林檎の精
玉露で磨かれたかのように艶めかしく、あまりにも見事な林檎であったので入り用ではなかったのだがつい買ってしまった。
形もいびつなところなぞ一つもなく、柔らかく掌に収まるに、林檎を持つために折られた指の造作すら、ついぞ忘れるほど自然であった。
緋一色に包まれた外皮は、紅を施した女の唇にも、またぽっと明かりが点いたように色づいた少女の頬にも思え、もしや色の跡が手に付くやもと一推してしまう。しかし恥ずかしげにすくんでいるというよりは、見かけとはだいぶ異なる重みと合間って、殊更に主張せずにはいられない赤々とした煌めきだったのである。
実際、山積みになった同種の者たちの下でほとんど隠れかけていたものを、掻き分け拾い出したのだから。
幾分すまなく思って、申し訳程度に選び集めた他の林檎の存在を、やはりすっかり忘れてしまって、そのただ一つを神の御前に献上せんと言わんばかりに捧げ持っていた。
紙袋に詰め込まれた林檎たちが羨み、そしてひどく怖れている。
菓子受けに林檎を乗せていく。
最後に一つ、指輪の爪にルビィでも嵌め込むような心持ちで置いた。
どこまで厳粛な儀式を踏んでいけばいいのか、我ながら呆れ返るが、と見こう見品定めをして、そのうち触れずにはいられず、触れたら触れたで汚しでもせぬかと引っ込め、全く落ち着きがない。
元よりそれをどのように食するか、及びもつかないのだ。冷たい刃をあてがうことすら、身震いするように思われる。柔い天鵞絨の似た極みはそれこそ血の涙を流しはしないか。
そんな悶着など、地の果てでも見るように遠いであろう母が入ってきて、食卓に飾られた生花の手入れを始めた。
「あら、こんなに林檎を買ってきたの」
燦然と頂に据えられた一つに賞賛するでも、まして目をみはるでもなしに、母は眉根を寄せるのみ-これだから無神経なお人はと-どちらに非があるか分からぬさなか、大真面目に思う。
白昼も酣を過ぎた。
食卓の椅子に頬杖をつき、花を切っては差し替えている母の手元を眺め、なにとはなしにぐるりを見渡してふと目を止めた。
それは素っ気なく暗いテレビのブラウン管に映る、呆けたような己の顔であり、端には喜々として作業をする母の姿、そして背後に小山となった林檎の、その上の夢見るような一粒が…。
思わずごくりと唾を飲んだ。
背後の林檎たちではなく、なぜか目の前のブラウン管に釘付けになっている。
そこから目が離せない。
私の他に、この部屋の内で人と呼べる者は紛れも無く母のみである。
母は優しく咲いた一つの花弁を前に、それを切ってしまおうか迷っている。
考えようとしても後から家族の者が入った形跡はなし、狭い我が家だから誰がどこにいるかなど、目をつむっていても分かるのである。
そもそも貴方は、家族の中にいただろうか。
そんな問いかけなど意味を成さないのだろう。
後ろに、ブラウン管よりも黒く、それどころかブラウン管にそれと分かるくらいに濃い影が人の形になって、じつと佇んでいる。黒い染みのように映っているのに、その顔は見えない。人なのかも判別しがたく、だが私には影が人の姿をしており、なおかつそれが正面を、ブラウン管を、もっと言うなら私を見ていることを、何故だか知っている。
そして立ちすくんでいるはずなのに、少しずつ少しずつこちらに近づいていることを。
物理的に有り得ないきっと気のせいなぜなら微動だにしないままにじり寄るなどとは。
私の背にぴたりと張りつく位置に来たとき、はじめて私はその影が肩までの髪があり、そして随分と小さく、私の背丈の半分くらいであることに気づいた、ような、気がする。
私は声にならない叫びをあげた。
生花を自分の思い通りに飾り立てた母は満足そうに顔を上げた。屑になった枝葉を捨て、母は驚いたように辺りを見回した。
「なんだ…いつの間に出ていったのかしら」
肩をすくめると夕食の支度をするために食卓の脇を通り過ぎていく。
斜陽は鮮やかな深紅にその現し身をたたえ、窓際からささめくように光を差し込んでいる。
そんな中、林檎はほうと艶やかに煌めいてみせた。
…ブラウン管なんて今どき古い代物ですよね。
まあちょっと昭和っぽいイメージで書きましたので勘弁して下さ(何が勘弁




