第二話 怪異 ~まがつもの~
セーラー服姿の土屋ミカドは、肩に鞄をかけ、左手にコンパス状の道具を持っている。
コンパスは一点を指したまま、引きつるように動き、一点を指していた。そこは一見普通のアパートだった。
ミカドは町に足を踏み入れてからずっと、違和感を覚えていた。この町は、どこか異様な雰囲気を感じる。どことなく寂れた商店街、灰色の町並み。人の営みが生み出す気力を感じず、まるで何かに生気を吸い取られているかのようだ。これではまるでゴーストタウンだ。
ミカドの目の前のアパートも例に漏れず、錆の浮いた屋根、剥がれている漆喰、壁を這う蔦。そうしたものが幽霊屋敷のようでもあった。
「この町には瘴気が漂っている……」
ミカドは呟き、眉をしかめる。
地下に閉じ込められていた天魔波旬たちが目覚めつつあると言うのも納得だ。本来邪を押さえつける『ハレ』であるべき町が、こうして力を失いつつある。その理由を早急に探らなくてはならない。
ミカドは意を決して、マンションの階段を上り始めた。スマホに何度かけても彼女は出ないが、護衛対象は二階の部屋に住んでいるはずだ。
自分が来る前に何事もなければいいが、とミカドは思わざるを得ない。今は彼女の無事を祈っていた。
・
「やだ……やだあっ! あんなもの見るなんて……」
下宿に戻ったユリは、ベッドの上で頭を抱え震えていた。
林で見つけた死体の顔が脳裏に染み付いて消えないのだ。死んだ人間を初めて見たショックで、ユリは錯乱状態になっていた。
「しかも……しかもあれ、動いてた……なんでえっ」
まるで死体の中に別の生き物が入り込んだような、そんな動きをしていた。憑依、と言った方が正しいのかもしれない。
死んだ女子高生の顔に、ユリは見覚えがある。二つ隣のクラスのヒガサだ。確か不良グループにいじめられているとの噂だったが、それを苦に自殺したのだろうか? 人間関係に敢えて首を突っ込まないようにしていたユリには、それ以上のことはわからなかった。
とにかく死体を目撃した以上、警察に知らせなければならない。それは市民の義務だ。
ユリは鞄の中のスマホを探す。
しかし、それがあるべき場所にスマホはなかった。
「あれ……あれっ?」
ユリは鞄をひっくり返す。文房具やノートがベッドの上に散らばるも、そこに薄い板はない。
さあっとユリは青ざめた。
「うそ……落としたっ? あそこに戻らなくちゃいけないの……?」
スマホは現代人にとって、いのちの次に大事なものと言ってもいい。あの死体が吊るされていた場所に戻ると思うだけで、神経がぞぞっと逆なでされるような気持ちになる。
「どうしよう……どうしようっ」
ユリがまた錯乱状態になっていた時。
ピリリリリ、と部屋中央の卓上に置かれた電話が鳴る。
こんな時に誰からだろうか。もしかして警察からのものか。
「はい……もしもし」
受話器を取り、何かにすがる思いでユリは聞き耳を立てた。
しかし受話器から流れてきた声は、この世のものではなかった。
「ア……ア……」
ガマガエルを押しつぶしたような声。
ユリが戦慄し、固まっていると、その声は次第に大きくなっていく。
「あぁあぁあぁあぁあぁ……」
地獄の底からの呻き声。ぎゃっ、とユリは叫んで受話器を取り落とした。泥のような声が耳にこびりつくようだった。
あれは間違いなく、死体に取りついていたものの声だ。ユリのスマホから家電にかけてきたのだ。
自分が狙われている、と悟るのに時間はかからなかった。なぜ? あの姿を目撃したからだろうか。理由はわからないが、こうして電話が来たということは、自分がターゲットにされているのは間違いない。
そんな時、ぴんぽーん、とチャイムが鳴る。
ユリの恐怖心は最高潮に達した。
・
(留守か……)
ミカドは前もってユリの情報を聞かされていた。
合鍵は持っている。先に入って、部屋の中を確認するべきだろう。
ポシェットから合鍵を取り出し、ミカドはがちゃがちゃとキーを回した。
きぃ、と音を立てて扉は開く。内部に明かりはあるようだった。
・
「は……入ってくる!」
ユリはチャイムの音に動悸を激しくした。
確か都市伝説で、家の前に迫ってきてチャイムを押してくる怪異がいた気がする。
窓の外を見る。ベランダから配管が伸び、一階まで続いていた。
「やるしか……ないか」
ユリは靴も履かず、ベランダに出て、配管に抱き着いた。
そのまま落下しないよう、するすると降りていく。勉強は苦手だが体育は得意だ。この程度、わけはない。
一階まで下りるや否や、ユリは走る。わき目もふらず全力疾走だ。汗がこめかみから後方に流れていく。
どこに向かうのか? それはユリにもわからない。とにかく、怪物から逃げたい一心だった。
逢魔が時の夕日が彼女を、町を照らす。
それが徐々に、ユリの周りだけ色が変わっていくのを、走っているユリ自身も気づかなかった。
ユリが走っているその先に、『それ』は待ち構えていたのだ。
・
ミカドが合鍵を使って部屋に入った時、中に人影はなかった。しかし少し前まで、誰かがいたような痕跡はあった。
「逃げたか……」
ふぅん、とミカドは部屋を観察する。
「電話に出なかったことといい、何か妙だな」
ミカドは胸騒ぎを感じる。彼女の直感は決まって当たるのだ。
ベッドの上に文具が散らばっていて、布団を触るとまだ温もりがあった。ベランダに続く窓が開いており、どうやらそこから出たらしい。
ひぃぃん……と手の中のコンパスが鳴る。
それは、『天魔波旬』が動き出した合図だ。
目の色を変え、ミカドはベランダに飛び出た。
縁を超えて二階から地上まで、ばっとジャンプする。超人的な跳躍。そして着地すると同時に彼女は走り出した。
オリンピックの選手以上の速さで、彼女は疾駆していた。