1部
一応シリーズものです。
単体でもOKなように書きましたが、前作を読んでいただいてからのほうがより楽しめます。
花が咲いた。
毎日通っている通学路、その途中にある家の庭に、一本の梅の木が植えてある。ついこの昨日まではまだ蕾の状態だったのに、今朝通ったときには綺麗なピンク色の花を咲かせていた。
春、なのだろう。
このあいだ年が明けたばかりなのに、いつの間にかもう三月だ。往ぬる一月、逃げる二月、去る三月とはよく言うが、この三ヶ月間は月日の流れが本当に早い。今月もきっとあっという間に終わってしまうのだろう。
せわしないのは好きじゃないが、冬が終わると思うとなんだかわくわくした気持ちになる。まだ寒い日もたくさんあるが、春の足音は確かにここまで聞こえている。最近じゃ暖かいと思える日もだいぶ多くなってきた。予報では、今日は四月上旬の暖かさらしい。そりゃあ梅の花も咲く。これだけ暖かければ鞄に隠し持っているチョコレートが溶けるのも時間の問題だな。
「三月といえば」
学校から家へ帰っている途中、わたしの隣を歩きながら唐突にぽんと手を叩く彼。わたしとの会話の中でふいになにかを思い出したらしい。やぶからぼうじゃないにしてもいきなりだ。今話していた『三月を代表する和菓子は桜餅とうぐいす餅のどちらか』の話はどうなる。
仕方なくわたしは横目で彼を見て聞く。
「なんだ」
「うん。そろそろ聞いておこうと思ってたんだ。あのイベントのこと」
あのイベント。ずいぶんと意味深長な言い方をするな。
彼は微笑みを浮かべ、わたしより少し高い位置からこちらを見降ろす。
「ほら、あれだよ。毎年美夕ちゃんが楽しみにしてる」
「ああ、ハロウィンか」
「ハロウィン? なんで。違うよ。いや、確かにハロウィンも毎年楽しみにしてるけどさ。でもあれは十月じゃん。そうじゃなくて三月だよ。三月といえば、ほら、わかるでしょ?」
彼は必死にわたしに『あのイベント』がなにかを伝えようとする。そんなことをしなくてもちゃんとわかっているよ。
わたしは腕を組んで一度深くうなずいてから、
「三月といったらあれだな。お花見、お彼岸、ひな祭り」
「はあ?」
「あとはイースターもある」
真顔で言うと、彼は呆れたように目を細めた。
「……美夕ちゃん、それ、本気で言ってないよね」
「半分本気で半分冗談だ」
だってお花見は団子、お彼岸はおはぎ、ひな祭りはひなあられがおいしいだろう。わたしにとって重要な三月のイベントだぞ。毎年この時期は駅前の和菓子屋さんに行くのが楽しみで楽しみで仕方ないのだ。ショーケースに並んでいる見た目も綺麗な和菓子たちを見ているだけで一日たっぷり幸せに過ごせる。
まあ、イースターについては冗談だ。わたしはそれについてはよく知らない。たしか、うさぎが隠した卵を見つける外国のイベントだったか? それならわたしは部屋でゆっくり卵をふんだんに使ったとろとろプリンを食べていたい。うさぎは追いかけるより愛でていたい。お菓子も好きだが動物も好きなのだ。甘々も、もふもふも、どっちも捨てがたい。
心の中でいろんな和菓子(と小動物)を思い浮かべているわたしの横で、彼はむう、とくちびるをとがらせた。
「絶対わざとだ。わかってるくせに。三月の一大イベントはまだあるよ」
そう言われ、彼からふいと目をそらす。
そうだ。わかっている。わからないわけがないのだ。
だってわたしたちは、物心がついたときからずっとその日を一緒に過ごしてきたのだから。
……そう。その三月にあるわたしが楽しみにしている一大イベントというのはもちろん。
「ホワイトデー。美夕ちゃん、今年はなにがほしい?」
わたしが言う前に、彼がさっさと答えを出す。
ホワイトデー。毎年三月十四日には、特別にそういう名前がついている。
今年のホワイトデーは今週の土曜日だ。先月のバレンタインデーに誰かにチョコレートを渡した女子は、月曜日あたりからそわそわしだす。だが、わたしたちの場合は逆だ。ホワイトデーが近くなると、毎年彼がそわそわする。今年はなにがほしいのか、いつもこのタイミングで聞いてくる。
今年も同じように聞かれたわたしは、なにも言わずに黙り込んだ。
もちろん、いつもならあれが食べたいこれが食べたいとバレンタインにあげたチョコレート以上の量や質のお菓子をおねだりするのだけど……。
わたしはそっと視線を地面に落とした。
「……なにもいらない」
ぽつりとこぼした言葉に、彼はすぐに足を止めた。背中のほうから「……は?」と間の抜けた声が聞こえた。それでもわたしは歩みを止めない。なにも聞こえないふりをして進んでいく。
置いていかれた彼は慌ててすぐに追いかけてきた。隣に並ぶと、わたしの顔を覗き込みながら言う。
「ちょっと待ってよ美夕ちゃん。今なんて、」
「だから、いらないよ、お返し」
言葉を遮るようにはっきりと言うと、彼はその眉を曇らせた。訝しげにこちらをじいっと見てくる。
わたしは横目で彼をちらと見てから再び視線を正面に戻し、小さく息をついた。
「まあ、なんだ。……いつもなにかともらってばかりだから、今回は辞退させてもらおうかと」
「なんで!」
きーん、と耳の奥に声が響く。頭がくらくらした。
わたしは彼を睨むように見る。
「……きみ、耳もとで大声を出すな。うるさい」
「だって美夕ちゃんが変なこと言うから!」
む、と眉をしかめた。
「変なこととはなんだ。わたしはただお返しを辞退すると言っただけだ。なにも変じゃないだろう」
「変だよ。絶対に変!」
そう断言すると、彼はふいにわたしの腕を掴んで引き止めた。いきなり引っ張られたから体がよろけて、思わず足を止めることになる。なにをするんだ、と文句を言おうとした瞬間、向き合った体勢のまま両肩をぐっと掴まれた。突然のことに面食らっていると、彼は目を剥いてわたしの肩を前後にがくがくと激しく揺らし、「どうしたの、熱があるの、なにかよくないものでも食べたの、こんなの美夕ちゃんじゃないみたいだ、もしかして本当に美夕ちゃんじゃないのか、だったらおまえは誰なんだ」……などと一気にまくしたててきた。なにをばかなことを。わたしじゃないみたいだ、のところまではまあいいとして、そのあとのは一体なんなんだ。わたしにはきみのほうこそ変に見えるぞ。
「ずいぶん言うな」
目を細めて睨みつけるように見やる。彼もじっとわたしを見つめてきた。言っていることは意味のわからないことばかりだったが、わたしを心配する気持ちは本当らしい。
それでもわたしは肩を掴んでくる彼の手を振り払い、ふんと鼻を鳴らした。
「熱なんてないし、よくないものなんて食べてない。……それに、わたしはわたしだ。偽物なんかじゃない」
「そりゃそうだけど」
「でも、お返しはいらない」
きっぱりと言い捨てる。そんなわたしの物言いに、彼はいつになく真剣な表情になる。
「……どうして。なにかあったの?」
「なにもないよ」
「なにもないならほしいものを言ってよ。美夕ちゃんがどうしても決められないっていうなら俺が決めるし。ほら、お菓子はどうかな。美夕ちゃんの好きなお菓子。それならきっと」
「いい。いらない」
話を遮り、かぶりを振る。それから静かに彼を見上げて、その瞳をじっと見つめた。
「いらないんだ。……本当に」
かたくなにお返しを拒むわたしを、彼は眉根を寄せて見据えた。そして静かに息を吐き出すと、小さく頭を掻いた。
「うん。やっぱり変だよ。今日の美夕ちゃん」
まだ言うか。わたしはいよいよ呆れて溜め息をつく。
「だからなにも変じゃないと何度も、」
「いや、おかしいよ。あの美夕ちゃんが自分からお菓子をいらないなんて言うのは変。誰がなんと言おうと変。南の島に大雪が降るくらいありえない」
……そこまで言うか?
「なにかあったんだね」
吸い込まれそうなほどの漆黒。どこまでもまっすぐな視線がわたしを射貫く。それがあまりにも疑いを知らない瞳だったから、わたしは耐えきれなくなって思わず目をそらした。
「しつこいぞ。なにもないと言って、」
「嘘だ」
即答だった。再び正面から顔をのぞかれる。う、と小さく声を漏らしてたじろいだ。また慌てて視線をそらす。……目を合わせられない。
「俺、知ってるんだ」
「……な、なにを」
「美夕ちゃんは嘘をつくとき、必ず俺から目をそらす。そういうところ、昔からちっとも変わってないよね」
わたしは歯噛みした。
ばれていた。彼はとっくに気づいていたらしい。今までずっとうまくごまかせていると思い続けてきたのに、実はそうじゃなかったなんて……なんだかわたしがばかみたいじゃないか。
「……嘘は、ついていない」
「それが嘘だよ。だって美夕ちゃん、俺から目をそらしたままだもん」
「だから、それは……」
「違うって言いたいの? それならもう一度言ってみてよ。俺の目を見ながら『なにもない』って、はっきりとさ」
目を合わせなくてもわかるくらいに視線を感じる。痛いほどの強い視線だ。心の奥の奥にある気持ちまで見透かされてしまいそうだった。
なにも言えずに黙っていると、彼は肩をすくめた。
「ほら。やっぱりなにも言えないじゃないか」
「ち、違う! その、改めて目を見ろと言われると、恥ずかしくてだな……」
「冗談。今さらそんなことを言われてもね。大体美夕ちゃんそんな柄じゃないでしょ」
なんだかむっとした。少し言い方がひどくないか? わたしだってこれでも花も恥じらう乙女だぞ。好きな人と見つめ合えば胸がどきどきしたりする。それを「そんな柄じゃない」なんて……腹が立つ男だ。
ずっと黙ってままでいると、彼は幼子に言い聞かせるような優しい声で言った。
「ねえ、話してみて。どうしてお返しをいらないなんて言うのか」
「……べつにわたしは」
「話して、美夕ちゃん」
穏やかな声。まるでお父さんみたいだ。
わたしはそっと彼を見上げる。彼はふっと微笑んだ。
「お願い」
……ああ、もう。そんな顔でそんなことを言われたら、話さないわけにはいかないだろう。
彼はわたしの弱いところをしっかりわかっている。だからどんなにわたしが強く口を結んでいても、いつも最後はこうなるのだ。まったく、相変わらずずるいやつだ。……そりゃあ、流されるわたしもわたしだが。
諦めて、ゆるゆると息を吐き出す。それからぽつりと、
「……わたしは、きみに、たいしたものをあげていない」
そう呟いた。
彼は二回ほどまばたきをする。それから不思議そうに小首をかしげた。
「たいしたものって……バレンタインの話?」
「そう」
すぐにうなずく。わたしは先月のことを思い返した。
今までは、お店で売っている既製品のチョコレートを買ってあげていた。そのほうがおいしいし形も綺麗だから、自分で作るよりずっといいと思っていた。だけど今年のバレンタインデーには、生まれて初めて彼に手作りチョコレートというものをプレゼントした。雑誌の特集に『彼女から手作りをもらえるとうれしい』と書いてあったからだ。なるほど、と思った。だからわたしは作ることにした。一生懸命やった。デコレーションも自分でした。ラッピングだってそうだ。その証拠に、一ヶ月たった今でも手のあらゆるところに火傷や切り傷のあとがまだ残っている。
自他共に認める超がつくほど手先の不器用なわたしがそこまでしてがんばったチョコレートは、それはそれはひどい出来だった。味はともかく、見た目が悪い。型からチョコは溢れ出て、チョコペンで書いた文字は自分でも読めず、何度も結び直したリボンは誰から見てもよれよれだった。こんなものはあげられない。もらってもきっと困るだけだ。こんなことなら最初から既製品を買ってあげたほうが何百倍もよかった。……だけど、そう後悔したときにはすでに遅く、買い直そうにもどこもかしこも店じまいで、やっと駆けつけたコンビニにはチョコレートの姿はどこにもなく、バレンタインの商品は全品売り切れという始末。店に絶望して自分に失望した。自分の手際の悪さを責めて、夜中に一人で泣いたりした。でも泣いていてもしょうがない。だって時間は足を止めてはくれなくて、気づけば日付は十四日。物心がついたときから毎年あげてきたチョコレートを、今さらになって渡さないわけにはいかない。だからあげるしかなかったのだ。
……その、不格好な手作りチョコレートを。
「……あの日は本当に最悪だった」
自分の情けなさと女子力の低さを再確認したうえ、ぼろぼろのチョコレートを好きな人に食べさせるという醜行。二度とあんな思いはしたくない。彼に申し訳なさすぎる。思い出しただけでも苦々しい顔になる。
「でも美夕ちゃんが言うほど悪くなかったよ」
「……チョコレートがか?」
「うん。想いが込められてて、とってもおいしかった」
そう言って、彼はにっこりと笑う。
わたしは眉根を寄せた。嫌なんだ。その優しささえも苦しく感じてしまう。「下手だな」って、「なんだこれ」って、そうやって正直に言ってもらったほうが、きっとまだ笑えていたのに。
「味はいいんだ。チョコレートなんて売っているのを切って溶かして固めるだけなんだから。まずいわけがない。……でも、見た目が悪すぎる」
「見た目こそ関係ないよ。食べちゃえば全部胃の中だ」
「見た目がよくないものを食べようとは思わないだろう」
「俺は美夕ちゃんが作ったものならなんでも食べたいと思うよ。例えば、美夕ちゃんが『チョコレートを作ったよ』って渡してきたのが泥だとしても、俺はきっと食べる」
……げ。いくらなんでもそれは。
「さすがのわたしも泥とチョコの違いくらいはわかるぞ」
「例えばの話だよ」
彼は破顔した。
例えばの話でも、彼は本気でやりそうだから怖い。
「……とにかく、お返しはもらえないよ。きみにあげた手作りチョコレートも、ほとんどわたしが自分で食べたし」
「確かにね。だけど、そんなのはいつものことだ」
彼は胸を張り、人差し指をぴっと立てた。
「俺がお菓子を買うのは美夕ちゃんのためであって、俺はお菓子に執着がない」
「嘘を言うな」
目を細めてすぐにそれを否定してやる。
「小さい頃はわたしのを奪ってまで食べていたぞ」
忘れたとは言わせない。そう言うと、彼は「あー……」と気まずそうな表情を見せ、すぐにこう言い直す。
「ごめん、言い方を変えるよ。俺は“昔ほど”お菓子に執着がない」
「ふうん?」
「だからいいんだ、美夕ちゃんにチョコレートを食べられたとしても」
ふいに彼の大きな手が、わたしの頭をそっと撫でる。
「あのチョコだって、一口食べただけで美夕ちゃんがどれだけがんばったかちゃんとわかったしね」
無言のまま、じっと頭を撫でられる。
いつも思うことがある。彼は少しわたしに甘すぎやしないだろうか? ……それとも、彼氏というのはそういうものなのだろうか。わたしの友だちの彼氏は、こんなに甘くはないと思ったのだが。
わたしの手を、彼がそっと取る。
「普段はお菓子どころか料理だってまったくしないのに、あの日は俺のために一生懸命がんばってくれたんでしょ? ほら、ここ。……まだ傷が残ってる」
「これはただ絆創膏を貼っているだけだ。……もう治ったよ」
ふいと顔をそむけ、目をそらす。彼の小さく笑う声が聞こえた。
「けがをしてまで俺のためにチョコレートを作ってくれたんだ。俺はそれだけで充分うれしかった」
手をぎゅっと握られる。指先が互いの体温を伝え合う。
「だから」
囁くように。呼吸するように。
彼はわたしにこう言った。
「だから、たいしたものじゃないなんて言わないで」
優しい声と手のぬくもりに、この一ヶ月のあいだに膨れ上がった後悔と自己嫌悪の心の氷が、あっというまに溶かされていく。あんなに苦しかったのに、あんなに申し訳ないと思っていたのに、彼がくれたそのたった一言が、わたしの想いを解放してくれた。
くちびるをぎゅうっと噛みしめて彼を見上げる。目が合うと、彼は「ふはっ」と吹き出すように笑って、わたしの髪をくしゃくしゃと撫でた。たぶん、今にも泣きだしそうなわたしの顔がひどく情けないものだったのだろう。
結局こうしてまた彼に救われる。それがなんだか悔しくて、だけどどこかうれしくて、幸せなのに腹が立つ。複雑な感情にどうしようもなくなって、わたしは彼の胸に顔をうずめて「ううーっ」と子犬が怒るときみたいに唸った。彼はまた笑った。
「まあ、でも、どうしてそれで美夕ちゃんがお返しをいらないって言い出すのかはわかんないけどね。美夕ちゃんの性格上、チョコレート作りに失敗したってのとそれをほとんど食べちゃったってのはあくまで原因のひとつであって、それが起爆剤になったとは思えないんだけど」
どうかな、と彼が言う。それを聞きながら、わたしは彼をさすがだと思った。まったくもってそのとおりだ。
「……じつはこのあいだ、」
抱きついた体勢のまま話し出す。くぐもり声は、むすっとしているように聞こえた。
「お母さんに言われたんだ。毎年きみに倍以上のお返しをもらって申し訳なくないのかって。……しかも、今年はあんなものをプレゼントして」
「そんなことを言われたの?」
「そうだ」
うなずくと、彼は「容赦ないなあ」と苦笑した。わたしは全然笑えなかった。むすっとした声のまま続ける。
「あとは、『あんたのことだからほとんど自分で食べちゃったんでしょ』とも言われた。確かにそうだからなにも言い返せなかった。……悔しかった」
「あはは。ご名答だね。さすが美夕ちゃんのお母さんだ」
そう。さすがとしか言いようがない。なにを話したわけでもないのに、お母さんには全部お見通しだった。……だからこそ、最後に吐き捨てるように言われた「見捨てられちゃわないように気をつけなさいよ」の一言はひどくわたしを落ち込ませて傷つけた。
「お母さんに言われて、確かにわたしは毎年たいしたものをあげてないなと思った。あげても自分で食べちゃうし。それなのにきみは、いつもたくさんのお返しをわたしにくれて」
小さく深呼吸をする。それから静かに息を吐き出すようにして、
「……今さらだけど、申し訳ないと思ったんだ」
料理ができるわけじゃない。愛嬌があるわけでもない。お世辞にも尽くしているとは言えないわたしが彼にしてあげていることなんて考えてみればなんにもなくて、ふと気づけばわたしはただひたすらに、彼に甘えて生きていた。そんなんじゃ呆れられても仕方がない。愛想を尽かされてもなにも言えないに決まっている。そう、理解したつもりだった。
……なのに、とても怖かった。本当は、怖くて、怖くて、どうしようもなくて。もしお母さんの言葉どおりになってしまったらと考えると、それだけでどうしたらいいかわからなくなってしまう。ずっと隣にいると思っていた彼がいなくなってしまったらなんて、考えられなかった。そんなことは一秒だって考えたくもなかったんだ。
……だから、少しずつでも変わっていきたくて。
今年のホワイトデーは、その小さな一歩目だった。
「今までなにもしてあげられなくて、ごめん」
わたしは彼女失格だ。
彼の胸の中でまた泣いてしまいそうになる。くちびるを噛みしめて、涙を必死に我慢する。
彼を抱きしめる腕に、ぎゅうっと力を込めたとき。
「そういうこと言うな、ばか」
「あいたっ」
こつん、と頭をぐーで殴られた。痛い。
慌てて彼から体を離し、涙目で頭をさすりながら彼を見やる。
「なにをするんだ……」
「美夕ちゃんがばかなことを言うから鉄拳制裁を下したんだよ」
「ばかなことって……わたしはただ自分の不甲斐なさを、」
「そんなことない」
わたしの言葉を遮って真剣な瞳でこちらを見つめる。あまりにも真面目なその表情に、わたしはなにも言えなくなる。
「そんなことないんだよ。だって俺はいつも美夕ちゃんからいろんなものをもらってる」
「……わたしはなにもあげたつもりはないぞ」
「じゃあ無意識なんだね」
彼は腰を屈めると、わたしに視線を合わせてきた。それから、指でわたしの涙をそっと拭う。
「美夕ちゃんはいつも俺にくれるよ。かけがえのない、甘い日々を」
恥ずかしげもなく堂々と、彼はそう口にする。当分あっけにとられていたわたしだが、何テンポも遅れてようやくその言葉の意味に気づいたとき、顔をりんごみたいに真っ赤にさせて逃げるように後ずさった。
「……っ、ま、またきみは、そういうばかなことを……!」
「ばかでもなんでもかまわないよ。本当のことだから」
そう言って逃げるわたしの腰を引き寄せ、顔をぐっと近づける。ひっ、と声が漏れた。心臓が破裂しそうだ。彼の腕に囚われたわたしは、胸の鼓動を高鳴らせる以外にどうすることもできなかった。
「364日ずっともらってばかりの俺に、一日くらいはお返しさせてよ」
形のいいくちびるに微笑みを浮かべる彼。ずるいくらいにかわいい笑顔だ。女のわたしでも敵わない。
胸に手を当て、深く息を吸って、ゆっくりと吐く。そうしてわたしは騒ぐ気持ちを落ち着かせた。
静かに一度だけまばたきをする。心持ち背筋を伸ばして彼を見据えた。
「……こんなわたしでいいのか」
「そんな美夕ちゃんがいいんだよ」
「なにもしてあげられないのにか」
「そういう無自覚なところもかわいいよね」
なにを言っても彼は笑う。笑ってわたしを受け止める。
たまに意地悪で、時々強引だけど、わたしにとって彼はなによりも自慢で誰よりも素敵な彼氏だ。
「好きだよ、美夕ちゃん。大好きだ」
甘い声でそう言われ、引き寄せるように抱きしめられて、うれしくなったわたしは笑えばいいのか泣けばいいのかわからなくなり、なんだか変な顔になった。
「……きみは、本当にわたしに甘いな」
彼はおどけるように肩をすくめてみせた。