眉を切る
「佐伯、この春俺はモテる側に行く」
入学式の帰り道、神谷は唐突に宣言した。春休み前と何一つ変わらない顔で、変わり果てた決意だけを口にする。そういうやつだ。
俺たちは、二車線の橋を自転車で渡りながら駅へ向かっていた。川面に市役所の障害灯がぼんやり滲んでいる。二人ともテカテカの詰め襟姿だった。新品を買うほどの余裕はないし、「どうせ三年で終わるんだから」と母親に言われれば、まあそうかと思うしかない。
俺、佐伯理人と神谷大成は、同じ団地で育った。小学校も中学も同じ。ただ、小学生の頃の神谷は、今みたいに知らない女子高生の横で眉毛を切り始めるようなやつではなかった。
努力がことごとく明後日を向いた、残念なやつだった。
二十分休みになると校庭の隅で逆上がりを延々練習している。しかも成功していない。給食では「牛乳は骨に来る」と言って真っ先に飲み干すくせに、身長は前から三番目。ドッジボールでは最初に当たり、持久走では最後を走り、それでも本人だけは妙に真剣だった。
小六の頃には「一日千本シュートしたら全国行けるか試す」と言い出して、ゴールのない公園で夜まで壁当てしていた。そもそもレギュラーにもなれなかったが、不思議と神谷の周りには人が集まっていた。失敗しても続けるやつを、人は途中から笑えなくなる。
「モテる側って、具体的に何するんだよ」
「非モテのための美容研究会を設立する」
俺たちの通う県立翠琉高校は、伝統校らしく自由な校風だ。生徒が好きに同好会を作れる空気がある。部活オリエンテーションはさながらカオスだった。大道芸同好会がジャグリングを始め、下駄愛好会が謎の演武を披露する。
神谷はああいうイタさと紙一重の世界を見つけると飛び込みたがる。
中二の冬休み頃から、その傾向は顕著になった。神谷はどこで知ったか突然「開成高校に行く」と言い出した。悪い冗談だと思った。群馬の公立中から東京の開成。距離の問題以前に、神谷の成績は平均点あたりをふらふらしていた。塾にも通っていない。
「日本一の高校だからだ」
神谷は本気でそう言った。
定期テストのたびに言った。校内模試のたびに言った。進路希望調査にも、たぶん書いた。担任の奥寺先生は、最初こそ「もっと身締めて考えろ」と諭していたが、途中から「神谷は神谷だからな……」みたいな顔になっていた。クラス中から、薄笑いを浮かべた「開成」というあだ名を献上されたのが、一年前。
「で、美容とかモテとか、今度は何なんだよ。学歴の次はルックスか」
交差点で止まると、俺は学ランの袖で眼鏡を拭った。
「ああ。だから今、こっち側にいる」
「こっち側?」
前から女子高の集団がやってくる。神谷はちらっとそっちを見て、それから少しだけ目を逸らした。
「文化祭で、女子が男子を見る時あるだろ」
「は?」
「あの時、一度も眼中に入ってない感じ」
その言い方だけ、妙に実感があった。
「六月の翠高祭」
神谷は言った。年に一度、男子高に女子が大量に来る、唯一の二日間だ。
「あの日、俺は向こう側に飛ぶ」
そういえば去年の夏も、やつはむこう側へ飛ぼうとしていた。
理科室の隅、図書室の窓際、団地の集会所。三十分ごとに場所を変える「マグロ勉強法」と称して、やつはありとあらゆる場所に出没した。家で勉強すればいいのに、と言ったこともある。「うるさいからだめだ」と神谷は即答した。たしかにうるさい。隣の部屋のテレビは響くし、上の階では子供が走る。夜は原付が爆音で駆け抜ける。
そのうち神谷は、公民館で小学生の宿題を見るようになった。「こいつら勉強させたほうが静かになる」という最低の理由だったが、教える時の熱量は異常だった。
「そこ違う。惜しい」
「今の解き方いいじゃん」
「お前それ絶対できるやつだろ」
説明が上手いわけでも、頭がいいわけでもない。なのに、神谷が「できる」と言うと、相手も少しだけその気になる。
中三の冬休みになる頃には、「開成」というあだ名を笑うやつはいなくなっていた。模試のたびに偏差値が上がったからだ。神谷は相変わらず雑だった。英単語帳にはカップ麺のシミがついていたし、ノートは最後まで汚かった。でも毎日どこかで勉強していた。開成を受験したかは知らない。ただ、偏差値だけは十五くらい上げて、翠高に滑り込んだ。
「田舎の三流高校でよかったのかよ」
俺が聞くと、神谷は平然と言った。
「俺が日本一にするから問題ない」
俺たちは駅ビルのドラッグストアへ入った。冷房が効いた明るい店内。ワックス、スプレー、オーデコロン。これまで縁のなかったものたちだ。反射的に値札を見る。バイト禁止の高校生にとって、微妙に覚悟のいる価格だった。神谷は棚の前で腕を組んだ。この姿勢の時は、本気で考えている時だ。あの時もそうだった。「開成って、どうやったら受かると思う」ファミレスのドリンクバーの前で、同じ顔をしていた。
「まず何から変えるべきだと思う」
「知らんよ」
「お前そういう知識だけはあるだろ」
図星だった。
前に俺は一度ちゃんと「正解」を探したことがある。どうすれば浮かないか。どうすれば空気が読めるか。本屋で雑誌を立ち読みして、家電屋でヤフー検索して、ファッションだの会話術だのを、やけに真面目に調べた。私服は三色以内。笑うタイミングは周囲に合わせる。
結果、俺はかなり上手くやった。誰からも嫌われない人間になった。同時に、誰からも選ばれない人間にもなった。クラスの班分けは難なくこなせる。でも休日に誘われることはない。掃除の時間に女子とも話せる。でも、「佐伯くんって優しいよね」で終わる。問題は起きない。ただ、何も起きない。
途中で結論は出ていた。清潔感とか社交性とか、そういうものには元手がいる。骨格とか、身長とか、健康そうな肌とか、そういう最初の手札だ。努力で変えられる範囲には限界がある。
だから俺は、本気にならないことにしていた。
「眉だな」と神谷は言った。
「急だな」
「変えやすそうだろ」
神谷は眉用ハサミを棚から取ったあと、財布を開いた。漱石が二枚。レシートで膨らんだ、小学生みたいな財布だった。
「ワックスはもっと髪伸びてからだな」そう呟くと、踵を返して品出し中の店員に駆け寄る。神谷の髪は短いくせに、後頭部だけ妙に跳ねていた。寝癖というより、鉢が張っているのだろう。その不恰好な後ろ姿のまま、やつは迷わず声をかける。
「すみません、眉整えたいんですけど、初心者ならどれですか」
店員は一瞬だけ驚いた顔をした。学ラン男子二人が美容コーナーにいる時点で珍しい。でも神谷はまったく怯まない。
「え、えっと……コーム付きのハサミなら」
「なるほど」
神谷は授業中みたいな顔で頷いていた。本当に変なやつだと思った。しかも神谷は、自分が恥ずかしいことをしている可能性を一切考えていない顔だった。
会計を済ませて外へ出る。夕方の光が駅ビルのガラスに反射していた。神谷はそこで急に立ち止まった。
「ここでやるぞ」
「は?」
「今が人生で一番ダサい。だったらここがスタート地点だろ」
神谷は迷いなくコームを眉へ当てた。ぎこちない。明らかに慣れてない。それでも手を止めない。サラリーマンがちらっとこちらを見る。女子高生が笑いながら通り過ぎる。神谷は気にしなかった。
「お前もやれ」
神谷は当然みたいな顔でハサミを押しつけてきた。俺はハサミを渡されるまま受け取って、しばらく指で回した。知識はある。眉山、眉尻、黄金比。でも、自分の顔へハサミを入れるとなると手が止まる。知っていることと、やることの間にある距離。俺は昔から、それが異常に遠い。
「清潔感って結局、骨格の整ったイケメンのことだろ」
言うつもりはなかったが、口から出た。神谷はガラスを見たまま答えた。
「そうかもな」
否定しなかった。
「でもそれ、骨格が終わってるから全部終わりって話じゃないだろ」
「失敗して変な形になったら、明日からの学校生活が終わる」
神谷は少し笑った。
「今も別に始まってなくないか」
ひどいことを、さらっと言う。俺はハサミを見つめた。眉毛なんか数本切ったところで人生は変わらない。そんなことはわかっている。だけど。
俺は黙って眼鏡を外し、ガラスに映る自分をぼんやりと見つめた。そこには、いつも通り無難で、敵も作らない代わりに、たぶん誰の記憶にも残らない顔があった。
眉にコームを当てる。思ったより、肌が近い。
産毛が引っかかる感触が妙に生々しい。
自分の顔なのに、工具を入れている感じがする。
俺は今まで、自分の顔をまともに触ったことすらなかったのかもしれない。
パチン、と小さな音がした。俺の眉尻が数ミリ落ちる。それだけだった。でも、その数ミリを俺は中学三年間やれなかった。
気づけば口元に毛がついていた。ガラスに映る俺たちは、眉毛がまだらに薄くなっただけの、滑稽な二人組だった。
神谷は満足そうに頷いた。
「いいじゃん」
「何が」
「ちゃんと人類になってきた」
「失礼すぎるだろ」
神谷は笑った。その顔を見て、俺も少しだけ笑った。
夕方のホームは制服だらけだった。女子高生の高い声が響くたび、神谷はそわそわと背筋を伸ばしている。だが猫背が急に治るわけでもなく、鳩のように首だけ前に出ていた。
「お前、眉くらいでそんな変わんねえよ」
「ゼロよりマシだ」
四両編成の電車が来る。窓ガラスに俺たちの顔がぼんやり映る。正直まだ全然モテそうではない。しかもよく見たら神谷は右だけ少し切りすぎていた。
「お前それ失敗してるぞ」
「左右対称の人類なんかいない」
神谷は言い張り、押しボタンを平手で叩いてドアを開けた。田舎なりのラッシュアワーに押されて、俺たちは車内へと滑り込む。
窓に映る自分の顔を、俺はもう一度見た。昨日とほとんど変わらない顔だった。
それでも。
昨日の俺はたぶん、自分で眉を切ったりしなかった。
茜空に発車ベルが鳴る。
俺たちは、この春で向こう側に行く。
たぶん。
根拠は、まだない。




