それはまるで、火曜日の午後のように美しいものであった。
光を失うことがどういうことなのか、8歳児のナオルには何も分かっていなかった。当時のナオルは、感情の制御が酷く苦手な子供だった。少しでも思い通りにならないことがあると、激しく癇癪を起こし、玩具を投げつけ、壁に自らの頭を打ち付けた。周囲の大人達はそれを「感受性が強い」とか「少し手がかかる子」という言葉で濁していたが、その時には既にナオルの内部を取り巻く負の感情は、幼い体にはあまりにも肥大化しすぎていた。
それでも、両親は決してナオルを見捨てなかった。激しい癇癪のあと、いつも泣きながら自己嫌悪に陥るナオルを、母親は壊れ物を労るように優しく抱きしめ、「大丈夫、大丈夫よ」と背中をさすり続けてくれた。父親は不器用ながらも、ナオルの心が少しでも穏やかになるようにと、彼が興味を持ったものを一生懸命に探しては買ってくれた。だからこそナオルは、「普通にできない自分」への怒りと恐怖を、人知れずその幼い胸の奥に澱のように積み重ねていた。
小2の、ある蒸し暑い夏の日のことだった。エアコンの効きの悪い子供部屋で、ナオルは先月誕生日プレゼントとして親からもらったプラスチック製のロボット型プラモデルを組み立てていた。父と母が喜ぶ顔が見たくて、1ヶ月前からずっと完成を楽しみに、汗水を垂らしながら製作していた玩具だったが、最後の最後、頭部のパーツがうまく噛み合わなかった。それはほんの数ミリのズレだった。焦ったナオルが力を込めると、パーツはパキッと軽い音を立てて2つに割れた。
その瞬間、ナオルの脳内で何かが激しく弾けた。言葉にできない、莫大な怒りが足元から一気にせり上がり、視界が真っ赤に染まった。せっかくここまで作ったのに。どうして思い通りにならない? どうして俺はいつもこうなんだ? その怒りは、壊れた玩具ではなく、それを壊した自分自身へと向けられた。
「あああ、あああ、あああああああ!」
言葉にならない絶叫を上げながら、ナオルは割れたパーツの破片を自分の右目に叩きつけた。1度ではない。2度、3度。眼球の肉が潰れる鈍い音と、眼窩の奥を突き刺すような激痛が走った。しかし、怒り狂ったナオルはその痛みを更に上書きするように、狂ったように自らの目を突き刺し続けた。頭が真っ白になり、ただ「自分を破壊したい」という衝動だけが彼を突き動かしていた。
気がついた時には、病院のベッドの上だった。白い天井が、妙に半分だけ欠けて見えた。医師の顔も、泣き崩れる母親の姿も、左側の視界にしか存在しなかった。右目の奥は感覚が麻痺したように重く、ただ完全な闇がそこを支配していた。
「網膜剥離、そして視神経の深刻な損傷……。残念ですが、右目の視力を取り戻すことは不可能です」
淡々とした医師の宣告を聞きながらも、ナオルは実感が湧かなかった。ただ、自分の衝動がもたらした「片目の失明」という代償の重さが、じわじわと幼い心に冷たい影を落としていった。
中学生になったナオルは、常に前髪を長く伸ばし、右目を隠すようにして生きていた。視認できる世界が半分になるということは、単に視野が狭まるだけではない。距離感が完全に掴めなくなる。階段を踏み外しそうになり、差し出されたノートやプリントを受け取り損ねる。体育の授業でボールが飛んできても、どちらから、どれほどの速度で迫っているのかが分からない。
「おいナオル、お前いつもキョロキョロしてんな。挙動不審だぞ」
「その前髪、邪魔じゃないのかよ。陰気臭ぇぞ」
クラスメイトたちの悪気のない、しかしそれだけに鋭い言葉が、ナオルの心を容赦なく抉った。皆はナオルが自傷行為によって片目を失ったことを知らない。両親がナオルの将来を思い、先生達には幼少期の不慮の事故だと説明していた。家の中でも、両親はナオルの不自然な前髪について一度も苦言を呈さず、ただ彼の傷ついたプライドを静かに守ろうとしてくれていた。しかしナオルは知っている。この醜く歪んだ顔も、不自由な体も、全ては自分が招いた結果であることを。洗面所の鏡の前で前髪を払うたびに、右目のあった部分が真っ赤な領域で占められているのが見えた。それはまるで生きているだけで、自分の人生を破壊し、家族の人生に消えない泥を塗ったという過去の自分が犯した愚行を責め立てられているようだった。
(なんであんなことをしたんだ? なぜあの時耐えられなかったんだ?)
その後悔は、毎日、毎時間、ナオルの身体を支配し続けた。どれだけ勉強を頑張っても、どれだけ他人に優しくしようとしても、失われた右目は二度と戻らない。まるで他人の視線が全て自分を憐れみ、嘲笑っているように感じられた。
学校の成績は徐々に下がり、かつて仲の良かった友人との関係も、自ら壁を作って断ち切るようになった。ナオルの心は、思春期という不安定な時期を迎えて、完全に限界を迎えていた。左目一つで世界を凝視し続ける生活は、心だけでなく肉体をも確実に蝕んでいた。
そんな泥まみれの視界の中に、中学二年の春、一人の女子の姿が唐突に鮮烈な光を伴って飛び込んできた。誰とでも分け隔てなく笑い合い、教室の空気を一瞬で明るくするような、快活な彼女の存在。ドロドロとした負の感情を胸に溜め込むナオルにとって、その屈託のない明るさは、決して手が届かない眩しい世界そのものだった。言葉を交わしたことなどほとんどない。ただ、彼女の笑い声が響くたび、ナオルは自身の左目でその姿を盗み見ずにはいられなかった。しかし、彼女に惹かれれば惹かれるほど、ナオルの胸には醜い劣等感と両親への申し訳なさが膨れ上がっていった。父と母にこれだけ迷惑をかけ、自業自得で片目を失った不完全な怪物のくせに、自分はあんな普通に輝いている綺麗な女子を好きになっている。なんて身の程知らずで、浅ましいんだ。彼女への恋心は、ナオルにとって自らの異常性をより深く自覚させられる、新たな拷問でしかなかった。だからこそ、彼は決して近づかず、自ら分厚い壁を作って彼女との距離を置き続けた。
そしてその年の秋、それは起こった。定期テストの直前、ナオルは必死にノートをとっていた。左目だけに頼る生活は、極度の眼精疲労を伴う。毎日、激しい頭痛と吐き気に襲われながら、それでも「普通の中学生」であり続けようとして勉強を続けていたのは、両親に良い成績を見せて安心させたいという義務感と、ナオルが好意を寄せているあの女子と同じ空間で少しでもまともな人間の形を保っていたいという悲しい執着のせいだった。
その日の放課後、夕暮れ時の教室で一人残って勉強していたナオルが握っていたのは、10歳の誕生日プレゼントに親からもらったシャープペンだった。かつて、彼女が他の女子とシャープペンについての話をしていた際、一度だけこのシャープペンを眺めていた気がした。そのため、親への感謝と共に彼女への執着が重なり、ナオルが一番大事にしている宝物だった。
その時、ガタッと教室の扉が開いた。彼女が忘れ物か何かを取りに戻ってきたのだ。ナオルの心臓が跳ね上がる。しかし同時に、酷使し続けていた唯一の光が悲鳴を上げた。視界が徐々に滲んでいく。焦ったナオルは距離感を掴めず、机の上の筆箱を派手に床へと落としてしまった。ガシャンと、静かな教室に物音が響き渡る。その音に驚き、彼女がハッとナオルの方を振り返った。ナオルの必死で濁った左目と、ほんの一瞬だけ視線が交錯する。次の瞬間、彼女は何事もなかったように視線を落とし、自分の机の上のノートを掴むと、足早に教室を出て行った。
音に驚いて振り返り、そこにクラスメイトがいただけだったから、自分の用事に戻った。ただ、それだけのことだった。彼女のその流れるような一連の動きには、躊躇も、嫌悪の表情も、何一つとして現れていなかった。
だからこそ、ナオルは絶望に苛まれた。いつも誰にでも快活に微笑む彼女が、自分と目が合った瞬間にだけ見せた、完璧なまでの無表情と無関心。ナオルの中では、それが全世界からの拒絶として確定した。
(見られた。濁った左目と変な前髪で、あの女子の綺麗な日常を汚してしまった。だから、関わりたくなくて目をそらされたんだ。俺は、教室の壁についているシミと同じだ。いや、それ未満の怪物だ!)
激しい劣等感とパニックがナオルの脳内を支配した。視界はさらに霞み、手元すらおぼつかなくなる。激しい動揺のあまり、ナオルは持っていたシャープペンを机に強く叩きつけてしまった。パキッという音と共にそれは真っ二つに割れた。
その瞬間、あの幼少期の黒い澱が、より巨大な質量を持って脳裏に蘇った。
(お父さんがくれた、一番大切なものだったのに。これだけは壊しちゃいけなかったのに。どうして思い通りにならない? どうして俺はいつもこうなんだ?)
もう嫌だ。
失恋のショックに加え、片目での生活の息苦しさ、周囲からの孤立、迫り来る将来への言いようのない不安。全てがこの「もう嫌だ」という一言に収束した。なぜ自分だけがこんな目に遭わなければならないのか? いや、自分がやったのだ。全ては自分のせいだ。自分が壊したこの世界を、これ以上生きる意味があるのか?
「消えてしまえ、こんなもの……! 全部、無くなればいいんだ!」
ナオルはガタタッと椅子を跳ね除けて立ち上がり、狂ったように自分の左目を、残された唯一の光を、割れたシャープペンの破片で殴りつけた。
「がはっ……ああああ!」
凄まじい激痛が走る。だが、もう止まらなかった。いや、止めようがなかった。右目を失った時の記憶が、痛みが、まるでフラッシュバックしたかのように破滅衝動となって脳を麻痺させる。ゴン、ゴン、と鈍い音が無人の教室に響き渡る。壁に、机に、自分の顔を叩きつけ、シャープペンの破片を何度も何度も自分の左目に叩き込んだ。視界が急激に暗転していく。光の粒が火花のように散り、やがてそれさえも深い闇に吸い込まれていった。床に倒れたナオルの周りには、完全な暗黒だけが残されていた。何も見えない。自分の手さえ、床の存在さえ、視覚としては存在しない。ただ激痛と、じわりと頬を伝う温かい血液の感触だけが、彼がまだ生きていることを示していた。意識が遠のく中で、ナオルの世界から光が完全に消え去った。
病院での治療も虚しく、左目の視力も完全に消失した。「両眼失明」。カルテに書かれたその短い言葉が、彼の人生の終わりを告げていた。医師や両親は絶望し、病室の外からは母親の引き裂かれるような泣き声が毎日聞こえたが、ナオルはただベッドの上で人形のように座り続けるしかなかった。
退院後、自宅に戻っても、そこはかつての我が家ではなかった。一歩歩くのにも、底知れない恐怖が伴う空間だった。どこに壁があり、どこに段差があるのか分からない。手を伸ばして手探りで進むしかなく、家具に体をぶつけたり硬いものを踏んだりするたびに、痛みより先に激しい自己嫌悪が襲った。世界は音と気配だけで構成された、実体のない不気味な空間へと変貌していた。
「ナオル、ご飯よ。お母さんが口まで運ぶからね。ゆっくりでいいから」
母親の泣きそうなまでに震える声が聞こえる。その優しさが、今のナオルには何よりも辛かった。かつては自分の足で歩き、自分の目で世界を見て、自分で食事をしていた。それが今では、食事すら一人で満足にできない、他人の手を借りなければ生きていけない、完全なお荷物になり下がってしまったのだ。
「ごめんね、ナオル。お母さんがもっと気をつけていれば……あの時、一人にしていなければ……」
母親が自分を責めて泣くたびに、ナオルが8歳の時にも言っていた、
「お母さんがもっと気をつけて見守っていれば……お母さんがすぐに誕生日プレゼントを買いかえてあげていれば……」
という母の言葉が蘇り、ナオルは心の中で狂ったように叫んだ。違う。お母さんは悪くない。俺のせいだ。俺が狂っていたからだ。俺が、俺のこの手で、自分の目を潰したんだ。他の誰のせいでもない、俺という俺の怪物が俺と家族の全てを壊したんだ。だが、その言葉を声にすることはできなかった。言ったところで、失われた光が戻るわけではない。ただ家族をさらに傷つけるだけだと分かっていた。
ナオルは自分の部屋に引きこもり、ただベッドの上でじっと夜を待つだけの肉塊になった。季節は秋からじわじわと、肌を刺すような冬へと移り変わっていく。暗闇で過ごす長い時間の中で、ナオルの思考は異常なほど研ぎ澄まされ、同時に不可逆的に病んでいった。耳から入ってくる情報だけが、ナオルの世界の全てだった。リビングから微かに漏れ聞こえるテレビの音。かつての友人たちが部活帰りに外の道路で、家の前を通り過ぎていくときに楽しそうに話す声。自分だけが、時間が止まった箱の中に閉じ込められている。そして何よりナオルを追い詰めたのは、夜な夜な階下から聞こえてくる、両親の静かに咽び泣くひそひそ話だった。
「あの子、これからどうするのかしら……」
「盲学校を探さないとな……。でも、本人があの状態じゃ……」
両親の沈んだ会話が、ナオルの耳に容赦なく突き刺さる。自分は自分と家族の人生を破壊した。これからの長い人生、ずっとこの暗闇の中で、誰かに縋り付き、憐れまれながら生きていくのか。そんな絶望が、冷たい波のように、何度も何度もナオルを飲み込んでいった。
冬が訪れ、部屋の空気が一段と冷たくなった。ナオルの心は完全に自暴自棄になっていた。周囲はリハビリや点字の習得を勧めてきたが、ナオルはそれらすべてを拒絶した。目の見えない世界でいくら器用に生きていけるようになったところで、自分が犯した罪が消えるわけではない。それどころか、生きるための努力をすることは自分を許すことのように思えて嫌悪感しか湧かなかった。ただベッドに横たわり、天井があるであろう方向を向いて、終わりのない闇を見つめるだけの日々。
「もう、どうでもいい。早く終わらせてくれ」
生きている意味が見出せなかった。自分という存在は、過去の過ちの塊であり、周囲に苦痛と絶望を与えるだけの物体だ。光のない世界で、ただ息をしているだけの自分に、何の価値があるというのか。
ある日の深夜、両親が疲れ果てて深い眠りについた頃、ナオルは静かにベッドから起き上がった。数ヶ月の間に、感覚だけで部屋の配置は頭に入っていた。一歩、また一歩。壁に手を這わせながら、ゆっくりと、確実に足を進める。目的地は3階にある物置きの部屋の窓だった。窓の鍵を手探りで見つけ、冷たいアルミのサッシを横に引く。
ヒュッと、冷たい冬の夜風がナオルの剥き出しの顔の前を横切った。目が見えなくても、その寒さと、外の空間がどこまでも広がっている開放感だけは肌で理解できた。
(お父さん、お母さん、ごめんなさい)
窓枠に足をかけ、外へ身を乗り出す。下には何があるだろうか。コンクリートの地面か、それとも庭の植木か。高さはどれくらいだったか。しかしそんなことはどうでもよかった。ただこの苦痛から、この暗闇から、自分を責め続ける内なる声から、解放されたかった。
「これで、やっと終われる」
ナオルは暗闇の中へ、自らの体を投げ出した。一瞬の浮遊感。風が耳元を強烈に吹き抜けた。視界はどこまでも黒く、しかし彼の心は、これまでにないほど静かだった。
頭から真っ逆さまに落ちていく体に、ドン、という激しい衝撃が全身を貫き、ナオルの時間は激痛と共にその瞬間で完全に停止した。彼が最期に見たのはやはり、何も映らない、どこまでも深い黒だった。
翌朝、凍てつく庭の隅で冷たくなっているナオルを発見した母親の絶叫が響き渡るが、それすらも今のナオルには届かないのだった。




