六
放課後の臨時委員会。日直のせいで担任に呼ばれ、資料作りなど手伝わされて大分遅れてしまった俺は、自分の席の横を示してくれる高原に頭を下げて、わざわざ確保してくれていた席に腰掛けた。
高原の前にはノートパソコン、ここでも書記をしている様だ。議事録作成の為に飛び交う議論内容を打ち込んでいるらしい、高原の両の指はめまぐるしくキーボードを叩いていた。
……発言が重々しい空気の委員会だった。遅れて来た俺に向けられる視線が、まず殺気立っていた。入らず帰ろうかと本気で足が竦んだけれど、高原が素早く小さくしてくれた手招きに救われたのだった。
目を落として、配られていたプリントに読み入る。その間にも交わされる、メンバー達の意見を聞き逃さない様に俺は意識を集中する。プリントには昨夜高原にさわりだけ聞かされた事の詳細が記されていた。
『書籍並びに辞書の紛失被害報告:昨年十月より今年二月迄の期間で、以下に記す書籍の紛失を認める。……』
月毎に本の題名が並び、統計として歴史書、やら絵本・小説、などと分類毎に冊数が記してあり、月別の冊数と曜日毎の冊数がグラフにされていた。
ただの管理ミスではないらしいのが、その規模から窺えた。再度貸し出しと返却の記帳の方法を確認した方がいい、図書室の鍵掛けの確認はどうなっているのか、サインなどする様にしてはどうか、一般生徒の入室に当たりノートや筆記用具など必要なもののみは持ち込み可とし、鞄などを入り口で預かるシステムをとってはどうか、いやそんな大仰な事をすれば図書室離れが更に進行する、大体にして個人情報が守れない恐れがある、では専用ロッカーなど購入してもらい設置するのが自然ではないか、怪しい奴がいると分かった以上いっそ監視カメラを入れればいい、それこそ個人情報の流用だ、誰が映像のチェックをするんだ、などとメンバー達の白熱しまくった議論に、俺は圧倒されていた。
ドアが開き、プリントを抱えたメンバーが入って来た。何やら新たなプリントが配布される。休む暇なくキーボードを叩いていた指をようやく止めて、高原がふうっと一息ついていた。
俺はプリントに目を遣った。『書籍の持ち出しに関与していると思われる人物の特徴』と題されているーー身長175cm程度、やせ型、焦げ茶色の短髪、火曜日と金曜日の目撃情報により作成、とある。
具体的に、人物特定迄成される程に絞り込みのされた、現実に起きている本の窃盗事件なんだ、と俺はプリントを食い入る様に読み進めた。『万が一上記の人物もしくは行動に疑わしい点のある人物を見付けた際は、①速やかに机の裏の緊急ボタンを押す事 ②その人物の出現時間、滞在時間、図書室内での歩いたルート、見ていそうな棚など、怪しまれない程度に危険のない範囲で書き留める事 ③その人物の外見や特徴などを出来る限り細かく書き上げる事ーー注釈、として、決して当事者への接触を図ってはならない(単独複数に関わりなく)。音が鳴る為、携帯カメラの使用は厳重に禁じる。万が一相手側からの接触があった場合は、慎重に対応し、応援を待ち、必要に応じ内線で教員を呼ぶ事。また、メンバーや教員にのみ通用する俗語を決めたので以下に記す。
・書籍の持ち出しに関与すると思われる人物:推薦図書
・右記以外に怪しい行動を見せる人物で右記との接触のある人物:海外図書
・右記以外に怪しい行動を見せる人物で右記との接触のない人物:新刊図書
・緊急事態:書籍の処分の時期
(例)当番日に、書籍の持ち出しに関与すると思われる人物が歴史書の棚を検索している事を、応援に来た他のメンバーに伝えたい時:「書籍の処分の時期です。推薦図書がEの棚に入りました」
の様に使用する』
……恐らく全員が、緊張をもってプリントに書いてある内容を読み進めているのだろう。静まり返った教室に、高原が放つ言葉が響いた。
「先程皆さんから意見を頂戴したものをまとめましたが、くれぐれも記入した内容の遵守をお願いします。場合によっては警察に入ってもらう事になるかも知れない事態です、中途半端にこちらから相手へ働き掛けてしまい、それ迄の下準備が無駄になる事のない様に、また皆さんに危険が及ばない様に、慎重な対応を心がけて下さい」
やや、教室が騒めいた。司会らしい先輩メンバーが、仕切る様に続ける。
「本日議論した内容についてはまだ決定ではなく、全て校長以下全教員にも話し合ってもらい、必要であれば実施する、という段階です。大事なのは証拠を固める為の情報収集であり、情報の共有です。各自が保守を心がけ、すぐに応援を呼ぶ事を念頭に置き、必要以上に怖がらずに行動する様にして下さい。……何か、意見のある方?」
騒ついた中、当番の際教員が一緒にカウンターに居てくれる事はないのか、と質問が飛んだ。
「相手を警戒させる事になるので、こちらからいつもと違う行動を起こす事はしたくありません。一人での当番が不安だと思われる方は、図書委員のメンバー内で声を掛け、誰かに一緒に入ってもらって下さい。ただ、毎日毎日二人がカウンターに居る状態が続くのも不自然な話なので、なるべく最終手段として、そうして頂ければ助かります。……他に何かありますか?」
しーん、と静寂が答えた。暫く質問を待って、ない様子なのを見届けて、司会は閉会・解散を告げた。
散る様に去って行くメンバー達、パソコンから目を上げない高原は司会や他のメンバーに机を囲まれ、何か話している。気配が立たない様にすっと立ち上がり、滑る様に俺はその場から去った。委員メンバーに隠れて高原の顔は見えなかった、向こうも俺の動きなど見えていないに違いない。
安堵しながら家路を辿る。高原の行動を制する意味をもって、俺は早目にメールを送った。
『お疲れ様。高原が堂々として落ち着いてるから、おれも他の委員メンバー達も皆安心出来るよ。明日の当番はちょっと不安だけど、何とか一人で頑張るから。高原、呼んだらすぐ来てくれるんだよね? だったら全然怖くない。議事録とかで忙しいのに、おれから高原に余計な迷惑とか負担掛けたくない。…って思うおれの気持ちも汲んでね。じゃあ。今日は手強い宿題があるから、早く終われる様に今から頑張ります! 高原もゆっくり休んでね。おやすみ(^o^)』
ーーこれで、明日の当番に一緒に入ると言われる事も防げた筈だ。高原との距離にリーチを置きたい俺の、精一杯だ。
……分からない。高原の本心なんて、俺が勝手にそうだと確信してしまっているだけであって、不安定で頼りなく見える俺を本当にただ正義感や慈悲の意味から、心配して矯正させてやろうとしてくれているだけなのかも知れない。『博愛主義者』の『荒治療』を用いて。
それとも、むしろ高原は俺の事が大嫌いで、見ていて苛々するから嫌がる事しちまえ、みたいな逆の感情を持っていない、とも言い切れない。平和主義者だから表面上の笑顔は正反対にも繕えそうだから。
どちらにしても、俺はきっと、自分が傷付きたくないだけなのだろう。一度深く付いた、まだ癒されていない傷を抱えた身としては。当然の防衛反応として。
……高原からの返事が怖い筈なのに、期待する様に携帯を握り締めているのだ。どうしていいのか分からない自分自身に、俺は戸惑っている。
ただ一つ、確かな真実。ーー高原に見限られる事や蔑まれる事は恐くない。だけど、もしも裏切られたなら……俺はきっと、立ち直れない。迷わず死を選ぶ。どんな言い訳を聞こうと、それが誤解であったと後で分かる事になろうと、それを待たずに俺は自分の命を絶つだろう。
ーーそれ程に、高原は俺の中で大きな存在なのだった。
緊張しながら、カウンターに居る。入室して来る生徒に向ける目が険しくならない様に、手元に広げた昨日の委員会で配布されたプリントに目を落とす。
『大丈夫?』と心配してメールをくれる高原に、『常連利用者さんしかいないから大丈夫みたい。心配ありがとう』と素早く返事を送る。『何かある前にすぐ呼ぶ様に!! 遠慮しない事!! あ~でも生徒会の方にも報告しなきゃだから忙しいよ~』……『大変だね。無理しない様にね』
直ぐにあった返信に、間が空いた。暫くして届いた二行。
『顔が見たい。橘に会って癒されたいよ俺……』
返す言葉に詰まり、俺は携帯を閉じて鞄に仕舞う。当番の仕事が忙しくなったとか人に見られそうだったとか、言い訳は何とでもなる。
……高原の忙しさに、期待してしまう俺だった。
座っていても、強く襲ってくる眩暈と吐き気。矢張り無理だと頑固に断れば良かった、と俺は果てしなく後悔している。不規則に加わる、絞り上げられる様にぎりぎりと痛む頭を押さえ、俺は洩れそうになる唸り声を必死で呑み込もうとしている。
兄の一周忌。行われている自宅の居間、俺は兄の遺影が目に写らない様、厳密に言うと居間の景色すら目に入らない様な部屋の外に居る。
尋常じゃなく蒼白な顔色、呼吸の仕方を忘れた様にひきつり痙攣を起こしそうになる喉元、支えがないと今にも意識を失い倒れそうな俺の危うさに、正直ここ迄の拒絶反応じみた態度を示すとは予測もしていなかったのだろう、両親は後悔丸出しの顔をしていた。
本来ならば両親はお坊さんの真後ろ、親戚達の最前列に並んで座っていなければならない筈だ。けれど俺がこんな状態で、初めから俺の腕を取り体を支えてくれている母に続いて、今は父迄傍に来てくれていた。
お兄ちゃんの法事に出られる、と母に控え目に聞かれ、俺は初めから無理だと断っていた。なのに、携帯を持ったり自然に笑ったり出来る様になった俺に期待でもしてしまったのか、今朝やって来た母は強引に俺を家から連れ出し、忌まわしいこの家に引っ張って来た。結果、この始末だ。
兄とこの家に対する俺の反応の理由を、両親は知らない。俺が全てのものから心を閉ざした理由も。それでもただ俺を心配し支えようとしてくれる両親は、きっと夜遅く親戚達が皆帰って三人だけになっても、理由を話して欲しい、とは口にはしないだろう。
断固として秘密を明かす気のない俺も黙ったまま、そうしていつものよそよそしい空気だけが流れるのだ。そうさせたのは、三割程は兄のせい。
いつどこで死んだのかも分かっていない兄。ドラマか何かで良く見る始末されるヤクザの下っ端みたいに、倉庫が並ぶ埠頭で、切断された体で発見されたらしい。左腕とお腹部分は、今もまだ発見されていないと聞いた。誰かに殺された事だけは確かだ、それも相当恨まれての結果らしいのも明らかだった。
ーー怖いのは兄じゃない、兄の陰から身を現す、もう一人の存在が俺を凍りつかせるのだ。どうにか記憶の底に深く閉じ込めた、俺の自我を奪い俺を狂わせたあいつがーー
ーー思い出しそうになる手前、俺の精神を守る為に、俺の防衛本能は一時的に意識を失わせる事を強制してきた。目を閉じる間際に俺は、別の誰か、見慣れたその人が脳裏に浮かぶのを自覚していた。
……高原。笑顔の暖かさ。触れる手の優しさ。選ぶ言葉の、発せられる声の心地好さ。傍に居てくれるだけで感じる安心感。初めての、俺にとっての親友。
高原の事を思っただけで、くらく俺を呑み込みそうだった闇が瞬時に消えた。ベッドを嫌がり暴れた以前の出来事を覚えている父に運ばれ寝かされたソファで、目覚めた俺が穏やかなのに両親が戸惑う程に、想像の高原は俺を落ち着かせてくれていた。
たかはら……。逢いたい。今の俺が望む、正直な気持ち。弱った心が求める、一番信用出来る本心。高原に、隣に居て欲しい。
……けれど、初めて俺から欲して行動に移した欲求は、叶えられる事はなかった。真っ赤になりながらようやく送った『会いたい』とだけ打ち込んだメールに、返事はなく。どうしたの橘、と興奮した様に問う電話もなく。
両親と別れて、一人家でうずくまる。胸に抱えた携帯の振動だけを待ちながら。聞きたくて堪らない声だけを望みながら。今なら、走り出せる気がした。殻を破って飛び出せる気がしたのだ。自分の向かう先に高原が笑って待っていてくれるなら。
……高原。逢いたい、って言ってるのに。何で俺の声、聞こえないの? 何で、応えてくれないの? 高原ーー
眠れなかったのは、俺だけじゃなかったらしい。普段が余りに生き生きとしているせいで、高原の寝不足の目元は慢性的にそれを抱える俺と違って、本当にしんどそうに見えた。
朝一番、高原は登校する俺を待ち構えて、人気のない体育館の陰に引っ張って行った。何を聞かされてもどうせ言い訳でしかない、と俺は突き放す構えでいたから、自分にとっては馴染みの深い無表情で高原に対峙していた。
「ごめん!!」
予想どおりと言うのか、開口一番に高原は頭を下げて謝ってきた。
「橘があんな事思ってくれて、伝えてくれてんのに、応えてあげられなくって。昨日さ、委員長と生徒会役員と先生達とかで集まって、報告会してたんだ。警察に事件の可能性として届け出するのかどうかとかさ。俺携帯忘れて出ちゃっててさ、帰って来たの遅いし疲れてたのかな、ご飯食べてる最中に寝ちゃっててさ。姉貴も起こしてくれりゃいいのにさ、ねえ?」
勢いに載せて賛同を促す手口に、俺が乗る筈はない。至って冷静な目をしている俺の無言に、ばつが悪そうに高原は言葉を続けた。
「……ごめん。何を言っても言い訳だね。気が付かなかった、だなんてさ」
分かってるんだ、と俺は冷たく高原を見返す。絶対に口を開かないつもりの俺の徹底した態度に気付いていて、高原は心底困った顔をしている。
はあーっと、長い溜め息をついて。ぼそりと飾らない言い方で、高原は言った。
「だってさ、今朝の二時過ぎてたんだ。橘のメール見たの。さすがにそんな時間じゃさあ」
もごもごと、言葉が濁された。柔らかいなりにはっきりとしたいつもの高原とは余りに違う、優柔不断な、それこそ言い訳にしかならない物言い。
気付けば、硬い声で俺は口を挟んでいた。
「俺は起きてた」
はっとした様に、高原が俺に目を据えた。平坦な口調、感情を欠いた目で高原を見返して、俺はもう一言、相手にとって打撃となるのを分かっていて一言を付け足した。
「何時だろうと関係ない、俺は起きて、待ってた」
俺の主張を受け止めた、高原の気色ばんだ傷付いた顔ーーごめん、と呟くより先に手が伸ばされ、高原は俺に触れようとした。
身を引いてその手を避けて、俺は拒絶を態度に表した。俺が高原を待っていた気持ちの重さ、本当に傍に居て欲しかった時に高原が応じてくれなかった事、その失望感と不信感ーーそんな俺の心の動きに気付いたのだろう、高原が息を呑んだ……
くるりと背中を向けて、素早く立ち去るつもりだった。なのに後ろからがばっと体を覆われ、動きを止められた。
本気の嫌がり方で振り上げた俺の手が高原の顔に当たったのか、眼鏡が飛び、かしゃんと地面に響く音を立てた。咄嗟に手の力を緩めた俺を後ろから抱き締めたまま、高原がそっと手首を掴んでくる。いつもとは違った、慎重で静かな物言い。
「……ごめん。橘の本気に、俺気付けなかった。向き合えてなかった。橘が、折角勇気出して本気で願ってくれたのに」
そして、ぎゅうっと強い力が籠もる。
「今更、と思われるかも知れない。今頃、と思うかもね。だけど、言わせて。橘の気持ち、俺理解したから。親友として、俺を頼ってくれたんだよね? 困った時に頼る所として、俺を選んでくれたんだよね?」
それはまさしく、正しい理解なのだった。逃げる力を込める事も忘れ、今度は俺が息を呑む番だ。不意にするりと腕が解かれ、高原が離れてくれた。
ここが学校で、体育館の陰とは言え誰かの目があったかも知れない事を思い、俺は慌てて周囲に目を走らせた。どうやら近くに人も居ない、様だけど。
屈んで拾い上げた眼鏡を手に、高原がそっと俺に顔を近付ける……耳元での囁きの形に。
「本当に、ごめん。許してくれる?」
それは、俺の耳には甘く聞こえてしまった。甘い……まるで恋人同士の睦言の様に。
だけど高原は先程「親友」と言ったのだ。警戒を顕わに言葉で示した俺を見て、いつもの冗談を一切追いやって。俺の信用を取り戻す為に、真剣な態度で。
だから俺は自分の誤った解釈を否定して、すっと背筋を伸ばして真面目に高原を見返した。高原は、どうやらこの一件を正しく把握し、反省してくれているーー小さく、俺は言葉を落とした。
「許す許さない、じゃない。俺があんたを信じられるかそうじゃないか、だ」
ーー高原は、どちらとも明かさない俺のその言葉をどう捉えたんだろう? 微笑んだ表情、いつもは穏やかで優しいとしか思わなかったその細められた目が今は、まるで愛しくて堪らない恋人を見る様にーー
ーー逃げる様に、俺はその場から立ち去っていた。
毎日交わされていたメールが、最近はどちらからともなく送らなかったり返さなかったりで、それはまるで高原と俺の不協和音を表している様なのだった。
高原は、図書委員兼生徒会役員として図書の書籍の盗難事件の対策で忙しい。俺は俺で、高原を特別な存在に思いかけた処で、期待どおりの反応がなかったダメージを感じてしまっている。その後のフォローがない事も含めて。
『俺もう手一杯だよ。橘に会わないと倒れちゃうよ!!』などというメールを送られても、現に俺に逢わなくても高原は倒れちゃいない、と冷たく切り捨てる自分が居るーーそれが単に、お得意の無関心から突き放す気持ちで生じるものなら、俺も自身に混乱したりはしない。だけどそれはどうやら、今迄の俺にはない、おかしな考えにくい感情から発生している様なのだ。信じ難いけれど……嫉妬、の様な。
分かり易く噛み砕くと、『俺がこんなに気持ちを向けてるのに、高原の方が俺に気持ちを入れていた筈なのに、何で今アピールしてるのは俺なんだ』と言う様な。いや別に、相手に向けてアピールしている訳でもないのに。気持ちの上での強さ、と言う意味で。
自分の感情を整理しきれない、携帯でも向き合う事を避けている俺を、でも正義感の塊みたいな高原が放っておく訳はないのだった。