少年は懐かしみたくない夢を見る
煤臭い。
フラフラ、と覚束無い足取りで、アスファルトの上を歩いているその少年は思った。
背後から聞こえる喧騒は、悲鳴や感嘆の声で満ちている。その声の主であるギャラリーは、周辺にある住宅地の住民でもあり、たまたま通りかかった帰宅途中の学生でもあり、その年齢層は様々である。ギャラリーの視線の先には、轟々と音を立てながら深紅に飲み込まれている、ある施設。幸い隣接している建物に影響は無かった。しかしその敷地内の木々は倒れ、子供たちの遊具は破壊され、今にも廃墟と化しそうなその光景は、とてつもなく凄惨なものであった。
耳を劈くように、サイレンの音が聞こえた。音源はかなりのスピードでこちらへと向かってくる。ギャラリーの視線も、いくつか音源のほうへと向いている。そこには、施設とは違う意味で赤く染まっている大型の車両の姿があった。住宅地の道路は狭く、その大型車、消防車一台分がすっぽりと収ままるくらい。だからギャラリーは自然と消防車に道を譲る。だが視線の方向は変わらず、施設と消防車に集中している。
消防隊員が出動しなければならないほどのこの事態。
その元凶がまさか、無気力に満ちた紅の瞳を持ち、相変わらずフラフラとアスファルトを歩くこの少年だとは、誰も信じはしないだろう。
騒ぎは一層大きくなり、施設を飲み込んでいる深紅の先端からは、炭の様な黒い煙が吐き出されている。
少年は、煤臭い、と口にして、その火事場を後にしたのだった。
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沈んでいた意識から頭を起こしてみれば、なにやら周囲が静まり返っている。半開きのまぶたのまま、見回してみると、はっきりと表情は見えないが、座席についている学生たちが自分に視線を集中させていた。そして、それはこの空間の一番奥で仁王立ちしている教員も例外ではない。教員のすぐ背後にある壁に設置された黒板には、おそらく教員が学生に分かりやすく書いたのだろう、授業内容が記されている。この静まり返っている空気はなんなのだろう。そう思って片肘をつき、頭部を支えて前方を見る。
教員が怒鳴りつけてきた。
「五十嵐ぃ!また居眠りしやがって!」
教員の背後に視線をずらすと、数学の計算問題が記されているのを見つけた。なるほど、どうやら練習問題を学生に解かせようとして、自分を選抜したらしい。そして当の本人は居眠りしていたと。
当の本人、五十嵐 龍貴は気だるそうに返事をする。
「だってつまんないッスもん」
この後、めちゃくちゃ説教された。
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およそ20年前のことである。日本列島に過去最大最悪の大地震、今では”大地の憤怒”と呼ばれる震災で、800万人近くの人間が死亡してしまった。さらに驚くべきことに、その地震の影響で北太平洋に隣接していた神奈川県と千葉県が、丸ごと本島から離脱してしまった。不幸中の幸いと言うべきか、離脱と言っても船が行き来できる距離なので、本島からの資金や物資は援助され、住人を半分近く失ってしまった離島は何とか生活を保てていた。
だが、大地の憤怒が起きて1年もしないうちに、奇妙な出来事が発生した。
例えばここに、一枚の正方形の白紙があったとする。白紙は表裏何も書かれておらず、いたって普通の、再生紙を利用したメモ帳の様な、何の変哲も無い白紙である。この白紙を、ある一人の人間(仮にAとしよう)に渡すと、Aと白紙の間で、何かが発生する。その何かは白紙にある影響をもたらす。それは、Aが今いる位置から、頭に思い浮かべた目的地への経路と、その周辺が描かれた地図が記される、というものだった。
このように特定の物質、特定の事象と触れ合うことで、新たな事象や能力を発現させる、特異能力者が、離島の住人の中で生まれるようになったのだ。特定の物質、事象と触れ合うその様は、まるで”共鳴”。故に人々は、この現象を”共鳴”と呼び、ハウリングを操る人間のことを、”共鳴者”と呼ぶ。
上記の少年、五十嵐 龍貴もまた、ハウリンガルの一人である。しかもその力は非常に高く、”史上最強のハウリンガル”とまで言わしめるほど。これから語られるのは、そんな彼の視点を中心に展開される、一つの物語である。