レイ様、どうされました?
リビングへ降りると、妹のユキがトーストを齧っていた。
「お兄ちゃん。起きるの遅い。遅刻するよ」
レイは最愛の妹に、今までにないくらいの生返事を返すと、食パンをトースターに放り込むと、ぼんやりとテレビを眺めた。
時刻は七時、結局あれから一時間も寝ていない。母親は昨日から夜勤。父親は単身赴任でイギリスだ。
朝のニュースでは、『児童連続失踪事件』の続報が流れている。
昨夜の出来事のその後もしっかりと、テレビに映っている。
ラジエルは、大丈夫だろうか。“常夜の図書館”へ連れ込んだ後、一応できる限りの処置はした。
人類の叡智ともいえる、“常夜の図書館”だが、ラジエルが居なければ、どこにどんな本があるのか分からない。
そんな、弱さが情けなかった。
「どうかした?」
「いや、なんでも無い。それより、なるべく家から出るなよ」
小学生のユキはまだ、遊びたがりだ。時間があれば外に出て、走り回る。そんな性格だから、やっぱり慕っている友人も多いらしい。自分とは大違いだ。
香ばしい匂いを放つトーストを口に運ぶと、食事もそこそこに、通学鞄を持った。
ユキもランドセルを背負って後をついてくるのが分かった。そして、別々の方角にある学校へ行くために、玄関で別れた。
心配の種は絶えない。
昨夜見た“ハーメルンの笛吹き男”は笛の音で一種のトランス状態にするのだろうと、ラジエルは予想を立てている。つまり催眠術の類だ。
そして、どうやらある年齢に達すると効かなくなるようだ。
ユキはまだその年齢には達していない。
「なーに寝てんのよ」
ハルナは昼休みに入るなり、そう言った。
「寝不足なんだ。静かに寝させてくれ……」
そう返すと、レイは再び腕を枕代わりに、うつらの世界に落ちようとする。だが、それを許してくれるほど、この幼馴染は優しくない。
「だめ。ちょっと付き合って」
腕を掴まれると、ずるずると引きずられるように教室を連れ出された。端から見たら、さぞかし、滑稽に映っただろうな。
レイは、そのまま、屋上に連れ出された。
梅雨を過ぎた日差しは、ハルナより容赦がない。眠気という眠気を根こそぎ奪っていった。
ハルナは、屋上の中央まで、楽しそうに歩いていく。日陰から出たくはなかったが、仕方なくついていく。
「驚かないでね」
ハルナは、少し俯き加減に言うと、笑顔で続けた。
「もう、好きじゃなくなったから」
「……へ?」
どういうことだ。
確かに、幼馴染として、お互いとんでもない秘密を抱えているし、高校生となった今では、一緒に登校しようとなんて考えていない。
以前に比べれば、関係は疎遠になったと言えなくもないが、それでも、他のどの友達より長い付き合いで、そう簡単に崩れるような関係でもないと思っていた。
レイの混乱を悟ってか、ハルナは、焦るように言った。
「あ、いや、その、幼馴染として嫌いとかそういうんじゃなくて……」
徐々に、声が小さくなっていき、ついに、口元でもごもごと言っていることしかわからない。
「ととととにかく! いつも通りで良いってこと!」
そういうと、ハルナは、階段へ走って行った。パタパタと階段を駆け下りる音だけが、後に残された。
放課後、レイは“常夜の図書館”への鍵を開けた。
結局、昼間のことは分からずじまいだった。教室に戻った後も、ハルナは言ったように、いつも通り話しかけてきたのだ。
それでも、あのことは絶対に切り出さなかったのは、彼女の眼が、いつになく真剣だったのを感じたからだった。
レイは、息を大きく吸うと、一息に吐いた。
解決できない問題に、いつまでもかかわっていても、埒が明かない。なら、解ける問題から一つ一つ片づけていこう。
そして、今の優先順位は『ハーメルンの笛吹き男』。ユキの方が上に来ている。
“常夜の図書館”は文字通り、常に夜。昼の喧騒も、日差しからも、隔絶された無音の世界。
天窓から満月の光が注ぎ込む部屋にある執務机は、ラジエルの席だ。そこに、ラジエルは……
居ない。
別の部屋で、整理でもしているのだろうか。
そして、レイは気付いた。
読書用の机に一冊、本が置かれている。
手にすると、ずっしりと重い。原因はこの鎖だろう。
本を一周するように巻かれた、二本の鎖。それは見るからに頑丈そうな鍵で本に止められていた。
本は薄暗い“常夜の図書館”内で、異様に目立つ真っ白の表紙。題名は……
「!!」
誰もいないはずの部屋で、背後から音がすれば、誰だって驚く。
一瞬、ラジエルが戻ってきたのかと思ったが、そこには、手帳のような本が落ちている。たしか、初めて来たときに読まされた『ラジエルの書』だ。
どこから落ちてきたのだろうか。
「レイ様。いかがされましたか?」
「うわっ!」
いつの間にか、ラジエルが居た。いつも通りの無表情で、見上げるように立っている。
登場の仕方が心臓に悪すぎる。
「読者と『ハーメルンの笛吹き男』はいまだ未発見です。もうしばらくお待ちください」
「心配して来てやったのに、それはないだろ」
「傷は完全に修繕されました。ご心配には及びません」
確かに、辛そうな感じはないが、修繕って。服とか本に使う言葉だろ。それ。
「学校のお時間では?」
ラジエルは、首をかしげる。
「もう終わった。それより」
さっき手にしていた本はどこへ行ったのだろうか。
それを口にすると、ラジエルは、首をかしげた。
「そのような本は、見たことがございません」
「本当に?」
「私は、嘘を吐きません」
反論はしない。会って間もないがなんとなく、そんな気がした。
そして、ふと思った。ここなら、ハルナの言葉の意味が分かるのではないかと。
「なあ」
「はい」
「……いや、やっぱりいい」
ラジエルは特に気にするわけでもなく、一礼をしただけだった。
“常夜の図書館”の書物を漁るのは簡単だ。だけど、このことは、自分で考えなくてはいけない気がした。
そもそもハルナの言った『好き』はどういう意味でのことなのだろうか。
そこまで思って、レイは頭を振った。
「ラジエル。お前、原本を具現化できるのは、読者と館長だって言ったよな」
これは、朝から考えていたことだ。
「だったら、俺も、外で具現化できるのか?」
読者は、図書館外で本を具現化している。だから、こんな事件が起こっているのだ。そして、自分も具現化の経験がある。読者にできて館長にできないということはないだろうと思った。できれば、自分も何か守る手伝いをできる。
「可能です」
ラジエルはもっとも簡潔な答えを告げた。
レイは、ほっと胸を下した。知らず知らずのうちに緊張していたようだ。
「ですが……」
いつの間にか、日が傾いていた。
楽しいことが、あると、それにのめりこみ過ぎてしまう。ユキの悪い癖だった。
『児童連続失踪事件』で、午前中に帰されたが、誰もいない家に一人で待っていることほど、つまらないことはない。
そう思っている友達も多かったようで、ユキは遊びに出かけて行った。
夏の日は長い。それが、傾くまでといったら、それなりの時間になっている。
帰ったら、お兄ちゃんに怒られるだろうな……。
ユキは、ツインテールをパタパタ鳴らしながら、家に向かって駆けて行った。
だから、気にしなかった。
古い装丁の本を持った、クラスメートの男の子が電柱の陰にいたことを。
その子は、ユキの後姿を眺めながら、本を開いた。
「ねえ、もっと、遊ぼうよ」
そういうと、本の記述を音読する。
ドイツ語で書かれている本の文字はゆがみ、紙から離れ、螺旋を描きながら立体的になっていく。
色とりどりの布を纏い、片手に角笛を持った男。男が笛を吹くと、不気味な音が町中に響き渡った。
「さあ、遊び場に行こうよ」
男の子の持っている本の表紙には、ある題名が書かれていた。
題名は、『ハーメルンの笛吹き男』。
無理やり押し込める形になってしまいました。
読みにくくてすみません