エア・セックス・マイノリティー
いままで寝ていた愛猫が、とっさに動き出し、身構えた。そこで俺は半裸になり、目を閉じて、両手をへその上に置く。たちまち、愛猫は窓から飛び出し、しばらくすると、生殺しのネズミを捕まえてきた。おもしろそうに弄んでいる。
俺は、内股のほうがモジモジしてくるような感覚をおぼえ、左へ転がり、右に転がる。何遍か同じ所作を繰り返していると、やがて、現れるのだ。
水晶体のオールヌードの女ーー。プラチナ色で且つ、キラキラと輝いている。そういうときもある。
女はたいてい、後ろで大きく髪を束ねている。しなやかな手の動きなどで、まるで、バリダンスでも踊っているかのように、いろいろな体位を俺に見せつけてくる。
チェッ! クソオモシロクネエ!
タネを明かそう。俺が想像で、妄想で描いてみる女だ。いつかテレビで見た、あの映像。ユニセックスを行っているヨーロッパ人たちの、あの真摯な眼差しーー。そういうのが俺の頭の中に残存していたわけだ。
大学は医学部を出た俺。研究室勤めをしていたような人間なら、単なる、部屋に籠もった空気だけを視て、女の型を、脳裏で描くことができる。医者はエロいだの、性豪が多いだのいわれるが、俺もその口かもしれない。親父は建築家だが。
それはさておいて、交通事故で四カ月間入院し、後頭部の手術を受けた俺は、いつまでたっても片頭痛が治まらないでいた。だが、生殖器だけは異様な動きを見せる。尋常じゃない。何かにつけて、いきり立つ。
酒を飲んで運転中、ガードレールにぶち当たり、テメエで事故った。ガードレールの補償代と免許の取り消しで命だけは取り留めたが、社用車でドライブしていたため、クビになっちまった。お役所からは、むしろこれからは働くことを考えず、身体障害者の年金の申請をして、覚悟を決めて年金受給で暮らすほうが良いと諭された。
いいや、完治してさえ、俺はまだ働けるはずだ。現に生殖器がまだまだいきり立つということは、それだけのスタミナがまだあるわけだからだ。
ほどなく、現れてくる。
「環さん、今日は、どんなコスプレ、したい?」
「別に。そのままでいろよ」
「なによ。それって、楽しんでないじゃない」
水晶体の女は、俺に少々、悪罵を突くような顔をして、背中を向けた。キラキラと光る踵から臀部、背中、うなじへとかけてのラインが、俺には眩しい。
単なる空気なのに、空気じゃない。念が作り上げた仮作の象徴なのだ。この女はその雛型だ。毎夜毎夜、忍び込んでくる痴女なんだ。
俺の持論はこうだ。人間はサルから進化した生き物ではなく、ティラノサウルスから鳥類へ進化したが、のちには退化に退化を重ね、再び、猛烈に進化した生き物である、と。
人類は夥しく流動する生き物なのだ。例えば、プライバシーに配慮した部屋が車輪四つで動く、自動車という名の、走る建造物に乗り、昼夜、遊牧民のように過ごす。家と定められた建物があり、だいたいはそこへ帰る工程の繰り返し。さらにだ。生物は細胞の集合体なんだ、と。
昨日、俺は、三咲美果を見た。いつものように、宝くじ売り場でロトくじを買おうとしていた時、調子こんで、割り込んできた。図々しい女だと思ったが、売り場の女店員にサインをねだられた。確かに彼女だった。
あれが女優、っていうものなのか。
その後、俺は帰る途中、河原でロケ中の、男優との掛け合いを演じている三咲美果を見た。ドラマか映画かは知らなかった。
俺には、連想させられるものがあった。ずうっと先には、三咲美果の水晶体が、今の名無しの女に取って代わるんじゃないか。
ともあれ、俺はいつの間にか、背中を丸めて眠っていることだろう。明日になれば、また涎をくって、それに気付いて起きる自分がある。
俺はひたすら、夜を待った。待ち遠しいことはない。混沌と、妄想の泉に浸りきっているんだから。
ディープに、夜が来た。愛猫は、窓の外を見ている。また、内腿がムズムズしてくる。愛猫はというと、いきなり、大きな声で啼きはじめた。サカリのついた時の啼き方をしている。そのまま、半開きの窓から、屋根を伝って、どこかへ突っ切っていった。
水晶体の彼女が、例の如く現れた。
が、とたん、水晶体はハタ、と消えた。
俺は、チクッとする目の痛みを感じて、よくよく、目をこすった。全身が気怠くなってきた。
一服吸ってからまた見遣ると、三咲美果の水晶体が飄然と、オールヌードで立っていた。手招きをしている。
「あの女はどうしたんだ! いつもの女」
「あの女? 知らないわよ。いいから、アタシの許へいらっしゃい」
「出せよ。頼むから、出してくれよ」
「イエスなの、それとも、ノー?」
「判らん。判らない」
俺は、水晶体に背を向けて、しばらく、聖書の一節を読み上げていた。
そうだ! 俺は思った。事故をした際、世話になった若いナースのことを、ひたすら考えようと。俺のイマジネーションは遥かに、水晶体の女なんぞを凌駕する。それくらいの頭をしているんだ、と。
しばし、ナースのことを考えているうち、生殖器がピク、ピクと動いた。
俺は立ち上がって、水晶体へ近寄って行った。水晶体の表情は俺を、恐々と見ている。そして俺は、キラキラ光る三咲美果の、俺とは触れるとも触れないともいえる姿態を、抱いた。唇を重ね合わせた。さらに、キツく抱き寄せた。
「イヤだ、なに、もう、よして、よしてよ。アタシはどうかしてるんだから」
「ええっ! ということは、俺もどうかしてる」
瞬間に、三咲美果の水晶体の全像が砕けるように瓦解していった。
俺ってマジなのか? 俺って正気なのか? 俺っているのか? 段々、フェードアウトしていくようなーー。
そののちのことはよく覚えていなかった。正直言うと俺は、水晶体の女とか、見たわけじゃない。ナースに話して見れば違うと言われたのだから、そうしとこう。このナースは言った。
「以前の事故の後遺症が元になって、気を失われたんですよ。後遺症が残っているということを十分に把握しといて下さいね」
仕方がないので病院のベッドで、時間だけをやり過ごしていた。せめて、気休めに鎮静剤でも処方してくれてればともかく、点滴だけ受ける日々だとは。一応、検査入院の格好が終われば、家に戻される。オヤジとオフクロからは、いい加減にして実家に戻って来いとドヤシ付けられる日々にまた戻ってしまうだけだ。
俺は、女の正体が水晶体なんぞとは一切、口に出さなかった。その代わり、夜な夜な女は毛皮か何かを身に纏い、忍び込んでくる。シルバーの毛皮の人物だ、と。女優の三咲美果を昼間に見たが、深夜になってから現れたとも言った。医師は、後遺症による幻覚だと主張した。急いでカルテに書き添えた。
毎夜、女と戯れていた日常を送っていたことはしかし事実だ。ただし、誰も俺の話を信じちゃあいない。
だが、いいにしとく。俺はそういう人間なんだ、と。
「はい、検温の時間です」
体温計を右手で振りながらやってきたナースは、とっさに凍り付いた。直立不動になって、あの水晶体になった。
「ははーん。現れたな、お前は」
俺は思わず、ほくそ笑んだ。
「あのね、検温ですって、検温!」
若いナースの声が、この大部屋に谺した様な気がした。