二
……自己嫌悪。優しい相手の親切心を踏みにじってしまった。越えようとした壁を、また自分から高く頑丈なものにしてしまった……。
行きたくない気持ちが足を重くする、周囲より遅く歩いているのに、学校にはきっちり着いてしまうのだ。
考えるのは昨日の事ばかり。呆れて、もう図書委員なんてしてくれなくていいから、と高原に言われるだろう事を覚悟していた。
昨日の朝、俺は高原の靴箱にこうメモを入れた。『携帯を買おうと思っています。高原の持ってる携帯の会社はどこ? 同じだと便利かなと思ったので』
でももう、携帯自体が必要なくなっちゃったな、と俺は溜め息をついて靴を脱ぐ。開けた靴箱の中に置かれていた大きな封筒に、俺は面食らった。
Docomoと印字された封筒に、中身は……電話機種のパンフレット。唖然とする俺は、ひらりと落ちた小さなメモに気付き、それを拾い上げた。
『姉貴が働いてるので、うちは一家全員ドコモです。良かったらパンフ見てね。買う時はゼヒ姉貴の店で!! 頼みま~す★ 高原より』
そうして、右下に小さな文字で。『PS:昨日はゴメン』。
ーー泣きそうだった。あんなに冷たく突き放したのに、恩を仇で返す様な仕打ちをしてしまったのに。嫌われて、避けられるだろうと思っていたのに。
ーー放課後に逢いに行ってみよう、と俺は思った。俺の方から謝らなきゃいけない、礼を言わなければならない。潔い高原の誠意に応える為に。
入って行く勇気はない。教室の入り口から目立たない様に少し離れた場所で、出て来る人を見張るだけだ。
大分待って、ようやく見慣れた長身が何人かと話しながら出て来た。一人じゃないパターンは想定外で、声を掛けるタイミングを失い俺は焦った。
慌てて集団の後を追い掛ける。高原が行ってしまう、きっと今を逃したらもう俺は永遠に高原に声など掛けられなくなるのだ、また元の塞ぎ込んだ世界に逃げ込んでーー。でもそれじゃ駄目なのだ、今、今こそ死ぬ気の力を振り絞らないと……
切迫した考えは一瞬、極度の緊張に心臓がばくばくと鳴っている。それは自分には大きな音で、だが他の人には聞こえていないのだとは気付きもしなかったーー心臓の騒めきに掻き消されない様にと、俺は叫ぶ様に呼んでしまっていた。
「たかはらあっ!!」
尋常じゃない大声に、ありとあらゆる場所から目線が集まってしまった。振り向いた高原は、直ぐに破顔し、じゃあなと友人達の肩を叩き、足早に俺の方に歩いてきてくれた。
「図書室、行こうか」
俺の知った場所を指定してくれる高原の気遣いに感謝しつつ、恥ずかしくて堪らない俺は、何度も頷き慌てて歩き出す。
中での私語は厳禁なので、今居るのは建物の裏だ。後ろに広がる林との境界にした、小さな木の杭が張り巡らされたそこに並んで座って、昨日の事怒ってないのかな、と考えつつも何と切り出そうかと俺が言葉を選ぶ間に。
「まだ、顔が赤い」
言うなり手が伸び、左頬に触れられた。びくっと体を伸ばす俺が逃げの体勢を取る前に、だが高原の右手はすっと落とされた。くすっといつもの笑みで、高原は続けた。
「あんな大声出さなくても、ちゃんと俺橘の声聞こえるよ。必死だったの?」
含まれる、からかいの響き。自分の心臓の音が、なんて言い訳にするにも恥ずかしくて、俺は頷く事にした。大体、今日は謝りたくて来たのだ。こうやって何事もなかった様に接してくれる高原に感謝を伝える為に。
だから、俺はまず、ごめんなさい、と口にした。ん、と自分に向けられる相手からの視線を微かに避けながら、俺は続けた。
「高原が俺を心配して言ってくれたりしてくれた事、否定したりして。ごめんなさい。それと、有難う。俺みたいなの気に掛けてくれて、俺の分かってなくて気を害する言葉とかにも、怒ったり呆れたりしないで、こうやって俺の事許してくれて。本当に有難う」
一気に言った俺を見つめる高原の目は、本当に透き通っていて優しい。どんな返事が返ってくるのかと思ったら、高原は笑みも変えずに尋ねてきた。
「頭、撫でていい?」
「は?!」
驚いて目を丸くする俺の顔にずいっと顔を近付け、高原が真面目な口調で言った。
「まず逃げようとする。でも今日は自分から俺のとこに来てくれた。嬉しいからぎゅっとしてやりたいんだけどさ、橘にとっては刺激強過ぎるだろ? だからせめて、頭撫でたい」
……その理屈は筋が通ったものなんだろうか、と俺は考えてしまう。けど普通に考えて男の頭なんて撫でたくなる筈もない、高原なりの相手の頑張りを評価するやり方なのかな、と俺は結論付けて、頷いた。
「う、うん。どうぞ」
どうぞはおかしいだろ、と自分にツッコミを入れた俺の頭に、優しく高原の手が載せられる。本当になでなで、とまるで子供にする様に手が動き、直ぐ間近に居る高原がどんな顔でそんな事をしているのか気になりつつも、それを見てしまうには恥ずかしくて、俺は目を伏せていた。
……いつ迄、撫でてんだろう。さすがにもういいんじゃないか、と俺はちらりと上目遣いに高原の顔を窺い見ようとした。校内だし、どこから誰に見られているかも分からない。こんな、あらぬ誤解を受けてしまいそうな怪しい行為……。
俺が見上げた気配に気付いたのか、高原は手を止め、ようやくゆっくりとその手が下ろされた。何だかこそばゆい様な気恥ずかしさに、俺は言う言葉も見付けられずに視線を彷徨わせていた。ぽつりと、高原が問いを口に載せた。
「結局のとこ、どっち?」
「え?」
主語を省かれ、何を尋ねられたのかが全く分からない。説明する様に、高原が言い直した。
「昨日はさ、俺が困らせる様な事したからさ、いらないって言ってたけど。俺、君の力になりたいって言ったよね。救いたいって。やっぱ今日聞いても答えはノーなの?」
ーー一歩で、抉る様に胸元に入り込まれた感じだ。避けられないパンチ……ごくり、と俺は努力して唾を呑む。
瞬時に巡り巡った思考が、こんな状況で浮かんだとは思えない、都合の良い逃げ口上を落としてくれた。飛び付く様に、俺はそれを口に載せていた。
「……高原とこうして仲良く喋ったり出来るだけで、俺には救いになってるよ。すごい力貰ってる。これ以上に幸せな事ない位だよ」
笑ってみせたのに……笑い慣れない俺の笑顔がそんなに不自然に見えたのだろうか、高原はどう見ても納得なんてしていない顔で、じいっと俺を見つめている。
どうしよう。高原は、妥協を許さない人の様だった。中途半端な逃げは解決にはならないのだろう。上手い事言えた、と内心ほっとしていたのだけれど。
「えっと……」
考えて、考えて、俺はようようの呈で言ってみた。
「高原に出逢えた事が、本当に俺の救いだと思う。高原に声掛けて貰わなかったら、俺……生きてるのに死んでるままだったよ。高原のお陰で、ちゃんと生きてるって思えてる。嬉しい気持ちが増えて、困ってる位」
見つめられて、最後の方なんか何を言ってるんだか自分で恥ずかしくて、俺は穴があったら入りたい状態だ。そんな俺を、気が付けば直ぐ近い位置から目線を合わせてきて、高原は囁く様に尋ねるのだ。
「それ、本音? 俺、役に立ってるの? 橘の嬉しい気持ち、本当に増えてる?」
何の為の確認なんだろう、と俺は思う。とろりと絡みつく様な高原の目、甘いとしか思えない囁きに、また抱きすくめられる事になってしまいそうで、俺は必死に予防線を張ろうと試みた。
「恥、恥ずかしい事の方が多いけどっ」
言いながら、じりじりと体を後ろに逃がしてみる。そんな俺の企てに気付いたのか、橘、と高原の手が伸びてきたーー
バアン、と叩き付ける様にドアが閉まる音、それに被さる様に不機嫌な叫び声。
「出てきゃいいんだろっ!!」
ガアン、と壁に蹴り迄入れて、声の主が足音も高らかに歩いて行く。いつも図書室でふざけたり利用者に絡んだりする迷惑な人だ、と俺は気付いていた。抱き寄せようとしていたらしい手を俺の背に載せていた高原が、図書室から追い出されたらしいその乱暴者に気を取られた一瞬。
……いい時に大きな物音と大声、感謝します、と俺は、もう見えないその人の背中に内心頭を下げ、高原が動くより先に体を後ろに逃がしながら立ち上がった。離れた高原の手、酩酊していた様だった表情が醒めた様に、高原が何か言い掛けた。遮る様に、俺は強く口にしていた。
「とっ、友達だよね?!」
まだ何も返さない高原に、釘を刺す目的で繰り返す。
「高原と俺、ただの友達だよね?」
好きとかなしにーーそう付け足したかったけど、実際口に出来る筈などなかった。高原の優しさは、友人として心配してくれる範囲内のものだと信じたかった。昂ぶる様に色香を纏わせるあの熱っぽい目に、おかしな意味はないのだと思いたかった。
充分に離れた距離を置いて全身に緊張を走らせる俺を見返して、高原がふっ、と笑った。
「うん、友達。ごめん、何か誤解させちゃったみたいだね」
軽く返して、服に付いた草や砂をはたきながら高原も立ち上がった。向こうからあっさりと言われて、俺は意味もなく首を横に振ったりしている。近付いてくる高原にまだびくりと身構える俺に、置きっぱなしだった鞄を手に取り渡してくれながら、相手はさらりと言うのだ。
「ごめんね。俺さ、可愛いもの好きフェチが尋常じゃなくてさ。今もそうなんだけど、君、人に慣れてない子犬過ぎるから。何してても可愛く見えるから、つい手を出したくなっちゃうんだ。あーよしよしって感じにさ」
……先程頭を撫でてきた感じ、に思えばいいのだろうか。男だとか人としてじゃなくペットの様に見られてしまっているらしい事、は不快ではないが、可愛いとか称されるのには問題あるかも……。
複雑な思いの俺に、高原は静かに告げる。
「ごめんね。何か俺舞い上がっちゃったみたい。橘に友達だって思ってもらえてんのも、純粋に嬉しくてさ。……俺達、友達なんだよね?」
今度は高原が俺に確認してくる。どぎまぎする恥ずかしさがまた沸き上がるが、どうにか真面目な顔で俺は頷いた。
「……うん、勿論」
にこっと笑ってみせて……帰ろうか、と高原は言ってくれた。
ーー閉じた目の奥に、高原の優しかったり色っぽかったりする顔が貼り付いて、なかなか眠りは訪れないのだ。
次の日、その次の日と高原は現れなかった。安堵と寂しさを半々に感じたりする自分が意外だった。そうして今日は金曜日、今日を逃せば月曜日迄高原に声を掛けられない。大事な用事に、登校して一番に俺は靴箱への手紙を置いた。
『携帯を買いたいから、高原のお姉さんの勤めてるお店に案内してもらえると助かります。今日の帰りにでも、高原の用事がなければ……』
ーーどんな形で返事をくれ、といった事を指定しない一方的な文面に、俺は後悔していた。これじゃまた、高原を来させてしまうかも。俺って何て考えなしなんだろう。
自分からまた高原の教室に行くべきなのか……踏み出せない躊躇に悶々とする俺を、休み時間に担任の先生が呼んできた。
「おーい橘、新生図書委員。預かりもんだぞ」
渡された用紙は、この間初めて紹介された時の図書委員会のものだった。二枚に亘る、議事録、と題された書類には、正式に俺を図書委員に任命する、というのに始まり、話し合っていた内容や、恐らく決定したらしい放課後や土日解放時の業務担当者の割り振りの表が示されていた。
目を通して、最後の行の様に付け足されたものらしい高原のメッセージに気付き、俺は破顔した。『姉貴大喜びだよ。今日の放課後、校門の左側でおちあいましょう。急いで行くから!』。
目立たずに連絡を取る事を考えてくれた高原の気遣いに、心底俺は感謝する。でもふと気付いた、高原は本来生徒会に所属しているけれど、人員不足の為に図書委員を兼任しているのだ。確か部活には所属していないらしいが、忙しいには変わりないだろう。
そんな合い間に、自分なんかに付き合わせるのは申し訳ないな、と思う。まあでも今日携帯を買えば、これからの連絡は逢わなくても出来る訳だから。今日だけ、我慢して貰おう。
そんな色々を考えるのが楽しいと感じる事に、俺は気付いてはいなかったけれど。
校門の左側、地形的に少し窪んで大きな木が植えられた場所に、高原は既に待ってくれていた。俺が声を掛けようとする前に、俺の後ろから数人が高原を呼ばわった。
「マサじゃん。何してんのー」
……人気者だもんな、と気付かれない様に下がりながら、俺は思う。俺なんかとの接点、皆に不思議に思われるだろう。矢張り携帯は早く持つべきだな。
わざと隠れたのに、声を掛けてきた友人数人にまずおう、と返しただけで、あろう事か高原は俺の居る方に向かって来ている様に見えた。まさかと目を剥く俺の前に高原は立ち、極自然に俺の手首を掴みーー
「今日は橘と買い物なんだ!」
わざわざ皆の前に引っ張って立たされる、まるで皆に自慢するかの様に……友人達が、ああ図書委員のね、こないだの、と納得するのを、俺は困惑して高原を盗み見ながら俯いていた。
どっか行くの、と聞かれ、鞄でもぶらぶら見に行こうかな、などと高原は適当に返している。じゃあな、邪魔しちゃ悪いからな、と友人達が去って行くのに手を振っている高原の右手から、まだ掴まれたままだった自分の手を、俺は乱暴に取り戻した。目を向けてきた高原を、つい俺はきっと睨み上げる。
目立つ事が嫌なのは、承知してくれていると思っていた。委員会の議事録に返事を載せる手段なんてとってくれた配慮が、その証拠だと。なのに。
「ここでいいの? また誰かに声掛けられちゃうよ」
真面目な顔で言われて、俺ははっとする。次々に下校して来る生徒達が二分の一の確率で通るここに、いつ迄も居られない。何も言わない高原に、俺が促す形になった。
「……お姉さんのお店に、案内して貰える?」
うん行こうか、と歩き出した高原に、やや離れて俺はついて行った。
考えてみれば、俺が高原に怒る義理はないのだ。もしかして今日、高原が誰かからの誘いを断って俺を優先させてくれたという可能性だってある。俺は俺一人の一方的な要求・不満を相手にぶつけているだけだ、相手がどんな人物でどんな状況にあるか、などを一切考えないで。
歩きながら、いつも何か話し掛けてきてくれていた高原が今はずっと無言なのも、勝手に怒りをぶつけた俺に気を害したからかも知れない。乱暴に手を振り払ったりして。
……見上げる事は出来ない。そんな勇気はない。だけど、この重苦しい雰囲気は何とか自分が打破しなければ。
小さく、俺は努力して声を落としてみた。
「……ごめん。俺が怒るのおかしいのに」
「え?」
俯いた声は下に流れる、高原に聞こえないのは仕方がない。僅かに顔を挙げて、俺はまた口にした。
「俺が勝手に怒ったせいで、今嫌な感じにさせてる。……ごめん」
高原の返事はなかった。本当に、相当嫌な気分にさせてしまってたんだ、と俺は軽々しい自分の物言いに今度は蒼ざめる。あの穏和な高原に、沈黙を選択させるなんて。
もう、足が進まなかった。道の真ん中だと分かっていながら、俺は立ち止まってしまう。橘、と掛けられた高原の声が優しいのに、来て、と俺の二の腕に触れ促す様に引っ張る手付きが柔らかく慎重なのに、俺ははっと顔を挙げてしまった。
怒ってはいない、見慣れた優しい笑みを浮かべた高原の顔を見てしまって、でもこれはきっと建前の顔なんだ、と俺は目を反らした。 先程振り解いた事を反省しているだけに、引っ張ってくる高原の手を今度は俺はどかせない。高原の優しい声が、恐らく身を屈めてくれたのだろう、近い位置から俺の耳に入ってきた。
「少し歩いたら、こないだの公園に着くから。来て」
頷いた俺は、優しく手を引く高原について、止まってしまっていた足を無理矢理に動かした。