第四話 おねがい☆ティーチャー
がちゃり――。
重々しいSEとともにマホガニーの扉が開かれると、そこに『深窓の令嬢』が優雅に座って俺たちを迎え入れた。
「あら。こちらにいらっしゃるとは珍しいですね、美琴さん!」
涼やかなハリのある声が小鳥の歌声のように響き渡る。
俺だって『深窓の令嬢』なんて表現を使ったのははじめてのことだ。だが、まさしく言葉のとおりで、お屋敷の奥の奥でひっそり大事に大事に育てられてきた箱入り娘、そんな印象すら受ける可憐で儚げな少女だった。
みずみずしい肌は抜けるように白く、艶々と腰近くまで伸びた黒髪ロングとのコントラストが目に眩しい。切れ長黒目がちの瞳にはゆるくカールしたまつげがびっちりと生えていて、左端に小さな黒子が一つだけある薄い唇が、きゅっ、とエキゾチックな微笑みを形作っていた。
正直に言おう。
三次元も悪くないね。うん。
「ご無沙汰しております、お嬢様。こちらにお邪魔したのはですね、例の家庭教師候補がようやく見つかったからなのですよ。ただし、まだ本人の了承は得ておりませんが」
「そうなのですね!」
見目麗しいご令嬢は一声上げると、ぱっ、と表情をほころばせて勢い良く席を立ち、伝統的なチェック柄のスカートのぱりっとしたプリーツを押さえるように腰を折ってていねいにお辞儀をする。
「えっと。はじめまして。私、鞠小路凛音と申します。世間知らずですが、なにとぞ――」
「うぁ……! や、止めてくださいって! こ、こんなオタクにそんなごていねいな!」
まだ引き受けるなんて一言も言っていないのだが、向こうはすっかりその気になっているらしい。お嬢様が自然とかもしだす明らかに高貴なオーラに圧倒されつつ、オタクで非社交的な俺はしどろもどろになりながら自己紹介をした。
「俺――わ、私は多田野宅郎と申しますしがないオタクでございます二十八歳!」
「じゅ――十七歳ですっ! 鎌北清廉女学院に通う高校二年生でございますっ!」
あかん。
みこみこさんの悪影響で、つい年齢を名乗る癖が飛び出してお嬢様まで釣られとるじゃないか。ほんのりピンクに染まった頬も実に愛らしい。かわゆい。
「みこみ――いや、美琴さん? どこからどう見ても完璧なお嬢様じゃないっすか」
「だろ? だがな、そこが欠点でもあるのだよ。『完璧なお嬢様』という点が」
「んー? んー? 何でしょう?」
にこにこーとした表情を少しも崩さず、凛音お嬢様はハテナ? のマークをいくつも頭上に浮かべている。
「例えばだな……おほん。では、お嬢様にひとつ問題をお出ししましょう。よろしいでしょうか?」
「ええ、どうぞ」
そこでみこみこさんが取り上げたのは、脇にある机の上に置かれていた一冊のドリルだった。
表紙には『サルでもわかる! オタク・カルチャー入門編』と書かれている。それをぺらりぺらりとめくりつつ、この場にふさわしい問題を見つけ出したみこみこさんは声高らかにそれを読み上げた。
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問題:次はある国民的アニメの歌詞の一部です。□内にふさわしい語句を埋めなさい。
あんあんあん、とっても大好き□□□□□~♪
(私立小学校入試問題より抜粋)
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考えるまでもない。誰でも分かる。
こんなの、試験どころかクイズにもなりゃしないじゃないか。
だが――凛音お嬢様の反応は、俺の予想の斜め上を行っていたらしい。
いきなり真っ赤になってモジモジしはじめた。
「い……言えません! そんなヒワイな問題が小学校の入試問題だったのですかーっ!?」
「な?」
「な? じゃないっすよ。こちとら全く意味不明なんですが。……ちなみにお嬢様の回答は?」
「ど、どうしても言わせる気なんですか!?」
「だって、どこをどう間違ったのかがわからないと、俺にだってどうにもできませんし」
ううう、と呻きながら、『深窓の令嬢』は蚊の鳴くような小さな声でようやっと言ったのだった。
「――い――うい、です……よね?」
「……はい?」
「せいこうい、ですっ! はいっ、これで満足しましたか!? 初対面なのに……ううう」
「………………はい?」
せいこうい……?
はっ!?
性行為……だと……!?
そりゃひらがなで五文字ってのは合ってるけれども。なんだか『完璧お嬢様』の口から飛び出す単語じゃない上に、一文字たりともかすりもしなさすぎて、逆にこっちが泣きたくなったくらいだ。
「あのですね……。題材になったこのアニメ、夜の七時に放送してたんすよ? 食卓を囲んで親子で見るアニメなのに、いくら大らかな時代だったつっても、そんな大胆なカミングアウトぶちかます歌詞のわけないでしょうがぁ!!」
「だって……全くわからなくって……。ヒ、ヒントを! ヒントをくださいっ!」
「はぁ。仕方ないっすね。最後の二文字は『もん』です。これでわかりましたよね?」
「はい!」
ずびしっ! と勢い良く手を挙げる凛音お嬢様を指すとこう答えてくれた。
「ずばり! 『好きだもん』ですよね! 今度はかなり自信がありますっ!」
「……はぁ。その自信、今すぐゴミ箱に捨てちゃってくださいね。間違いですから」
「うぇっ……ううう……。じ、じゃあ、どうか正解を教えてくださいませんか!?」
「これは番組のタイトルです。『ドラえもん』と言うアニメです。聞いたことありますよね」
「あぁっ! そっちでしたか! 引っかけ問題ですね!」
そっちもこっちもないだろ。
何をどう引っかけたってんだよ。
やれやれ……と控えめに軽く肩をすくめると、隣に立つみこみこさんが改めて俺に向けて、な? と同意を求めるようにうなずいてみせた。
「と言うわけなのだよ、多田野宅郎二十八歳。この凛音お嬢様はな? 勉学・スポーツ・礼儀作法に至るまで、他は完璧なまでに完璧なお方なのだが、こと『オタク・カルチャー』についてとなると、壊滅的に駄目で非常にアレな感じになってしまうのだ」
「この状況を何とかせい、そういうことなんすね? すでに無理ゲーっぽいんですけど……」
「そ、そんなことをおっしゃらずに、どうか……! どうか……私をオタクに染めてください!」
ええー……。
どう考えても言ってることがまともじゃない。
とは言え、どちらもからかったりふざけたりしている様子なぞ皆無で、至って真剣そのものの表情をしていた。結局、俺は首を縦に振らざるを得なくなった。
「うーん……。ま、やるだけやってみますよ。かなりの荒療治になると思うんすけどね」