祝福とは、しあわせになってしまう呪い、かもね。
寝ているのか、起きているのか、それすらもわからない。
彼女は一日の大半をまどろみの中で過ごす。
夢を見ているのか、それとも、夢が現実なのか。
まぶたを開くことができたと思ったら、上手く焦点を合わせることができずに、周囲がぼやけてしか見えない。
声に反応したのに、その声を聞き取ることができない。そもそも、言葉が通じていない可能性もある。
ベッドから体を起こし、足と手を動かして立つことができる。水を飲むことも、トイレに行くこともできる。
ただ、それを意識してやっているのかはわからない。
彼女は、ココにいる。
ココにいるのに、ココにはいない。
彼は彼女を甲斐甲斐しく世話をしている。
彼女がココに来てからずっとだ。
いや、彼女がココに来たのは、彼が喚んだからだ。
彼が喚んだ。
かなしくて、さみしかったから。
ちょうど、飼い猫が死んだとき、お伽話に出てくる『おまじない』をやってみた。
さみしさを紛らわすために。
相手をしてくれる『たましい』を喚ぶ『おまじない』。
喚ばれたのは、彼女だった。けれども、その『おまじない』は完全に成功したワケではなかった。
『たましい』は喚べた。体は死んだ飼い猫。でも、そのふたつは上手くくっつかなかった。
彼女に意識はある。彼女の『たましい』にひっぱられたのか、猫の体はニンゲンの体に変わった。ニンゲンの小さな女の子の姿に。それなのに、意識は体の奥底に沈んでしまったような、どこか乖離しているようで。
彼女の意識が浮上することは少ない。
彼はさみしくなくなったのに、喚んだ『たましい』の彼女ともっと触れたくてしかたがなかった。
ココはもう、あの地獄ではない。
なのに、今はまぶたを上げることですら、ひと苦労だ。
体がいうことをきかない。
それでも何日も何ヶ月も過ごしてみれば、ぼんやりと状況がわかってくる。
食事の世話や移動、寝返りまで世話をしてくれる。時折、どうにも間に合わないときは、下の世話までしてくれる。
できるだけ彼に負担をかけないようにしたいのに。
彼女の意識はふとした瞬間に浮上する。
そのときは、彼の目を見ることができる。
彼は翠の目をしている。奇麗だ。
声を出そうと口が開く。
音が出ない。
ありがとう。
そう言いたいのに。
伝わっているはずがないのに、彼は優しく笑う。
その顔に触れたくてしかたがない。こんな気持ちは、アチラでは感じたことがなかった。アチラでは、むしろ、他人との接触が怖かった。
今日は珍しく、外へお出かけ。
彼女の意識も比較的はっきりしている。
彼は彼女を片腕に抱き上げて移動する。
外の風景がめずらしくて、彼女はきょろきょろと見回す。その様子は、幼い少女が若い父親に抱かれて外のものに興味津々におちつかない様子のようで、たいへんかわいらしい。
彼女にとって家の外は、おとぎばなしのような世界だった。空は真っ白な色であたたかな光がふりそそぐ。まるで天使が天に案内してくれるときの空。家々は空に負けないくらいの白色でできている。わたあめのような雲をちぎってはりつけたような街。地面も白色。どこもかしこも白色かといえば、そんなことはない。なぜなら、色とりどりの花々がそこかしこに咲き誇っているからだ。民家の軒先、道路の両脇、個性的な花のお庭。
彼は彼女にゆっくりと話しかける。
見える景色、すれ違う人々、今日の天気、さまざまな話題をゆっくりと。
彼女は答えない。
彼女は答えられない。
言葉がわからないから。口をうまく動かせないから。
でも、彼のやさしい声は心地よい。
その心地よさに身をまかせることしかできない。
こんなにしあわせな日々を送っていて、良いのだろうか。
ある建物の中に彼は入っていった。
そこに用事があるらしい。
受付のヒトと話したかと思ったら、また移動。
勝手知ったる家のように建物の中を移動する彼。
建物の中のひとつの部屋に着いた。
その部屋の中は、雑多に物が置かれている。まるで彼の家の中のようだ。
ここは、彼の部屋だった。正確に言えば、彼の仕事場。
毎日毎日、家で彼女の世話をしていたが、彼も一応働いている。在宅しながらできる仕事であるので、彼女の世話をすることができていた。しかし、仕事場にときどきは顔を出さなければならない。
その仕事場にまで彼女を連れてきたのは、彼女をひとりにするのが心配である、とかそういう理由ではない。ただ、彼が彼女から離れたくないだけ。ただのエゴ。
彼女をそっと、ソファに座らせて、彼は、机に向かってなにか作業をし始めた。
彼女は飽きることなく、部屋の中にある、物を見る。意識と視界がこんなにはっきりしているのは、なかなかない。
※※※
『汚いその手でさわんじゃねえ、ゴミ』
無駄に大きい声で、怒鳴られる。
兄は幼い妹を蹴り飛ばす。笑いながら、何度も。
そのうち飽きて、兄は去る。
痛みにうずくまっていると、母が帰宅してきた。
汚物を見るような目で母は小さな娘を見る。
『臭いわねえ。あーあ、気持ち悪いわあ。あんた見てると気分悪くなってくるから、どっかへいってちょうだい』
容赦のない言葉が少女の心をえぐっていく。
どうにか立って、部屋の隅に移動する。彼女だけの部屋は与えられていないため、家族の目に留まらないように小さく小さく縮こまるしかない。
『ただいま』
大人の男性の声がひびく。
女の子はさらに小さくなることしかできない。
父親はあわれな娘を見ない。
存在を認めない。
いないモノとして扱う。
父と目が合ったことは、物心ついてから、ただの一度もない。
逃げるように家を出る。
学校に行っても、子どもたちは気色悪いモノを見るような目を向ける。教師は面倒くさそうに対応する。
どこに行っても、彼女は居場所がない。
居場所が見つけられない。
嫌だ。怖い。たすけて。だれか。だれか。ねえ。お願い。ココからどこか遠くにいきたいの。
※※※
彼は寝ながら静かにはらはらと涙を流す彼女の手を握る。
ときおり、彼女は寝ながら泣くことがある。彼はそれを見ると胸が張り裂けそうなくらい哀しくなる。なぜ、泣いているのか。その哀しみを、いつか共有したいと、彼は想う。
アチラにいた幼い頃の、自分の夢を見た。
彼女はぼんやりと目を覚ます。
あの頃は、まだ、希望を持っていた。だれかが救い出してくれる、と信じていた。大きくなって、自分の足で立てるようになれば、逃げ出すことができる、と信じていた。
それは幻想だった。かわいそうな幼い子どもの妄想だった。
現実はとても残酷で。惨酷で。厳酷だった。
大人になっても、逃げられなかった。どこにも居場所は見つからなかった。責められるのは、自分ばかり。縁を切ることはできず、一生地獄にいるしかないのだと思い知らされた。
でも。
でも、今はココにいる。
彼女はココにいる。
体は上手く動かせないし、寝てばかりいるけれど、ココにいる。
ココにいられる。いて良い。ココが彼女の居場所。
アチラは地獄で、ココは天国。
涙を拭われるあたたかい感覚に、彼女は幸福を憶える。
ありがとう。
彼に伝わるといい。直接、言葉にしていつか伝えられる日が来ると良い。
今度は夢を見ずにやすらかに眠りにつけたのだろう彼女を、背負う。
出社してこなさなければならない仕事を終わらせた彼は、家路につく。
寝ている彼女を起こさないように、来たときと同じようにゆっくりと歩く。
背にいる彼女の体温に、彼は安心を憶える。
彼女はココにいる。それがよくわかる。
もっと彼女の意識が浮上してくれればいいのに。
彼女に聴こえるかどうかわからないが、彼は優しい声で優しい唄をうたう。
彼女がココにいることに慣れて、彼女がココに居続けることを本心から望むようになれば、きっと、心と体の距離が近くなるだろう。
そのために、彼は彼女がココに居ることを歓迎していると、態度で、声で、すべてで表現する。
だんだん彼女の意識がはっきりしている時間が長くなってきたかな、と思われるくらいの頃。
彼と彼女が穏やかに過ごす家に、ある訪問者が来た。
訪問者、といっても、ヒトではない。
蛇だった。
白い大きな蛇。
細くて小さい彼女の腕の二倍の太さがある胴体。全長も、彼女の 身長の数倍はあった。
その蛇はなにも言わずに、彼女に寄り添う。
彼はその白蛇を追い出そうともしなかった。
白蛇は良いことがある前兆。
そしてココでは動物に好かれるヒトは、清らかで良い魂を持っている証である。
白い大蛇に護られる形でスヤスヤと眠る小さな彼女の姿を横目に彼は仕事をする。
白蛇が来てから、彼女は寝ているときに泣かなくなった。
いつからか、真っ白で奇麗なヘビさんが隣にいた。
怖くはない。
彼女は特に苦手な生き物はいない。
だから、その状況を受け入れた。
ヘビさんは触ると冷んやりとしていて、気持ちが良かった。手触りも良く、文句も言われないので、抱き枕として抱きついている。
ヘビさんにくっついていると、アチラの夢を見ない。
気がつくと、隣にヘビさんが居て、翠の目の彼は膝枕をして居てくれる。
ああ、ココはなんてあたたかな場所なのだろう。
ずっと、ココに居たい。
あの地獄を忘れて、この天国だけの記憶を持って、生きたい。
でも。
でも、自分なんかが、汚くてだれにも望まれない自分なんかが、こんな奇麗な美しいところに居ていいのか。
わからない。
怖い。
まぶたは開けられないけど、思考が働く日は、考える。
ココに居ていいのか。
ココは特別なヒトしか居てはいけないところではないのか。
だって。
想い出してしまう。
※※※
自立ができる年齢になったとき。当然のように、彼女は家族と呼ばれるヒトたちから離れようとした。
暴力を振るう兄、罵倒する母、無関心を貫く父、それらから逃れようとした。
遠くに就職をして、独り暮らしを送り、連絡は滅多にしない。そうすれば、当然のようにアノ家族と縁が切れていくと信じていた。
そんなことは全くなかった。
やっと雇ってもらえた会社で、兄と母の姿を見たとき、彼女は再び絶望を知った。
彼女の生活は壊されていった。
幼い頃と同じように。
周囲からの目も、嫌という程学校で浴びたモノと同じモノに戻った。
兄は遊び歩く金を彼女が必死に働いて貯めた貯金から持っていく。母は当たり前のように彼女のモノを奪っていく。父はなにもしない。空っぽ。虚ろな父は働かずタバコを吸うばかり。
信頼したヒトたちをも奪われる。
自分の足で立てるようになったら、どうにかできる、この地獄から抜け出せる、その希望を信じていた彼女の心は折れた。
何年も心をすり潰して血を吐きながらそれでも生きた。
生きたといって、良いのかわからない。死んでいなかったといったほうが良いのかもしれない。
自分はどうあがいても、愛されない。
愛されてはいけない。
他人から、信頼をもらうのも、するのも、してはいけない。
自分が手にしたモノは、すべて奪われる。
だれも、助けてくれない。
救いはどこにも、ない。
それは、なぜ。
それは、自分が自分であるから。
自分は生まれてきてはいけなかった。
だから、だから。
しあわせは手にしてはいけない。
その味を知ってしまうから。元に戻れなくなってしまうから。
知っている。きっとこの幸福は、奪われる。
今度こそ奪われたら、もう生きていけない。
知ってしまったから。しあわせを。ひとりではないというしあわせを。
このしあわせから手を離すことなんて、できない。
本当に、ココに居て、良いの。
怖い。怖いの。
しあわせすぎて。幸福すぎて、怖いの。
受け入れていいのか、受け入れた途端に、手から零れ落ちてしまいそうで、怖いの。
ねぇ、手を離さないで。どうか、どうか。
※※※
彼女の涙が止まらない。大粒の透明な雫が頬を伝う。
大丈夫だから、安心して、そんな風に、まるで世界に自分ひとりしかいないとでもいうような、辛い涙を流さなくても良いんだよ。
彼は彼女の涙を丁寧に拭う。
手を握り、頭を撫で、ひとりではないことを伝える。
白蛇もちろちろと出し入れする長い舌で彼女を慰める。
ココに居ていいんだ。
ひとりと一匹は不安定な彼女に伝える。
目を開けてごらん。
ココには味方しかいないよ。
大丈夫だから。だれも盗らない。
どこにもいかない。
彼女が望むモノはすべて与えよう。
その代わり、彼のそばに居てあげて。
彼はね、さみしかったんだ。彼女がいないとさみしいんだ。
彼女と彼はとても似た者同士だ。
さみしがりや。
ふたりはもう、ふたりだ。
ひとりじゃない。
いや、ふたりと一匹だ。
ほら、目をゆっくり開けて。
世界はこんなにあたたかい。
明るくて、奇麗で、優しい。
『ありがとう』
「ありがとう」
もうだれも奪わない。
これは祝福だ。
しあわせにならなければならない呪いだ。
今すぐには無理かもしれない。けれど、一歩一歩、その心の傷を癒していこう。
ひとりでないのだから。
だんだん意識がはっきりしていく。
翠の鮮やかな目が見える。
もし、もしも、良ければ、私を、あなたの隣に、居させてください。
祝福を授ける白い遣いが護る、とびきりの笑顔がふたつ、そこにあった。
そんな話。
ただの幸福な何事もない、物語。
さみしがりやの彼は、さみしがりやの彼女を喚んだ。
彼は彼女とずっと一緒にいた。
彼女は彼の手を握った。
それを護るのは祝福の白蛇。
きっと、ふたりと一匹はしあわせに生きるんだ。
白くて色とりどりの花が咲き誇る、しあわせの箱庭で。
あと何日、何ヶ月、何年、経った頃になるか、わからないけれど、彼と彼女は互いに自己紹介をする。ふたりはふたりを指す名を知る。
そして笑い合うんだ。
最期まで。しあわせに。
ココの白い世界でしあわせになって亡くなった生き物は、白い世界を彩る花になる……という設定があったりなかったり。