五
一見して、タチが悪いと知れる人達だった。四方を各々に囲まれて立たれ、俺はぎゅっと握った拳に力を込めた。
「橘っての、お前?」
正面の一人が、ぞんざいに尋ねてきた。どうにか目を反らさず相手を見上げる事に精一杯な俺に、頷く度胸がある筈もない。ぐいっと乱暴な手に前髪を掴まれ、後ろに引っ張られた。のけぞった俺に顔を寄せて、手を離した相手は下卑た笑いを吹き掛けてきた。
「口が聞けないの、ボクー? それとも耳が聞こえないのかなー?」
ぷっ、と周りの三人が笑う。口々に、そいつらは言葉を放ってきた。
「噂どおりじゃね? 顔的に」
「分からんではないな……」
「俺はありだな」
最後の奴が、俺の頬をがっしと掴んで自分の方に向けさせた。舐め回す様な眺め方に、俺はぞっとする。
……頭の中が、真っ白だった。威圧される事は忌まわしい過去を呼び醒まし、俺の足を竦ませる。体を逃がす事も何か口にする事も出来ず、細かに震え出した肩が不意に跳ねてしまわない様に、俺はそこに意識を向けていた。
なのに、そこを攻撃対象にされてしまった。頬にあった男の手が、いやらしく首筋を辿り肩に載せられる。びくっと体が弾み、反射的に目を閉じてしまった俺に、男達は面白がる響きの台詞を投げてきた。
「あれれ、かっわいいー。観念すんの早過ぎじゃないの?」
「つーか弱過ぎだろ」
「人質としちゃ、最高だな」
はははっと笑いが重なる、必死の勇気で俺は目を開けた。人質ーー不吉なその一言に、一際高く笑う先程真正面から髪を掴んできた男にどうにか視線を定めて、俺は震えを押し殺した声をこぼした。
「俺に、何の用……?」
怖かった、震えは今や足に拡がり、膝をがくがくとさせていた。それでも脅えを隠して毅然と映る様、俺は目線を強く保とうとしていた。
へえー、などと男達は無遠慮に近くから俺を眺めたり、背中側に回り込んで観察する様に俺を見たり、と好き好きに動きながら。
「ここで強がれるだけ、見込みあんじゃねえの」
「これは是非お持ち帰りして確かめたい限りだな」
「何をだよ」
「高原みてえにかよ」
げらげらと笑うそいつらから発せられた名前に、俺はぴくっと反応しかけたーー正にその瞬間に、そいつらとの間に立ち塞がる様に、第三者の背中が俺の前に現れた。
突然割って入ってきたその誰かに、男達の空気が剣呑になる。
「噂をすれば、だな」
「正義のヒーロー見参ってか?」
「姫を守る王子様、だろ」
俺を庇う様にして立つ高原の方に、男達の関心は移った様なのだった。迫る近い位置の男達を見回して、高原はこの場の緊張にそぐわない、いつもの穏やかな声を放った。
「昨日の今日で、手が早いね君達。弱いとこにすぐ攻撃向けんの、ハイエナ並みだね」
「何をっ?!」
「てめえ、調子に乗んじゃ」
「まあまあ」
いきり立つ仲間を押さえたのは、正面に立つ男だった。リーダーらしいそいつが、一歩出て高原に近付き、触れそうな程に顔を引っ付けた様に見えた。高原の表情は見えず、だけど漂う気配は先程迄と違い、俺にでも分かる程冷たく冴え冴えとしている。そんな高原をからかう様に、リーダーの男は言葉を落とす。
「お前の大事な仔猫ちゃんを、一目拝ませてもらおうと思ってな。俺達とも仲良くさせてくれよ」
「うわっ」
つい、声を挙げてしまった。四人の中では比較的まともな意見を述べていた一番体格のいい男が、高原の背に隠れる様に立っていた俺の手首を掴み、ぐいっと陰から引き出す様に引っ張ったのだ。
ちらりと視線を投げて俺の姿が無事だと確認したのか、高原は顔を寄せたリーダーに向けて鋭い声を放った。
「勘違いしてるよね。俺あんたらみたいな趣味ないよ。つーかさ、俺に何かしたいんなら俺だけを狙えよ」
さらりと凄んだ最後の言葉の威圧に、リーダーは楽しそうににやりと笑う。そいつが何か口を開こうとした時。
風の様に、高原が動いた。まだ俺の手首を掴んだままだった男の前に現れた、と思うや否やその身が沈み、次の瞬間、柔らかに俺の手から男の手は外され、大男は両膝を床につく形にどさっと体を落としていた。俺に対し好色な目線と言葉を投げていた男が瞬時に動き、高原に掴み掛かろうとする、どう動いたのだか見えない内に、男は薙ぎ払われた様に大きく後ろに吹っ飛んだ。どっちつかずの意見で立ち回っていた第三の男が立ち尽くす前に高原は身を翻し近付いて、何が起きたのか男は腹を庇う様に身を丸めながらその場に崩おれた。
はあっと、高原が面倒臭そうに一つ息をこぼしたのが、俺には見えた。次の瞬間には、目を剥くリーダーの目前から高原はその胸元に入り込み、と思うと一瞬で、すっと背筋を伸ばして立った高原の前、リーダーの男はよろめく様に膝をついた。
言葉を発する事すら出来ないのか、喘ぐ様に息を大きく吸い込む事を繰り返すリーダーの男に興味のなさそうな視線を投げて、高原は小さいくせに迫力充分な声音で告げた。
「時期図書委員長候補の優秀な人材に、ちょっかい出さないでくれる? 君達とは住む世界が違う人なんだよね」
僅かにずれた眼鏡を、くいっと上げてみせて。戦闘不能の四人が動かないのを冷めた目で見渡してから、高原はうって変わった優しい笑みを俺に向け、促してきた。
「行こうか」
「たっ……高原、凄かった!!」
「えー、本当? 有難う~」
「あんな強そうな人達一瞬で……何か格闘技でもやってたの?!」
「そんなのしてないよ~」
「してないのに、あいつら倒しちゃったの?!」
「橘大袈裟だって~」
謙遜しながら、高原は嬉しそうなのだった。いつになく語尾が甘えた様に伸び、褒めてと言わんばかりの顔をしている。俺としてはベストの処を助けられた訳で、怖かった反動やら高原の意外性の驚きやらの興奮もあり、まだ続けずには居られなかった。
「高原、すっごい恰好良かった!! 強いし、堂々としてたし、息も乱してなかったし、あんな怖いの大勢なのに怯まないし!!……あっ、助けてくれて、本当に有難う」
慌てて口走る。最後の一行を一番初めに言うべきだった、と焦る俺に、いつの間に着いていたのか久々の公園の椅子に腰掛ける様に高原は示し、やや表情を引き締めた感じに言ってきた。
「うん、危なかったね。あいつら直接君を狙いにきた」
椅子に座りながら、俺は戸惑いからつい聞き返していた。
「知り合い?……じゃないだろうけど、知ってたの? 俺がからまれるって事」
責めたつもりなど全くないのに、高原にはそう聞こえてしまったらしい。先程迄の昂ぶりは極端に身を潜め、高原はらしくなく目を落とした。
「……ごめん。実際あんなすぐに手を出してくるとは思わなかったんだ」
口を挟める雰囲気ではなく、俺は黙って高原の言葉の続きを待っていた。言いにくそうに、高原は言葉を組み立てる様に一つ一つをゆっくりと口にした。
「あの不良達、元々俺を目の敵にしてんだよね。何かある度にいちいち絡んでくるし。適当に受け流してりゃ過ごせてたんだ。あんな風に直接向かってくる事は一度もなかったからね今迄。よっぽど橘が俺の弱点だって思ったんだろうね。まあ実際そのとおりなんだけどさ」
何と返答をすればいいものか俺は困って、じっと高原を見上げていた。高原の探る様な、どこか自信なさ気な目が俺を捉え、言い聞かせる様に続けた。
「昨日、靴箱で逃げただろ。あいつらに見付かりたくなかったからだよ。基本は、俺橘を皆に見せたいからね。自慢して、見せびらかして、いいだろーってノロけたいからさ」
「のろっ……」
気になった単語をつい復唱しようとして、俺はむせた。大丈夫、などと高原が、自分のせいなのに俺の背をさすりながら言ってきた。
「……俺のせいで、橘怖い目に遭わせちゃったね。ごめんね。何もされなかった?」
労る優しさなんだ、と高原の近付いた顔を間近に受け止めながらも、俺は内心どきどきしてしまうのだ。大人しい文化系だと思っていたのに、あの圧倒的な強さ、無駄のない華麗な立ち回り。頷いた俺の発した声は、かなり小さなものだった。
「平気……高原助けてくれたから。ごめん、俺知らなくて、昨日も守ってくれてたのに逆に怒ったりして」
「ああ、拗ねてた事ね」
「すっ……怒ってた事!」
つい訂正する俺のツッコミが早かったせいか、高原は実に楽しそうに笑って。
ふわりと伸びてきた手が、俺の頬を優しく包む。先程男に乱暴に掴まれた事を思い出し、無意識に緊張する俺に、直ぐ正面から高原の真剣な目線がぶつけられる。
「ーーどんな形であろうと、君を狙う奴は俺が排除する。君に触れようとする奴は、二度とそんな気を起こさない様に痛めつける。君の事は、俺が守る。全身全霊を賭けて」
有難う、などと気軽に返せる内容ではなかった。ごくりと息を呑む俺を暫くそうして見つめてーーはっとした様に、高原は慌てて俺の頬から手を離し、顔も遠退けた。
動揺を隠す様にか僅かに下向けた顔を直ぐに挙げた高原は、もういつもの穏やかな高原だった。だけど俺は、高原の言動がなにか匂わせる、俺の心の奥底の癒されない闇に関わる様な感覚に、警戒を張り巡らせていた。
もし今また触れようと伸ばされたとして、俺はそんな高原の手を強く拒絶するだろう……それは態度に表れていたらしい、離れた位置に距離を置く高原は、空気を和らげる様に笑ってみせた。
「俺さ、自分に何かされんのは平気なんだけどさ、自分の関係した人に何かされんの一番許せないんだよね。もしとばっちりで橘が酷い目にでも遭ったらさ、俺一生掛けても君に償いきれないって思うもん」
「……」
……何か、返そうとした。けれど明確な言葉は思いつかず、視線をよそに漂わせる俺に、小さく高原が呟いた。
「ごめんね。またこんな事があるかも知れない。君は……何て言うか、人気者だから。でも俺がちゃんと守るから。俺が君のガードになる。だからなるべく俺の傍にいてね」
さらりと、何だか色々な事を凝縮させた様な台詞が告げられた。最後の一言に思わずかあっと赤くなって、余りゆっくりとそれを考えられない内に、高原はそうそう、と何やら鞄を探って何かを取り出した。
「知ってた? 橘さ、明後日初の図書当番なんだけど。生徒会と被るから俺ついてあげられなくてさ、親切で丁寧な先輩に任せてるんだけど。明日と当日と、二日共指導してくれるって。色々詳しく教えてもらってね、そんなに難しい事はないと思うから」
がらりと変わった内容についていけずに戸惑う俺に、はい、と何やら分厚いファイルを手渡して。
「付箋ついてるページ読んでくれたらすぐ分かるよ。橘よく本借りに来てたし、楽勝だって」
恐る恐る受け取りながら頷いて、俺は尋ねる。
「コピー取るから、これ暫く借りてていい?」
「それもうコピーしたやつ。橘用に作っちゃった。ずっと持っててね、大事な図書委員のバイブルだから」
「あっ……有難う」
驚きに、無駄に大きな声で答える。どっしりと重いファイルをぎゅっと胸元に抱える、付箋迄付けてくれて、大変な作業だっただろうに、わざわざこんなーー。
「わざわざ……有難う」
また繰り返す俺に、高原は何でもない様に笑ってくれるのだ。
「うん。……やっぱさ、明日一緒に図書室行こ。俺も教えてあげる。サボり方迄はさ、先輩教えてくんないからさ」
茶目っ気の溢れた笑い方でもって明るく言われて、俺に断れる筈はないのだ……。
一日の予行演習を経て、当日本番。受付業務の合い間に本の並びや不足分のチェック、隅々迄の雑巾がけ、本の日干し、校内新聞に載せる為の推薦書の選出とその書評、自習時間などに薦める為に教師に渡す教育に役立ちそうな本探し、ーー意外とする事は多く、指導されながらの一日はあっという間に終わった。
生徒会が終わってから駆けつけてくれた高原に誘われ、帰り道に『安くて美味い』ラーメン屋に寄ったりして、『極普通の学生生活』なんかを俺は味わっている。
ーー底なしの闇だった夜が、気付けばわくわくするメールのやり取りの至福の時間になっている。高原の言動が、俺の原動力になっていた。偽りのない笑顔が。真摯な態度が。
俺の心の鎧を、確実に溶かしてくれていた。
「……騙された……」
歩く道中ずっと繰り返し、時々は恨めしい目で睨む俺を、高原はにこにことした笑みでかわしていた。
「お姉さんのケーキをご馳走になりに来たんだ」
強調する意味で、わざとゆっくり俺は言う。
「食べ物で釣るなんて、卑怯だ。断るものも断れなくなる」
「んー? でも別に、交換条件としてそうさせろとか強制した訳じゃないしさ」
「それは、そうだけどっ……」
「逃げる隙いっぱいあったのに、逃げなかったの橘じゃん?」
「……っ」
言い返そうとして、自分の抗議に力がない、苦しい言い訳じみた主張になるのを自覚して、俺は口をつぐんだ。……確かに、逃げようと思えば逃げられた。嫌ですと断固拒否する事も出来た。なのに、ぐずぐずと断れなかった自分が悪いのだ……。
そんな自分の優柔不断ぶりに落ち込みかけた俺の髪にーー切られたての、短か過ぎる髪の毛にすっと手を触れて、高原は言うのだ。
「似合うだろうとは思ってたけど、正直予想以上だよ。そこらのアイドルなんか比べものにもなんない。橘可愛い過ぎ」
「かっ、かわっ……」
高原にとっては口癖なのだろうか、お姉さんと共にやたらとその単語を高原は連発していた。お姉さんの前では我慢が出来たけれども、さすがに俺にももう限界だった。
「おっ、男に対する言葉じゃない!!」
「そう? じゃあ、綺麗」
ばしっと、高原の手を払ってみせて。更にきっと睨む俺に、ふと真顔になって高原は言うのだ。
「皆が橘の魅力に気付いて夢中になっちゃったらどうしよう……周り、敵だらけだよ俺」
言われた内容を理解する事をはなから放棄した俺は、高原を置いてすたすたと歩いて行く。
高原の家からの帰り道、もう家は近い。危ないから送って行くとついて来てくれた高原は、どうせもうここでいいと手前で断った処で、家の真ん前迄ついて来るのだ、いつもの如く。
……一気に風通しが良くなった首筋や耳元の違和感に戸惑いながら、俺は今日一日の事の次第を反芻する。
ーー晴れた日曜日。『姉貴がケーキ上手く作ったから来いって呼んでる』と高原に誘われた。内緒だけど朝五時頃から頑張ってたみたいだから来てやって、と駄目押しされ、さすがに断れずにやって来た。
前日から仕込んでいたと言う美味しいロールキャベツやハンバーグの昼食も振る舞われ、メインの手作りシフォンケーキも美味しく頂き、はなちゃんに癒されながらのんびりゆったりとした時間を過ごしていた。穏やかな楽しい話の流れに乗せる様に、そうしてお姉さんはどこか怪し気な笑みで言い出してきたのだ。
「橘くんはどれが好き? 一番、お元気やんちゃボーイ風。二番、ミステリアスな無造作風。三番、ベーシックな大人風」
それは、何かの暗号なのか。理解出来ずにぽかんとする俺に、解説する様にお姉さんは続けた。
「ま、分かり易く言うと、一番はジャニーズ系、二番は韓国の若手俳優系、三番は正統派な普通の大人系、ってところね。どれがいい?」
「えっ……」
困って、つい助けを求めて高原に目を遣った。何だか高原もお姉さんと同じ様な悪戯っぽい笑みを浮かべている、俺はそこでふと不吉な思いにかられたのだ。そこでもっと警戒していればーーまあ、そんなのはいわゆる後の祭り、なのだけれど。
俺がどれとも答えを返さない内に、そうなる事は決まっていたらしかった。髪の毛切らせて、と突然にお姉さんは俺に迫り、そこで俺は、普段滅多に働く事のない直感が告げるのを感じていた。今言われた謎の三項目、あれは髪型を示したものなのだと。
「まさなおもあたしも、断然一番でいきたいんだけど。絶対似合うって、保証するわ!! でね、安心して、自慢じゃないけどあたし腕は確かだから。まさなおの髪の毛もあたしが切ってるの。分かんないでしょ? 女友達のも切ってるけど、みんな気に入ったから次もお願いって言ってくれるの。苦情が出た事ないのよ。任せてもらって大丈夫!!」
自信たっぷりに言われて、器用そうな腕前を疑ってはいない俺は、唯一引っ掛かる部分だけに抵抗を示してみた。
「あの……出来れば三番の仕上がりにして貰えたら」
『お元気やんちゃボーイジャニーズ風』が気になる俺を、お姉さんは根拠はなさそうな強さで一蹴してくれて。
「その人に似合う髪型を提案推奨してこそプロよ。キミに似合うのは断然ジャニーズ系なの!! 二対一の時点でそれが現実だって事」
ーーお姉さんプロじゃないですよね、などと言う無粋なツッコミが許される空気ではなかった。逃げようとする俺の肩が、いつそこに回り込んできたのか高原の体にぶつかった。
ただにこにこと笑う高原は、俺を無理に押さえようとはしていない。逃げようと思えば逃げられた、のはこの時だ……なのに、それ以上を無理矢理に押し切られた訳でもなく、ただ強く断れないままに、俺は普段ははなちゃんの生活スペースである庭で椅子に座らされていたのだ。
高原が掲げる鏡を見ながらのお姉さんのカットは素早く手際が良く男前な程に潔く、予想以上に長めに切り落とされる髪の毛を俺は見つめ、唖然としてしまっていたのだが。
そういえば何だか、カットか洗髪の合い間にか、お姉さんに、うっとりした様な声で言われていた……
「橘くんの髪、やっぱり素敵。柔らかくて手に馴染む、いい感触。触りたいと思ってたのよね~。本当魅力的な髪質だわー。言われた事ない?」
そんな評価など受けた事はない、と思いかけて、正につい今も、言葉に成されないそんな評価を直ぐ隣のこの変わった相手から幾度となく受けてきていたと言う事に思い至った。髪が短い分、それをすく高原の手は何だか俺の頭を撫でる様に触れていた。親にすら幼い頃にもされた記憶は殆どない事を、ましてや同性に、それも今日だけでなく今迄に何回も、だ。
深く考える事をしなかったが、実は改めて考えるとそれって異様な光景なんだろうか、と考えがよぎる。考えれば考える程徐々に恥ずかしさは増し、俺は口を開いていた。
「あのっ、……明日さっ、臨時の図書委員会があるんだよねっ」
何でもいいから話題にしようとした目論見は、高原を真剣な表情にさせた。先程迄のふざけた空気をなくして、声音も低く高原は返してきた。
「そう、その事なんだけどね」
一度に重くなる空気に、俺は身構える。図書委員としての責任感の強さなのだろうか、俺は本来の高原の気質をそこに見る。こんな時なのにこういう真面目な高原を見ると安心して頼りになる、と感心してしまう。尊敬、と言うか。
そんな俺を静かに見返して、高原は続けた。
「最近、図書室内の書籍の盗難が疑われる被害が多発してるんだ。怪しい奴が出入りしてるのかも知れない」
それだけではいまいちぴんとこない俺に、高原は言を重ねた。
「窃盗犯の存在の確認は出来てない。もしかしてそんな奴等いなくて、出来の悪い委員メンバーがへまをして、書籍の紛失って形になってるのかも知れない。真相は、全く手掛かりがないから分からないんだけど……」
俺の前では余りしない重い顔だ、相当頭を悩まされているらしい。今俺に何かが言える訳ではなく、そんな期待もしていない筈の高原は、呟く様に続けた。
「何だか嫌な予感がするんだ。不吉な感じ。橘、明後日当番でしょ。本当に気を付けてね。何だったら俺、その日一緒に当番に入るけど」
「いやっ、それはいい!!」
慌てて、俺は否定した。子供みたいに守って貰ってばかりな状況に、本気で恥ずかしさを覚えて、さすがの俺も折れなかった。
「要らない、大丈夫だから。机の下に緊急ボタンがあるんだろ? それ押したら直ぐに誰か来てくれるんだろ? じゃあ平気だから」
「でもさ橘、それ押す前に」
「明日っ、そういう話し合いっ!! 皆でするんだろ? それ以降にその話、しよう。今言われてもよく分からないから……」
迫る様な高原を止めたくて、仕切る様に俺は言葉を投げていた。何故だか必死になっていたらしい自分に気付いた様に、高原が近付いていた俺から身を離した。
伏せた目で高原を視界の隅に見る俺を見つめて、高原がしみじみとした声で告げた。
「橘、強くなったね……。口数が増えただけじゃなくて、ちゃんと自己主張が出来てる」
咎められたのかと思って、俺は何も返せなかった。くすりと笑って、高原は言を繋いだ。
「って、褒めてんだよ。何かさ俺、知らない内に自立しちゃってた息子を見た気分」
「なっ……何それ」
余りに理解し難い例えに、つい口走っていた。くすりと一つ笑いをこぼして、高原が俺の向こうに目を遣った。
「そんな事言ってる間に着いちゃったね。近いね橘の家」
言われて振り向くと、もう俺の家の真ん前なのだった。じゃあまた明日、委員会でね、と呆気ない程あっさりと高原はきびすを返そうとするーー何がそうさせたのか、俺は咄嗟に手を伸ばしていた。
ぐいっと服の裾を引っ張られた感触に気付いたのだろう、帰りかけていた高原の足が止まる。相手が振り返るより先に、俺は言葉を投げていた。
「送ってくれるの有り難いんだけど、高原は大丈夫なの? こないだの四人組とか……危険な事ないの?」
振り向いた高原にじいっと見つめられて、高原の強さがあれば心配する必要などなかったのか、と俺は自分の浅はかさに恥ずかしくなってしまった。慌てて掴んでしまっていた服から手を離し、俺は誤魔化す様に小さな呟きを重ねる。
「だっ、大丈夫、みたいだねっ。ごめん、おかしな事言って。……じゃっ、またあし」
言い掛けた途中で、久々の抱擁を受けてしまった。ぎゅっと俺を自分の腕に包んだ高原は、暴れようとする俺を制する様に力を込めて、暫くの間そうしていた。抵抗しない方が却って早く解放してくれるかも、そう思って力を抜いた俺を、けれどもなかなか高原は離してはくれなくて。結局俺の方から高原、と非難する様に声を張っていた。
やっと、体が離された。真っ赤な顔を自覚している俺は、高原に顔を見られたくなくて俯いている。無理に俺の顔を挙げさせようとはせずに居てくれて、高原のどこか熱を帯びた様な声が囁いた。
「そんなの心配してくれてたんだ……嬉しいな。橘ってさ、無意識にだろうけど俺の嬉しいツボくすぐってくれちゃうよね。ぴったしの所をね」
どんな意味の言葉に捉えればよいのか分からない俺は、黙っている。もうないとは思いながらも、高原の手が届かない位置に距離を置いて。
最後に伸びた手が、俺の頭をぽんぽんと叩いてきた。
「有難う。気を付けて帰るね。帰りたくないけど……。また、明日ね。おやすみ」
まだ顔を挙げられない俺の視界から、高原が消えた。おやすみっ、と叫ぶ様に一言残し、逃げる様にドアを開けて家の中に飛び込む、そうしてドアにもたれたままに俺は、どきどきする胸元に強く拳を当てているーー高原の一言一言が、行動の一つ一つが、俺を無性に昂ぶらせる……
今迄の高原のあらゆる言動が頭を巡る。普通、どんな仲の良い親友にだって、頭はともかく頬に手を触れたりはしないだろう。ましてや抱き締めたりなんか、まずしない。『可愛いものフェチ』と言う言い方を信じたとしても、その範囲は超えている。
他にも、俺を見つめる眼差しにしても、俺の言葉に嬉しがる過剰な反応にしても、「守る」と告げた時の真剣な言葉と表情や、普段から大事なものに触れる様に慎重で優しい接し方や……
さすがにここ迄くれば自覚せざるを得ない、高原の俺への気持ち。恐らく親愛の枠を越えた想い。異性に対するのと同じ様に好かれている、らしい。
ーー嫌な気分にならない自分に、戸惑っている。受け入れる気はないけれども、こちらから高原への憧れや尊敬、感謝といった気持ちがあるからか、そこ迄に拒絶したい気は自分には起こらないのだ。今の時点では。
ーーけれども、その夜に送ってこられたメールに対する返事を、俺はどうやっても送る事が出来なかったのだった。