後編
雪の上に椿の花びらが散るようだった。
この世界は、莉奈が元居た場所ととてもよく似ていたが、唯一地面の色が違っていた。土や砂、泥と言ったものは存在せず、白い大地が平坦に広がっている。それは、何の跡も残すことなく、どれだけ踏み荒らされた地でも痕跡は跡形もなく消えた。まるで世界が終わる準備をしているかのようで、莉奈は それが嫌いだと常々考えていた。コンクリートより無機質で、何だか寂しい。
そんな白い大地が、一瞬だけ赤く染まった。莉奈の目の前で魔物の鋭利な爪に貫かれた少年は、ゆっくりと倒れこんでいった。その青い目は大きく見開かれ、莉奈のことを見つめている。
大地が血をすっかり吸い取って元の色に戻るころ、莉奈はようやく少年の身体に駆け寄った。エルフの女性が懸命に治癒術を施したものの、実にあっけなく少年は逝ってしまう。絶えることなく皮肉を紡ぎだしていた口は閉じられ、密かに気に入っていた高い体温は失われていき、握りしめた小さな手が冷たく硬くなっていくのをただただ呆然と感じていることしかできないでいた。
その日の午後は、誰も口を利かなかった。
ただ、寝る前になってエルフの女性がポツリと呟いた一言が、莉奈の胸の湖に落ちて、いつまでも消えることなく漂っていた。
『あの子、莉奈に懐いていたから』
ああだからなのか。
莉奈が少年の手に触れた時、握り返されたと思ったのは、勘違いではなかったのだ。
それでも莉奈の瞳は乾ききって、空虚感と己への失望とが胸を苛ませただけだった。
それからは、櫛の歯が欠けていくようだった。
莉奈たちと交流のあった騎士たちが、魔物に襲われて全滅したと聞いた。莉奈たちが僅かばかり助け出した町の人々が夜盗に襲われ、その盗賊たちさえ翌日には魔物に八つ裂きにされたのが見つかったと聞いた。ついに王宮にも魔物が出没するようになり、国王と数人だけが地下に逃げ延び、他の人々は無残に殺されたと聞いた。莉奈を最初に見つけた神官も、腹を貫かれて死んだそうだ。
そして、エルフの女性は毒に犯されて事切れた。
何てことない掠り傷だったが、魔物の爪には強力な毒が含まれていたのだ。エルフは正常な空気を好むため、毒物にはとても弱い。発狂せんばかりに暴れまわり己の身体を掻き毟る魔法使いを、莉奈もフェリも寝台に押さえつけることしかできなかった。最期に一度正気を取り戻した女性は二人を見て「ごめんなさい」と涙を流したが、血と混じって涙が赤く染まり女性の服を濡らした時には既に帰らぬ人となってしまっていた。
とうとう、たった二人きりの旅が始まる。
毎日背中合わせに剣を振るい、夜は抱きしめ合うようにして眠った。元々無口な二人だったため、その日の会話が数えるほどになることも珍しくない。
国王が死んだと聞いてもう旅を続ける意味もなくなったが、それでも止めてしまっては立ち上がれなくなることは目に見えていた。世界の果てへ果てへと歩き続け、魔物が多くなる方角を目指した。
フェリは唐突に、莉奈のことを抱きしめることがある。
それはいつか魔法使いと神官の少年に抱きしめられた時とは違い、切なく哀しくなる抱擁だった。そっと抱きしめかえせば、お互いの体温が伝わる。それだけが生きていると感じさせる瞬間だ。
依存し合っていることは、お互いに分かっていた。
世界はもう滅びてしまったのではないかと思えるほど静かで、誰もいなくて、稀に人家の名残を見つけるのみだ。
「フェリ」
莉奈がフェリの腰に腕を回すと、子どものように抱き上げられ耳元で名前を囁かれた。
「リナ」
フェリにそう呼ばれると、地面に立っている感覚が戻ってくる。そうしなければふわふわと浮いたまま天まで昇って行ってしまいそうだった。
魔物との戦いは今まで以上に激しくなったけれど、莉奈の生傷もみるみる増えていったけれど、それでも辛いとは思わない。感覚が麻痺してしまっているのもあったが、それ以上にフェリを失いたくなかった。フェリもきっと莉奈に対して同じ気持ちを抱いているはずだ。一人欠けて、また一人欠けて、もう二人にはお互いしか残されていなかったから。
だから、もう消えてほしくなかった。
世界の果てへ果てへ。旅をして、ついに辿り着いた。
そこには何もなく、ただ巨大な黒い塊が蠢いていた。自動車廃棄場で古びたタイヤが折り重なり丸められたようである。よく見ると、今までに殺してきた魔物たちの顔が覗いていて、一様に呻き声をあげていた。
「醜いな」
フェリが言う。
莉奈もそう思ったけれど、同時に悲しいとも感じた。たくさんの魔物たちが、幼児が捏ね繰りまわした粘土のように、ぐちゃぐちゃに混ざり合っている。それはただの塊であり、突進してくることも火を吐くことも爪で貫こうとしてくることもない。そこで鳴き叫ぶだけの存在だ。
何故こんなものができたのだろう。
隣を見ると、いつの間にかフェリが移動していた。莉奈が近寄ると、地面を指さす。そこには、ぽっかりと丸い穴が開いていて、中では黒々とした雲のようなものが渦巻いていた。
「これが魔物たちの力の源だ」
莉奈は驚いた。
フェリの言葉にもだが、ずっと平らだった地面に穴が開いていることに。黒く淀んだそれは、全てを飲み込むというブラックホールのようだ。
「どうするの?」
「多分これは魔力の塊だ。瘴気と混じり合って淀んでしまったんだろう。これを消滅させれば全て終わるはずだ」
全て終わる。
その言葉は莉奈を不思議な心地にさせた。その正体を特に追求することなく、莉奈は両手を突き出した。勇者として召喚された際、魔力を吸い取る能力も授けられていた。
「大丈夫か?」
フェリはかなり心配そうだ。確かに魔力の量は膨大で、しかも体に有害そうだった。
「大丈夫。まあしばらく寝込むかもだけど」
莉奈の軽口にフェリが苦笑する。
手のひらに力を込めると、ぐるぐると渦巻いているだけだった魔力の塊が少し波立つ。そのまま集中を高めていくと、ある一点がひときわ高く波立ちそのまま莉奈の掌に吸い込まれていく。黒い雲が体内に入ってくるにつれ体が重くなるのを感じたが、深刻になるほどのことではなかった。
最後の淀みを吸い込み終えて、莉奈とフェリは安堵の息を吐いた。莉奈が思わず笑顔でフェリを見上げると、彼も静かに笑い返してきた。
これで、全て終わったのだ。
先のことは考えずにその事実だけに満足していた莉奈は、フェリの一歩先を歩きだした。久々に足取りが軽く感じられる。白い大地を少し駆けて、それからフェリを振り返った。
「ねえフェリ…」
穴の近くに留まったままのフェリは微笑んでいた。何故か人差し指は口許に当てている。誤魔化したいことでもあるのだろうか。もう一度呼びかけてみるが、返事も反応もない。
ただ困った様な笑顔を浮かべて、そしてそのままゆっくりとフェリの身体は傾いでいった。
その腹を、半分以上吹き飛ばされながら。
どさりと音がして、莉奈は我に返る。小さく悲鳴を上げて駆けよれば、フェリの腹は大きな球体が貫通したかのようにくりぬかれ、向こう側が見えてしまっていた。そこからどくどくと血が流れ、フェリは力なく横たわっている。小さな息遣いだけがフェリの命の灯がまだ消えていないことを教えてくれた。
「ど、うして…?何で」
莉奈はハッとして巨大な塊の方を見た。タイヤのゴムが重なり合ったような姿は相変わらずだが、一つだけ違っていることがあった。左端の下の方に、まだ元の形を留めている魔物がいた。おそらく取り込まれたばかりなのだろう、手足の形もしっかりしている。見覚えのある姿に莉奈は愕然とした。
「あ、………ああ」
その魔物は、口から光線のようなものを放つのだ。それは全てのものを焼き尽くすほどの高熱を持っていた。勿論、人体など一溜りもない。
「悪い…。油断、した」
フェリが息も絶え絶えの様子で口を開いた。
「でも、無事、で、よかっ…た…」
「喋らないで!」
莉奈は悲鳴をあげて、フェリの傷口を抑えようとした。しかし、それは莉奈の掌よりはるかに大きく血を止めることなど不可能だった。莉奈は途方に暮れた。自分には高度な治癒術の心得などなかったからだ。ひたすらに止血の呪文を唱え続けることしかできない。
しかし、それさえもフェリによって止められてしまう。
フェリは、骨ばった大きな手で莉奈の手を包み込み、その長くて綺麗な指を絡めた。
フェリはもう、諦めてしまったのだ。
そう悟った時、莉奈の瞳から一筋の涙が流れ、頬を伝った。誰が死んだときも、少年とエルフの女性が息を引き取った時でさえ乾ききっていた瞳が、ここにきてはち切れたように涙を流し始めた。
「やだあ………」
子供のような泣き声だ。
周りを一切気にすることなく、莉奈は泣き叫んだ。嫌だ嫌だと何度も絶叫するが、白いばかりの大地と澄みきった空は莉奈を慰めてはくれなかった。
「フェリ……!」
失いたくなかった。
自分が今必死にフェリを引き留めようとしている原因は、恐ろしいほどの執着だ。恋とか愛とか、そんな透き通った感情ではない。あの巨大な化け物と変わらぬほどに醜く歪んだ感情が、莉奈の中には存在した。きっとフェリも受け止めきれぬほどの激情。
それでも、逝かないでほしかった。
どうか置いて行かないで。
一人にしないで。
しかし、無情にもフェリの手はどんどん冷たくなっていく。
それを心底恐ろしいと感じた時、莉奈は唐突にいつかの光景を思い出した。
エルフの女性が優しく微笑んで、莉奈を諭している。
『それが何かは人それぞれだけど、それがなければ生きていても死んでいるのと一緒なの』
そうだったのか。
自分が生きている意味は、フェリだったのだ。
「フェリが死ぬなら、私も死ぬ」
そんな台詞がいとも簡単に零れ落ちた。真剣な表情でフェリの瞳を見つめれば、彼はひどく驚いているようだったが怒りはしなかった。怒る力もなかったのかもしれないけれど、ただ困った様に微笑み続けていた。もしかしたら彼も気づいていたのかもしれない。フェリが莉奈にとっての生きる意味なら、莉奈もフェリにとっての生きる意味になっていたのかもしれない。
それでも彼は莉奈に一緒に死のうとは言わなかった。焦点の合わなくなった瞳で莉奈の姿を探すようにしながら、掠れた声を絞り出す。
「俺…、アン…タに、会いに、行くから」
「だって、もうすぐフェリ死んじゃうじゃん!」
尤もなことを叫び返すと、フェリは握られていない方の手を動かそうとした。しかしもう体を動かすこともままならないようで、静かに笑うだけに留まった。
「誤魔化そうたって、そうはいかないんだから!」
莉奈が怒鳴ると、フェリは表情を改めてこちらを見つめた。彼から流れ出た鮮血は、粗方地面に吸い込まれてしまった。真っ白い地に横たわる体は今にも消えてしまいそうで、莉奈は思わず抱きしめた。
「方法は、わかんない、けど…。会いに行くから、待って…てくれ」
莉奈はもう温かみを感じなくなってきた体を締め付けるようにして抱く。今際の際にも関わらず、フェリはいつになく饒舌だった。
「待ってるだけなんてやだ」
フェリの硬い胸に顔を押し付ける。心臓の音は小さすぎて聞こえなかった。
我がままだ、と呆れた後、フェリは少し間を置いた。
莉奈はもう何も聞きたくもないし見たくもないというように固く目を瞑った。瞼の裏が暗い白に変わる。
フェリは、唇を細かく震わせながら囁いた。
「なら……、アン、タは、覚えてい、て、くれ」
莉奈はフェリを見た。
緑の瞳が三日月のように細まっている。
それを見つめる莉奈の右目から、大きな滴が一粒こぼれた。
彼の微笑みが、薄れて、滲んで、ぼやけて。
ついに世界は白く染まった。
莉奈が目を覚まして最初に目に入ったのは、自分にかけられた布団だった。
寝ぼけ眼のまま見回すと、ここが保健室だということだけは把握できた。
「お、起きたみたいだな」
突然顔を覗き込まれ、莉奈はびくりと肩を揺らす。よく見れば、見慣れた数学教師だ。今年新任としてやって来たためまだ若い。赤木と言う名字を持つ彼は、遠慮もなしにベッドに腰掛けてきた。
「授業終わっても全然起きねえから、具合悪いのかと思ってな。気分はどうだ?」
莉奈が大丈夫だと首を振ると、そうかと頷いた。のろのろと立ち上がった赤木は、雪を眺めようとでも考えたのか窓のほうに歩いていく。莉奈はぼうっとそれを見ていた。
その時、カーテンの端が少し浮き上がったのを莉奈は視界の端に認めた。窓も閉めきっているのに不思議なことだ。
「今日は寒いなあ」
とてもそうとは思っていなさそうな口調だった。場を繋ぐためのものだろう。赤木が振り向かないのを良いことにその背中を観察していた莉奈は、ふと彼の黒髪が別の色に見えた気がして目を擦った。
(疲れてるのかな)
どう見ても日本人の髪が、鮮やかな朱色に見えるなんて。
長い間眠っていたようだし、帰ったら今日はゆっくり休もうと莉奈は思う。
しかし、異変は髪だけに留まらなかった。
こちらを振り向いた赤木の目が、今度は緑色に見えたのだ。
「先生……、カラコンとかしてる?」
「はあ?教師がそんなもんしたら教育委員会に怒鳴られるぞ」
確かにそうだ。
でも、緑色に見えたものは見えたのだ。
莉奈が首を傾げていると、そこへ嫌なにおいが漂ってきた。うっと顔を引きつらせ、息を止める。莉奈は煙草が苦手なのだ。涙目で赤木を睨みつけると、彼は悪いと言って頭をかいた。
「……先生なのに」
あーと困りきった顔をした赤木は、おもむろに右手を動かした。男の人にしては綺麗な指を口許に持っていく。
その動作は、何故か莉奈の頭をひどく揺さぶった。
体内で地震が起こったのかと錯覚するほどの衝撃。唐突に頭に閃いた光景は、やけに白く平らな大地に立つ自分の姿だった。
莉奈は呆然とした。
目を見開いたまま、穴が開くほど赤木を見つめる。
その視線に気まずそうにした赤木は、人差し指を口許に当てて、いつものように微笑んだ。
またカーテンが翻って、その向こう側では、一面の白い大地が広がっていた。
読んでくださってありがとうございます!これにて完結です。
それでは作品解説?でも……。
この白い世界での話は、実際に莉奈が体験したことなのか、莉奈のずっと前の人生で起こったことなのか、それとも本当に夢だったのか…。それは作者である私も決めていません。
同じように、赤木がフェリの生まれ変わりなのか、転生者なのか、それとも地球でのフェリに当たる全くの別人なのか…。それも決めていません。
曖昧な方が面白いこともあると思うので。
このさき莉奈は若干ヤンデレになりそうだなあと思います(笑)
ヤンデレや執着系恋愛が苦手なので、まさか自分で書く日が来るとは思いませんでした。当初は二人は普通に恋愛する予定でしたし。
中学の時に思いついた私のおそらく唯一のトリップものです。
少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。
ありがとうございました。