖の薙刀が鍔迫り合う。
斉天大聖は違和感を覚えた。ありったけの気を叩きつけたはず。それなのに、ミカドは対等に渡り合っている。
「あなた……神の力を使ってるの?」
「そうだ。上空にいるあいつの存在が私に力を与えている。『神の器』の特権だな」
斉天大聖はミカドをねめつける。
天叢雲剣から光が立ち上った。それは斉天大聖の気にも負けない、希望の光だった。
「ひとつ聞く。美猴王はユリを好きだと言った。なぜお前はユリを傷つけた?」
「祭りを進めるわけにいかなかった。それに、私はユリさんの顔じゃない、心に惚れたの。もしユリさんが醜い顔になっても、私だけは愛してあげられる」
「お前と美猴王は別人だな。あいつはそんなことを言う奴じゃなかった」
「死んだ人のことなんてどうでもいい、じゃない!」
斉天大聖はぶんと薙刀を振り気を飛ばす。
ミカドの光る剣は気の塊を切り裂き、雲散霧消させた。
ズバン! と連撃。ミカドの返す刃の一撃が斉天大聖を捉える。
ばっと牡丹色の衣装の下から、それより深く赤い血が迸った。
胸の傷を、斉天大聖は荒く息をつきながら押さえる。
二人の戦いを、上空の神はじっと無感動に見ている。のっぺりとした仮面は何も考えていないようにも、深い思慮があるようにも見える。
「……このまま何もせず負ければ、それが一番楽だったのに」
ぼそっと斉天大聖は言う。
何のことだ、という間に、一瞬で斉天大聖が目の前に迫った。
足の裏に気を溜め、それを爆発させて加速したのだ。懐を許してしまったミカドは、できる範囲でガードしようとする。
だが、斉天大聖は巫女服の裾に手を突っ込み、ミカドのへそを弄る。
指先に気を纏っているのか、ミカドはびりっとした感覚を覚えた。
そのまま指をへその中に許してしまい、指先がずぶりと腹にめり込んだ。
「ぐっ……ああっ……!」
ミカドは苦悶の表情を浮かべる。
腹の中がまさぐられる。そして斉天大聖は中にある硬いものを掴み、ずるりと引き抜いた。
それは鞘であった。金に縁取られ、天叢雲剣に見合う高級感を放っている。
「あっはっはっは!」
斉天大聖は無邪気な、しかし残酷さのある笑い声を上げた。
腹に気によるダメージが残り、体勢が維持できずミカドは神輿の上を滑り落ちる。その手からこぼれ落ちる剣を見逃す斉天大聖ではなかった。薙刀を放り出し、するりと剣を掴む。
斉天大聖は、かちん、と剣を鞘に納めた。
同時に地面に落ちたミカドの体に、上空の神が霧のようになって吸い込まれていく。
ミカドに埋め込まれた鞘が、ミカドの暴走を食い止めていたのだ。
そしてミカドは……その姿を大きく変える。彼女の周りにオーラが発生し、それに沿って新たな形が作られていく。
不死鳥の像。平等院鳳凰堂に飾られているのが似合いそうな、精緻な像とミカドは化した。
その像を抱えて斉天大聖は一人、地獄の町で高笑いをずっと続けていた。




