過去編 前兆。
嵐は去った。
千鶴ちゃんの兄貴は突然腹を押さえながら苦しみ出したかと思うと
「腹いてぇ!! 便所ーーーー!!」とか叫びながら、内股でどこかへ駆けて行ったっきり、帰ってこない。
何か悪いもんでも食ったんだろうか。
俺んちまではまだ距離あったし、近くのコンビニを探しに行ったようだ。
取りあえず、戻ってこないので、俺達は二人で我が家へと向った。
「千鶴ちゃん〜!」
「どうした寝る雄」
「手握っていい?」
ゴリラは去った……その解放感に身を浸しているうちに、気がだんだん大きくなってくる。
恋人になってから、それらしい事をまるでやっていなかった俺達。
そろそろ奥行きのあるスキンシップをしてみたく思い、彼女に切り出してみた。
「いいよ」
彼女は冷めた細い目は相変わらずだけど、素直に右手を出して俺の左手を受け入れる用意をしてくれた。
ほっそりとしてきめ細かい肌質の可愛い彼女の右手。
俺に差し出されたその手をそっと左手で握る。
そうすると、彼女は柔らかく握り返してくれるかと思っていたんだけど……
――ギシ、ミシミシ……
とても嫌な音がしたんだ、俺の左手から。
い……痛い、ちょ、砕けるって……どういう握力をしてるんだ!
「ただいま〜」
ゲ、源五郎! 彼は俺と千鶴ちゃんの隙間から右手を割り込ませていた。
彼女の手だと思っていたものは源五郎の手だったわけだ。
俺の左手は再起不能寸前まで追い込まれていたが、彼なりの力の加減の尺度があって、砕ける前には離してくれた。
「あ、ごめんね〜寝る雄ちゃん、置いていかれたもんで、つい力入っちゃって〜」
彼はたぶん、大便をしてさっぱりしたんだろう。
オカマ臭い顔にもそれなりに、清涼感があふれていた。
けれど、多少怒っているのかもしれない。
言葉の一部分に、どでかいトゲが一つ垣間見える。
「千鶴〜、何で待ってくれないの〜」
「ん? 邪魔だから……」
千鶴ちゃんが俺が言いたくても言えないことを、直に彼に伝える。
俺は思わず息を呑んで、その場に立ち尽くして動向を見守る。
「邪魔って私のこと言ってるの?」
「そうだよ、とっても邪魔だよ、そろそろ帰りな」
そう吐き捨てると、千鶴ちゃんは俺の左手を引っつかんで
歩くテンポを早めた。
なんて……逞しい。
彼女の細い手に引張られるがままの俺。
あぁ、いい、とってもいいよ〜。
手を握るじゃないけど、握られて二人して歩いてるよ、幸せ〜〜!
一時の悦に浸り、夢見心地な俺は現状を把握しているようでしていなかった。
「こら、待てや〜〜!」
は! お兄さんを忘れていた……
源五郎は演技なのか、素なのか分からないけど、顔を紅潮させてドスの効いた声を、千鶴ちゃん? もしくは二人? に向って掛けてきた。
「妹のくせに兄にそんな口聞いて、ただで済むと思ってるんか?」
「しるか! つべこべ言わずかかって来な」
ええ、そんな、思いっきり煽ってますがな……兄妹バトル突入!?
「いい度胸してるじゃねーか!」
「いくぜ、千鶴〜〜!」
そう源五郎が言い放つが先か、小柄な彼女に向ってマッチョな体が向っていく。
太く毛深い右腕を後方へと引くと、彼女の顔目掛けて、大きな拳がーーー!
――――そんなこと、させるもんか〜〜○×”#%’&%!
……この時、俺の中で何かが弾けたんだ……
彼女の顔に拳が届く寸前に、俺は源五郎の右腕を横から掴んでいた。
「おい、てめぇ、いい加減にしろよ」
「あれ、寝る雄ちゃん……本気にしないでよ」
俺は源五郎を強く睨みつけながら、普段から考えられないような強気な発言を飛ばしていた。
「つべこべ言ってんじゃねー! 死ねや〜!」
俺? が放ったアッパーカットが、源五郎の顎を下から鋭く突き上げる。
その凄まじい威力に源五郎は大きな体ごと空に舞い、弧を描いて地面に背中から叩きつけられた。
「アニキ〜!」
「大丈夫〜?」
千鶴ちゃんがアニキの壮絶なやられっぷりに、思わず安否を気遣って駆け寄った。
「すごいわ、寝る雄ちゃん、惚れ惚れとするアッパーカット……」
そういい残すと、源五郎は気絶した。
「ふーふー、あ……」
我に返るという表現が、当てはまるかどうかは分からない。
だけど、普段の俺に戻っているのだけは実感できた。
源五郎を殴ったこの拳に、言いようの無い罪悪感を感じていたからだ。
自分のやった全ての事は、一部始終記憶には残っていた。
倒れた源五郎とそれに寄り添う千鶴ちゃんの元へ、急いで駆け寄る。
「ご、ごめんよ」
「こんなことするつもりじゃ……」
俺は千鶴ちゃんに手を合わせて謝る。
その俺に振り向かず、兄の様子を窺う千鶴ちゃん。
どうしていいか分からず、おどおどした視線を二人に巡らしていると、千鶴ちゃんが静かな口調で俺に言った。
「寝る雄、今日は帰るよ、アニキ手当てしないといけないし」
千鶴ちゃんは俺に冷めた細い目を向けると、カバンから水の入ったペットボトルを取り出し
彼の顔に上から注いだ。
「ぶは、うーん……」
「ほら、帰るよ、アニキ」
「うん、あ」
源五郎は水を浴びて意識を取り戻すと、顔をぶるぶる震わせ半身を起こした。
しばらく呆けていたが、千鶴ちゃんに声を掛けられ、意識がクリアになったのか、すぐに立ち上がった。
そして、千鶴ちゃんの後ろにいる俺を見つけると、優しい口調で俺に話しかけてくる。
「寝る雄ちゃん、気持ちいいアッパーだったよ〜、中々やるね〜」
「この事は気にしないでいいからね〜、じゃまたねー」
俺にさっぱりした顔でそう言うと、妹と二人並んで帰っていった。
その場に取り残される俺。
いや、これって……すごいまずくない?
アニキはともかく、千鶴ちゃんが……いや兄貴にも悪いし。
てか、俺なんであんな事を?
頭の中が混沌とした状態に陥り、しばらくその場で俺は物思いに耽っていった。




