『湊』弐伍話
弐伍話 別れた兄……
「お兄ちゃん!」
湊は兄を見つけた。父も母もいなくなり、兄がいてくれたからここまで生きてこれた。
病弱な自分のそばにいてくれた兄を湊は愛していた。
「湊……」
兄は振り向いて名前を呼ぶがその声は疲れているようだった。
「湊、俺は疲れた。ごめんな」
そう言って離れていく兄を追いかける。でも、走っても走っても、どんなに走っても追いつけない。
「お兄ちゃん待って! お兄ちゃん!」
必死に名前を呼ぶ。聞こえていないのか、振り向くことは一度ない。
やがて、姿が消えた。
目の前から消えてしまったことに湊は恐怖を覚えた。
「いやだよ……独りはいやだよ……」
右も左も前も後ろも全てが暗闇。自分がその闇に溶けてしまいそうで怖い。
「お兄ちゃん……イヤアアァァァッ!」
頬を涙が伝う。湊は自分の体を抱きしめて叫んだ。
「――!?」
目が覚めた。リアルな夢。独りぼっちなことがこんなにも怖いと気付いたのははじめてだった。
「お兄ちゃん、どこにいるの? ゲホッゲホッ!」
叫んだ所為か、また症状が出てきた。ここ最近は激しい。
手探りで自分の荷物を手繰り寄せて、薬を引っ張り出そうとする。
「あ!」
慌てすぎた所為で荷物をひっくり返してしまった。
拾おうにも体が重く、そしてだるい。とても動ける状態ではなかった。
「ミナトちゃん、どうしたんだい!」
音を聞きつけて一人のお婆さんがやってきた。
湊は掠れた声を出す。
「クス……リ……」
「アンタ、水持ってきて! 大至急!」
すぐにお婆さんと同じくらいの年のお爺さんがやってきた。片手にはコップ一杯の水。
「婆さん、あまり叫ぶとミナトちゃんが可哀相だ」
「わかってるよ。ほら、ミナトちゃん」
渡された水と薬を飲む。残りは一回分しかない。
頭の片隅でそう思いながら発作が引いていく。段々と楽になっていく中で早く兄に会わなければ。自分から歩き出さなければ。思いが強くなっていく。
「落ち着いたかい?」
「うん。ありがとうございます」
「いいんだよ。そんなこと気にしなくても」
それだけ言ってお婆さんはお爺さんを連れて部屋を出ていく。
湊は寝間着から着替えながら少し昔のことを思い出す。
それは、まだ日本にいたときのことだ。
あの頃はまだ両親も生きていて、みんな幸せに暮らしていた。でも、ある日急に兄の命が距離を置き始めた。
湊は嫌われたくない一心で好かれようと努力するもその行為は余計に兄を苛立たせ、しまいには――
「いい加減つきまとうなよ!」
怒鳴られた。ショックを隠せなかった湊は泣き出すも無視される。
ずいぶん時間が経った後に湊は泣き止んだ。そして、その後はずっと兄に会うたびギクシャクとしていた。
それが一週間も続いたある時、その日はあいにくの雷。そして運悪く両親ともに仕事で遅くなると連絡があった。
湊はその日の夜は雷の音が怖くて眠れなかった。いつもはお母さんと一緒に寝ているが遅くなるから頼ることができない。一人毛布にうずくまっていると部屋の扉が何の前触れもなしに開いた。そこに立っていたのはいまだに気まずい雰囲気でいた命の姿。
湊の様子を見てこちらに近づいてくる。びくりと体を震わせながら目をつぶっていると隣に座ってくる。
「そんな格好じゃ眠れないだろ」
「……………」
「母さんか父さんが帰ってくるまでずっとそのままでいるのか?」
「……………」
返事を返さなかった。確かにうずくまっている格好で寝るのは体勢としてはきつい。でも普通に寝ることはできない。
「寝てろよ。そばにいるから」
「え?」
「だから、母さんか父さんが帰ってくるまでそばにいてやるよ。だったら眠れるだろ」
「……お兄ちゃんは湊のこと嫌いじゃないの?」
「別に湊を嫌ってるわけじゃない。色々あって自分なりに考えてただけだ」
そう言って優しく頭に手を乗せて撫でてくる。その手は毛布越しだけどとても安心できた。
「悪かった。ごめんな、今まで」
「湊もごめんなさい。お兄ちゃんのこと考えてなかった」
「今日はずっといてやるから、湊はゆっくり寝ていいぞ」
「うん。ありがとう、お兄ちゃん」
あれ以来、湊は前以上に兄のことが好きになった。ギクシャクした関係も自然に解消され、後ろをくっついていても怒られたりされなくなった。
「私、お兄ちゃんに依存してたのかな……」
今さらそのことに気づかされる。
でも好きなのだ。それが兄妹としてか分からなくなるほどに好きなのだ。
離れ離れになった今だからこそわかった。自分は兄に依存していて、これから先も離れることなど考えてなかった。
「捜そう、お兄ちゃんを」
一つの決心を付けた湊はそのことを報告するためにおばあちゃんとおじいちゃんのいる居間に向かう。
「おばさん、おじさん、お話があります」
「ミナトちゃん、そんな走ったら体に響くよ」
走ってきた湊を気遣うように優しく諭してくれるおじいちゃんに頭を下げる。
湊は話した。自分の決断したことを。
すでに仲間のこと、そして兄がいたことは話してあるので、長くもない説明をする。
「でも、その体じゃあ危ないだろう」
「そうだねぇ。また病気になったりしたらと思うとねぇ」
「……私、お兄ちゃんといたい。もう家族はお兄ちゃんしかいないから」
それに、愛してるから。生きていると信じるなら自分から動かなければ、じゃないと会うことはできない気がする。
湊の本気の思いを察したのかおばあちゃんとおじいちゃんは互いの顔を見やり、やがて頷いた。
「わかったよ。そこまで言うなら。アンタ、あれ出してきな」
「はいよ」
おじいちゃんはタンスからいくつかの服を出してきた。
「これを持って行きなさい。かさばるだろうけど、この大陸を出るまでは手放してはいけないよ」
「おじさん、ありがとうございます!」
「アテはあるのかい?」
「まだ何も。とりあえず、一番近い〈明星の大地〉を目指します」
この大陸には仲間はいない。確認したわけではないが、少なくとも兄がいないことはわかる。
だとしたら別の大陸を捜した方がいい。
「気をつけていくんだよ」
「はい」
「絶対に死ぬんじゃないよ。また顔を見せにおいで」
「はい」
湊の声は震えていた。
見ず知らずの自分を一年も育ててくれたこと。黒の髪に黒い瞳は魔を表すのにそれでも普通に接してくれたことに湊は感謝していた。
本当なら何か恩返しをしたかったが、それはきっとまた会うときになる。
「行ってきます!」
だから、「ありがとう」も「さよなら」もまだ言わない。恩を返すとき、元の世界に還るとき、その時までこの言葉はお預けだ。
湊は少し遅れながらも、自分から一歩を踏み出す。仲間を、そして兄を捜し出すために。




