私は紅凪クレハ
“常夜の図書館”は天窓から、満月の光を取り込んでいた。
ここに時間の概念など存在しない。その名の通り常に夜なのだ。
初めこそ不気味に思っていたが、毎日のように訪れれば心落ち着く場所の一つとなっていた。
無人の図書館に一人、俺――浅木レイは書棚から適当に選んだ本を眺めていた。唯一の光源の月光は、本を読むのに最適の光量だ。
「レイ様。紅茶などはいかがでしょうか?」
小さな音と共に、この部屋唯一のドアが開き、この図書館に居るもう一人が姿を現した。
日の元に出たことが無いような白く透明な肌に、染み一つない真っ白な服を着込んだ少女――ラジエル。
ラジエルがそっと紅茶を差し出す。その手には少女には不釣り合いな鎖がつけられていた。それは、それぞれの四肢と首に、同じものが取り付けられている。
彼女こそこの図書館の司書であり、人類が文字を手にした瞬間から生を受け、この世に生まれた書籍の全てを管理し、これからもし続ける、生ける原本、『ラジエルの書』の人型の姿だ。
「『ハーメルンの笛吹き男』ですか」
「ああ、今のところ上手く馴染んでるみたいだぞ」
「そうですか」
ラジエルは、相変わらずの無表情で答えた。
先月解決した『児童連続失踪事件』。その元凶となった本が、今手元にある。
表向きは、精神障害者の犯行となっているが、実際はこの本を手にした読者であるコウヘイが引き起こしたものだった。
現実に引き出された幻想は、そこに適応するために、その中身――記述ごと変化する。
それを、修正し再び図書館の書棚に戻す。それが、この図書館の館長であるレイの役目だ。
「それにしても、こんな童話がな」
「童話、神話を問わず、館長以外の読者が本を具現化させれば、すべて等しく改変させられます」
「わかってるよ」
そう言って、『ハーメルンの笛吹き男』閉じた。いつかこの本も別の原本を追うために使うことになるかもしれない。
「レイ様、一つ。頼まれていただけないでしょうか」
駅ビルに入っている書店は、人がまばらだった。
ラジエルの頼まれごとは簡単だ。ある本を手にすること。“常夜の図書館”に蔵書されている本はないはずなのに、妙なこだわりがある。
「っと、これか」
題名は『世界の山 写真集』
えっと、意外なものに興味がおありなようで……。しかも、思ったより高い。これは後で、代金を請求する必要がある。
溜息をつきながら、レジに並ぶ。すると、横からどさりと大きな音がした。
見ると、レジカウンターにはハードカバーの本が何冊も重ねられていた。『坊ちゃん』『こゝろ』をはじめとした夏目漱石の作品だ。
「いくら」
その大量の本を持ってきたのは、同い年くらいの女の子だ。制服は、行動圏が被る公立高校の物だった。夏だというのに、長袖のセーラーで、長い髪を適当にひとくくりにまとめている。そしてその右の袖口から、白い包帯がわずかに見えていた。
支払いを済ませた彼女は、持っていた紙袋に無造作に本を詰め込むとさっさと店を出て行った。
レイは暫く、その様子を呆然と眺めていた。
ただ本を買うという単純な作業に、何かただならぬものを感じた気がした。
「あの?」
店員に怪訝そうな声で声をかけられた。
「ああ、すみません」
そのまま支払いを済ませ、店を出る。無駄だとわかっていながら、レイは、あの後姿を探してしまう。当たり前のことながら、その姿はもうどこにも見えなかった。
その時、携帯の着信音が鳴った。いつか見たこの番号は、ラジエルだった。
「約束の本は買ったぞ」
『レイ様、題名不明の原本の反応を二つ確認しました。場所は――』
ラジエルが言い終える前に、それは起きた。
再開発中の古い建造物の一つが、轟音と土煙を巻き上げながら倒壊する様子が、駅ビルのガラス越しに、目に飛び込んできた。
『……レイ様。双方の原本の反応が消失しました』
「どうする」
『レイ様のご判断にお任せいたします』
それを最後に、通話が切られる。
「ようは、こっちの調査は任せたって言いたいんだろ」
崩れたビルの周辺には野次馬が集まっていた。それぞれ写真を撮ったり、騒いでいたり、けが人を介抱していたりと混乱していた。
遠くから、サイレンの音が聞こえてくるので、もうすぐ規制線が張られるだろう。
レイはそんな混乱の中を縫うように進んだ。
そして、路地を見つけた。黒く変色したビル壁が両側に迫り、強い圧迫感を与えてくる。
そこだけ、周囲の雑踏から切り取られたような静けさがある。そこに、あの女の子がいたのだ。彼女は崩れたビルをただ無関心に眺めていた。
「私に何か用」
彼女は、レイに背を向けたままそういった。
「まさか、用もなくこんな路地に入っていくるわけない。この先は行き止まりだし」
「本を持っていないか……?」
言い終えると、彼女は振り向いた。薄暗い中、赤い瞳が射抜くようにこちらを見据えている。
「そんなこと聞いてどうするの。それに、あなた見てたでしょう」
彼女はがさりと紙袋を掲げた。あの中には、何冊もの本が入っている。
それよりも、それを見ていたことを知っていることが驚きだった。
「私は、紅凪。紅凪クレハ。あなたとは、またどこかで会う気がするから教えとく」
そういうと、女の子――クレハはレイの横をすり抜けて行った。
「俺は、浅木レイだ。どこかで会うなら、俺も教えとくよ」
その声は届いたかどうかわからないが、レイは、小さくなっていくクレハの背中を見ていた。