三
自分で勝手に座る向きを調節出来るのが有難い。先日は、そう思っていた。なのに今は、俯いた俺の真正面に、しかも俺を覗き込む様に腰を落として、高原は座っていた。
逃げ場はない。高原がそうするのは多分に自分への怒りのせいだ、と思うから耐えているけれど。……ぎゅっと体を包まれてしまった事もある、今思い出す必要はないのに何故だかそれがやけに思い出されてしまい、ますます俺は顔を挙げられずに居る。
「橘」
声を掛けてきてくれる高原に、今は相手からじゃなく自分から話をしなければならない、と俺は焦った。意味もなくここに立ち寄らせた事も含めて、自分が謝るべき事態だ。
最大限の勇気をもって俺は顔を挙げた、待ち構えている高原とばっちり目が遭ってしまうのに面喰らいながらも、勢いを利用して俺は口を開いた。
「ごめん、俺が怒るのがまず間違いなのに。ちゃんと謝れないし。高原の貴重な時間無駄にして」
一度に色々盛り込んだせいか、ん? などと高原は小首を傾げただけだった。自分自身で再度言葉を噛み砕き、俺は続けた。
「……俺が馬鹿な態度取るから、高原に嫌な思いさせた。高原忙しいのに、わざわざこんな用事に付き合って貰ってんのにこんな無駄な寄り道とかさせて。俺、が」
後は何を謝るべきか、箇条書きが苦手な俺にはぱっと浮かばなかった。考えに浸ってしまった俺に、ははっ、と楽し気に高原が笑いを聞かせた。
「本当にさあ、何て言うか……何から言えばいいのかなあ」
呆れている、と俺は身構えた。本当馬鹿なんだなお前、と蔑まれる位なら普通だ、お前みたいなのに付き合ってられないやと去ってしまわれる可能性を考慮し、俺は固唾を呑んで高原を見つめている。
心底優しい笑みで、高原は優しく言い出した。
「何で、ごめんなの? 何で君が怒るのが間違いなの? どんなのが馬鹿な態度なの? 何で俺が忙しいとか思うの? 俺が貴重な時間無駄にして君に付き合ってやってるなんて、どこからそう思うの?」
俺の言葉の殆どを切り返す質問の嵐に、俺は唖然として高原を見つめていた。答えを求めてはいないらしく、直ぐに高原は続けた。
「自分の事卑下するのは良くないよね。君を怒る人はいないんだから、自分を殺す必要もないよね?」
……何か、含みがある様に、それは聞こえた。けれども問いを挟む度胸が俺にある筈もなく、またどんな小さな事でも真意が明かされる事が怖い俺としては、分かった様に頷くだけだ。唐突に顎に手が掛かり、ぐいっと上を向かされた。
「すぐ俯くのも良くないな。折角の顔が見えなくなる」
そう言う高原の顔が、また直ぐ近くにある。普段は眼鏡に中和されているけれど、近付くと分かる端正な顔に対峙させられて、俺は息を呑む。……甘く漂う雰囲気はない。熱を孕んだおかしな空気もない、だからこそ逃げずに我慢は出来ているけども。
「今の俺、嫌な思いさせられてる様に見える?」
その問いには答えを求められているらしいが、言い出した当事者の俺がそれを肯定するのも否定するのも、何かおかしい気がする。だけど今迄の流れからいって、と卑怯にも空気を呼んで、俺は首を横に振った。
「う、ううん」
にこっと、正解にか高原が笑った。息の掛かる様な近い位置で話をする事には慣れているのか、そのままに相手は会話を続ける。
「今日はさ、嬉しい事沢山だよ。橘が自己主張した。橘の方から一生懸命俺に近付こうと努力してくれてる。今も、逃げないでいてくれてる」
そうして、ゆっくりと顎の手が離れた……最後の一言を言わしめる為の、知らなかったが布石でもあったらしい。
俺に対するリハビリみたいだ、とふと思った。悪い所を正そうと、指摘して俺に言い聞かせてくれてる様に思える……
「俺にとって、橘と過ごせる時間は何より大切で、嬉しいものなんだ。こんな寄り道、大歓迎だね」
ーー博愛主義者なのかな、と思う。弱い所を敏感にキャッチし、助けようと動く事が出来る人なんだ。そんな事を考えながら、高原の深い意味のありそうな台詞を、俺は余り理解を求めずに聞いていた。
「覚えておくといいよ。君といて、俺が嫌な思いする事なんて絶対にないって」
「……う、うん。有難う……」
柔らかな口調から滲む強さ、言い切る自信に、ついそう返していた。……どうやら本当に、先程の俺の態度や言動にも怒ったり気を悪くした風はない様だけれど。
「可愛いもの、俺いつ迄も眺めていたいんだ。出来ればすぐ近くでさ、もっと言うなら触れていたいしさ」
真っ直ぐに俺を見つめて、また高原は際どい台詞を発するのだ。許容の限界を超えるそれに、さすがに俺は口を挟まずには居られなかった。
「……俺、一応男だから……。高原、趣味悪いよ」
はははっ、と高原は心底おかしそうに笑った。言うねえー、とばしばしと俺の肩を叩いてくる。そこ迄大笑いされて、ほっと俺も口を綻ばせた。
矢張り結局は相手に助けられて。じゃあ行こうか、と促されてしまって、慌てて俺は立ち上がる。 せめて店に着く迄は、と俺は、これ迄にない頑張りで自分から高原に話題を提供するのだった。当たり障りのない図書委員の仕事についてなど。
「いらっしゃいま……あ、まさなお」
高原の紹介を受ける迄もなく、高原と同じ顔の、綺麗な優しい顔付きの彼のお姉さんがそう呼んだ。客が少なく空いた時間らしく、他の店員さんに案内され、直ぐに高原と俺はカウンターテーブルの向こうで待つお姉さんの前に立った。
「お待ちしておりました、お話は伺っております。新規での御購入のお手続き、と言う事で宜しかったでしょうか、橘かいり様?」
「は、はい。宜しくお願いします」
緊張して頭を下げる俺を、何だか高原と同じ様な表情でお姉さんは見ているのだ。……いわゆる、『可愛いもの』を見る目付き。さっさと椅子に腰掛けて、高原が俺にも座る様に促してくる。どうも、とかまたぺこりとしながら椅子に腰掛ける俺に、お姉さんのぽつりと落とした声が聞こえた。
「顔もだけど、声もなのねー。まさなお、上出来。ケーキおごってあげる」
「姉貴、仕事」
笑って、高原が促した。はっと立ったままで緩んでいた顔に気付いたのか、お姉さんはきりっと仕切り直した仕事人の顔で、椅子に腰を下ろし俺に話し掛けてきた。
「失礼致しました、それでは早速ですが、機種などはお決まりでしょうか?」
「それが……余り良く分からなくて」
正直な感想を、俺はもごもごと口にする。パンフは見た、全部隅々迄読んだ。だけども携帯初挑戦の人間にとって、進み過ぎた技術の説明はまるで外国語を見ている様で、どうにも解読不能だったのだ。
横から、高原が問題を噛み砕く様に聞いてきた。
「色とか見た目とかの希望はあるよね? ごつごつした四角いの嫌とか、薄くて軽いのしか嫌とか、ごちゃごちゃデコレーションしてあんの嫌とかさ」
「うん、それはある程度。……派手な色は苦手。四角いとか丸いとか薄いとかはそんなに気にしないけど。一番に、操作がすごく簡単なのじゃないと、多分俺人より理解力ないし使えないと思う。そんなには使わないと思うから、あんまり機能は良くなくていい。……です」
つい高原に返していたが、パンフを広げてくれているお姉さんに向けて、焦って語尾を付け足した。お姉さんのにこりと笑みを深める優しい雰囲気は高原と同じで、何だか俺は安心してしまうのだった。
「使用目的は主にメールと電話になるだろうね。カメラ、使う?」
高原に尋ねられても、俺には咄嗟の返答は出来兼ねる。使わないかな、と返そうとしたのに、何故だか高原にすぱっとまとめられた。
「カメラは使っていこうか。適度に高画質なやつがいいね。他に望む機能は? ……今はない? 分かんないよね、実際使ってみないとね」
弟の仕切りを笑顔で見守って、お姉さんは携帯を二つ、すっと差し出してきた。
「お形二種類ございますが。こちらのスライド式のものと」
向かって左側の携帯の、上部分だけを滑らせる開け方に、俺は余りにも驚いてしまった。初めて見た、食いつく様に見る先、今度は右側の携帯が、お姉さんの手の中、もう一方の手も使わず魔法の様に自動で開いた様に見えて、俺はそちらにも釘付けになってしまう。
「こちらのオープン式のものとがございますが」
「どっ……どうやって開いたんですか今の」
右側のそれに、つい俺は反応してしまった。携帯の側面のボタンを示して、お姉さんが丁寧な説明と再度の実演をしてくれる。
「こちらのボタンを一度軽く押して頂くだけで、自動的に閉じた画面が開く様になっております。どうぞ、お手に取ってお試し下さい」
手渡された携帯を、恐る恐る説明通りに操作してみる。パカッと小気味よく開く感触に、俺は感動してしまっていた。
「すごい、恰好いい……。手品みたい。かっこいいや……」
夢中になって何度も開閉を楽しみ、下から横から携帯をぐるぐる回して眺める俺を、二人はにこにこしながら見守ってくれていた。余りに長い事楽しんでしまっていた事に気付き、俺は慌てて携帯をテーブルに置いて返した。
「ご、ごめんなさいいつ迄も。つい」
俺の恥ずかしさをさらりと流す様に、お姉さんは何冊かパンフをめくっては広げ、示してきた。
「こちらのワンプッシュオープンのものでお探し頂きますと、これですとか、こちらになりますね」
指で示されるあちこちを目で追うのも一苦労だ、ついていけていない俺に、問題を根本から打開する様な高原の提案が落とされた。
「選ぶの大変じゃん。俺のと同じのにしてみる? そんなに難しくないしこれ。橘の気に入ったワンプッシュオープンだしね」
鞄から取り出した自分の携帯を、高原は俺に手渡してきた。勝手に触るのは躊躇われる俺の手の合い間から操作し、高原が自分の携帯の画面を開いてみせる。
目に入った待ち受け画面、お姉さんや両親らしい人と一緒に笑って写った高原の、多分家族でのものらしいそれーー
だからか、と俺は納得する。高原は愛情いっぱいの家庭で優しく育ったのだ、だから他人への愛情に満ち、誰にでも優しく出来るのだろう。俺とは違って。
ーー今こんな所でうじうじそんなの考えてどうする、と珍しく俺は頭の中に暗く落ちてきそうな考えを振り払おうとした。『優しい』高原は俺と居て嫌な気になる事はない、なんて言ってくれたけども。親切に付き合ってくれているこんな時に、馬鹿みたいに黙り込んだり暗くなったりするなんて最低だ。身の程知らずだ!
気を奮っている俺には、画面を覗き込む為に身を寄せた高原の顔の近さを意識する余裕もなかった。これがメール送信画面、これが電話帳、これがカメラ、と高原が教えてくれるのを目で追う事に必死だったせいもある。
くすっと笑って、お姉さんがそっと言い添えてきた。
「只今キャンペーン中でして、そちらの機種自体のお値段も下がっております。更にお友達紹介が適応されまして五千円の割引、学生さんですので学割、全くの新規でいらっしゃいますので初めて割引、などにも対応致しております。後は……そうですね」
他の店員に聞こえない様にか、こそっとお姉さんは囁いた。
「私が個人的に認定した可愛い人に向ける、キュート割引も適応になりますね」
ぷっ、と高原が吹き出した。しれっと沢山に広げたパンフをテーブルの上から片付けるお姉さんの澄まし顔に、俺は無理に笑おうとして複雑な顔になってしまった。……高原姉弟の好みは偏っている、と俺は思う。
早速買った携帯の操作方法を、帰り道に高原に教えて貰う。家に着く頃には、何とか電話・メールの初歩的な理解が得られていた。
気が付けば家の真ん前迄来ていた。家に着いたから、とも気軽に言い出せもしない俺は、不自然に黙って足を止めた。携帯から顔を挙げた高原に、焦って選ぶ暇もなかった馬鹿な一言を投げてしまっていた。
「後は自分で説明書読むから、もういい」
言い方こそ柔和であれば、そこ迄ぶしつけに突き放した響きは表れなかっただろう言葉。自身で思わず息を呑む程に。
しまった、と後悔に苛まれ、俺はまた下を向いてしまう。ここが俺の家だとこの状況で高原に分かる筈もない、俺の暴言は高原にとって、親切に突然水を差すだけのものだったに違いない。
「橘……」
今迄は聞いた事のなかった呆れた響きが、そこにはあった。さすがにもう寛容な高原にも限界だったんだ、と俺は目をつぶる。今更ごめん、なんて言葉を挟む事も出来ず、俺は肩から広がりつつある震えに飲まれそうになっていた。
「あのさ……俺と、ちゃんと会話して?」
言われた言葉の意味が分からず、思考が止まる。
「ごめん、触るよ」
強く言い切った一言と同時に、頬を掴まれ顔を挙げさせられていた。ぐいっと、いつもの高原とは違う乱暴な手付きで更に目に掛かる前髪をどかされた。
「君の言葉さ、ただでさえ分かりにくいんだよ普段から。今の言葉は違うって今思ったでしょ、自分で。そういう時はそう言うんだよ、今のは違うからって。どうしようって俯くの止めてさ」
一気に核心を突く事を言い当てられて、俺は息を呑んだ。怒っているんだろうか、口調すらいつもとはきつく、高原は続けた。
「どうして俺が目の前にいるのに、自分に話し掛けちゃうの? なら俺いらないじゃん。大体さ、自分の中でだけ自問して、答えなんか出るの? ぐるぐる堂々巡りするだけなんじゃないの?」
……何も、言えなかった。今迄にない迫力に、目を反らす事も許されない気がして、俺はなるだけ脅えを隠しながらに高原を見つめていた。
不意に天を仰いで、はあっと高原は溜め息をついた。次いで戻ってきた顔が、俺を見て、近付いて……
ーーぴたっと額を合わせられて、俺はびくっと全身を震わせた。高原は今は目を閉じている、閉じてはいるけれど、近い、一転して小さくなった声の放つ息すら掛かる程に。
「……ごめん、取り乱した。今日はさ、何か説教くさいよね俺。嫌われたくないから言っちゃ駄目だって思ったんだけどさ、言わずにいられなくてさ。嫌われてでも言うのが友達だしね」
ずきん、とそれは心を揺らした。ぱちっと高原の目が開いた、ーー恥ずかしさではなく、何か強い気持ちに包まれた様な不思議な感覚で、俺は高原を見返していた。唇すら触れてしまいそうな近さにも関わらず。
怯まない俺を見て、高原の目がいつもの優しさに細められる。すうっと頬の手と共に額が離され、高原が遠去かる……待って、などと危うく俺は言いそうになってしまっていた。
そうして、何か縋る気持ちにでもなってしまったのだろうか、離れる高原との距離を埋めでもするかの様に、無意識に俺は高原に身を近付けていた。
「ん?」
はっとして直ぐに体を戻したのに、目聡い高原には気付かれてしまったらしい。
「どうしたの?」
「分、分からない……」
ああ迄言われた直後だ、黙ってやり過ごす事は出来なかった。けれど今の自分の行動は余りに衝動的で唐突で、本当に説明が出来そうにないのだ。困惑のままに、俺は繰り返すしかなかった。
「分からない……」
「うん。俺にもよく分かんないけどさ」
とろりと、眼鏡の奥の高原の目が甘く細められていたーーお馴染みの危機感を覚えて、俺は身構える。それより先に、素早い高原の手に引き寄せる様に抱き締められてしまった。また……!
「今のは、橘が悪いんだよ」
耳元に、囁きで告げられる。驚きに、俺はもがこうとする。封じる強さで、高原は続けた。
「離れないで、って顔した。自覚、ある?」
……不覚にも、それには思い当たってしまう。無意識に近付いたりなんかして、きっと今自分はそんな不安定な顔をしていた、のだろう、と思う。とは思うけれども。
ひっそりと隠れる様な場所、人通りがない事からこの場所を家として選んだのは自分で、今も誰一人周りには居ないけれども。
恥ずかしさは幾度同じ事をされようと変わらない、俺は必死で暴れた。意外とあっさりと腕を緩めてくれて、すんなり俺は高原の胸元から身を離す事が出来た。残念そうに、高原が呟くのが聞こえた。
「あーあ。さっきのもの欲しそうな顔、も一度見たかったのにな」
きっと、羞恥を隠す為に強い目を高原に向ける。相手が望む様な顔とは程遠い様に。
何か言いたかった、何か抗議してやりたかった。今のは自分の油断だとしても、今高原を触発したのは自分なのかも知れないけれど。
「と……友達なのに、何でこんな事するんだよ?! 俺が嫌がるの知ってて」
答えを聞くのが恐ろしい質問を、敢えて俺はぶつけてしまった。考える事もせずに、高原が即答する。
「君の反応が可愛い過ぎるから。条件反射みたいなもんだから、俺にも止められないんだ」
「……ふざけるな」
らしくなく、声を荒げてしまう。俺が初めて怒りを顕わにするのに、高原は真剣に向き合ってくれている様だった。からかう色をなくした声が、一瞬で切り込んでくる様に告げた。
「君に足りないの、自信でしょ。人前で顔を挙げて何か言う勇気。わざと他人との接触を避けてる限り、直らないよね。俺のやり方も荒治療だとは思うよ、でも君の心を開く取っ掛かりにはなると思うんだ。君の心を開きたいんだ、俺。君は大事な友達だからさ」
俺の下らない虚勢など吹き飛ばす様な、高原の言葉。強気は早くもぐらつき、俺は高原に押される形になっている。まごつき言葉をまとめられない俺に、高原は静かに続ける。
「多分人より沢山の事考えてる。なのに一つも口には出さない。それって周りからするともどかしいし、勿体ないと思うよ。いっぱい話してよ、俺に位は。色んな気持ちを教えてよ」
……どうしてそんな優しい声で、慈悲に満ちた顔で。泣きそうになるのを俺は必死で堪えている。ここで泣くのは振り出しに戻る事だと、俺には分かっている。さすがに、気付いている。
だから、俺は毅然と顔を挙げてみせ、高原を見つめた。
「……分かった。努力する」
俺の精一杯を受けて、高原は実に嬉しそうに笑うのだ。
「うん。今みたいにね」
小さな俺の一歩を、高原は絶対に見落としたりしないんだろう。視界に高原の手が伸びてくるのが映る、いつもなら脅えてしまう肩を今はぴくりとも揺らさない様に、俺は体に力を込める。
それも含めて讃える様に、高原の手が柔らかく俺の頭を撫でる。矢張り澄んだ優しさが流れ込んでくる、……相手が手を下ろす迄の僅かな間、俺は心が洗われる感覚に身を浸す事が出来ていた。
互いに口は開かなかった、漂う空気は今迄と違い、何と言うのかーー信頼に満ちている、と俺は思った。高原の行動の真意、根底にあるものが理解出来た様で、今から幾度高原の突然の抱擁を受けようと、自分はもう逃げずにそれを受け止められるかも知れない、と俺は思った。……今日は、もう限界だけど。
沈黙を、そっと俺は破った。
「今日は……色々有難う。うち、ここだから。頑張ってメールするから」
じゃあね、のつもりの言葉は、最後の一言が多分に高原を笑顔にさせたらしい。
「分かった。ーー待ってる」
頷いて、歩き出す高原を見送る。何度も振り返る高原に向けてその度に小さく手を振りながら、少し照れくさくなって俺は考えている。友達より上、親友、だと思ってもいいのだろうか……大事な、大切な親友……