燭台を灯して
親友が死んだ。唯一無二の親友だった。
一瞬の出来事だった。最後の瞬間の表情が脳内を占拠して離れようとしない。宙に描く血飛沫の形まで鮮明に記憶している。まるで昨日の出来事だったかのように。
彼の最後の言葉はもう忘れてしまった。きっと何気ない世間話でもしていたのだと思う。時々、覚えていない事を思い出して後悔の念に苛まれる。
親友は車に轢かれて死んだ。正確に言えば、僕が轢かれそうになった所を彼が助けてくれて代わりに犠牲になった。彼が死ぬ必要など、どこにも無いのに。
つまり、僕が彼を殺した。彼が死んでから最初の一年は毎日のように法に裁かれたいと切に願っていた。それ以上に空虚な願いはなかった。
一人になると、しばしばそんな事を考える。別に思い出したいわけでもなければ、忘れたいわけでもない。思考がループしているのだ。自室のベッドで仰向けになって天井を見つめていることが悪いのかもしれない。
静かな部屋で、僕は虚空を見つめていた。
ふと思い立ち、ベッドから起き上がった。明確な目的を意識していたわけではないが、机の引き出しを開けた。上から二番目の引き出しを開けて奥の方へと手を入れて何かを探った。
やがて硬く冷たい感触があり、それを握って回収した。
「こんなところにあったのか」
手に握られていたのはアナログの腕時計だった。銀色のベルトに黒を基調とした文字盤には赤の差し色が随所に入っている。
特段、高級な腕時計というわけではない。正確な金額は覚えていないが、数千円程度だったと思う。
しかし、それは値段以上の価値を持っていた。かの親友と共に小遣いで購入したお揃いの腕時計だった。
「電池、切れてるや」
その腕時計の秒針はぴくりとも動かなかった。静かに過去の時刻を示していた。
「リョウスケー、朝ごはんー!」
その時、遠くの方で名前を呼ぶ声が聞こえた。
「うん、今行くよ」
適当な返事をして二階の自室から一階のリビングへと向かった。
リビングに行くと、母が朝食の配膳をしていた。
「顔は洗った?」
「うん、大丈夫」
「そう、じゃあちゃっちゃと食べちゃいなさい」
「はーい」
椅子に座り、目の前の朝食を口に運ぶ。トーストに目玉焼きとコーヒーが並んでいた。実にシンプルな朝食だった。飾り気のない普遍的な組み合わせ。この普通こそが朝を朝たらしめる要因となるのだ。
朝食を食べ終え、鞄を手に取り、真っ白なスニーカーを履いて玄関の戸に手を伸ばした。
「……いってきます」
いつも朝はこのルーティーンの繰り返しである。どこの家庭でもあるような会話の応酬。誰もが想像できる普通の中の普通。王道というには少しばかり恥ずかしい、そんな当たり前な一幕の連続であった。
僕は外へ出て大きく息を吸った。これもある種、日課の一つだ。
変わらぬ街の、変わらぬ空気を感じ取るのである。よくある住宅街の、何もない路地の一角。格別、美味しくもなければ咽せることもない空気を堪能していた。
どこを歩いても静寂な様相を呈するこの街が好きだ。こんな感情を抱くようになったのはいつからだろうか、僕にはよくわからない。
「リョウ兄、おはよ!」
不意に肩を叩かれ、振り返った。そこにはよく知った少女の姿があった。
「なんだ、リナか。びっくりした」
「なんだって何よ。っていうか全然驚いているようには見えないけど?」
僕の事を「リョウ兄」と呼ぶこの少女は同じ高校に通う二つ年下の後輩だ。実の兄妹でもなければ、遠い親戚というわけでもない。接点を持った経緯は至って単純で、彼女の実の兄は僕の親友だった男なのだ。昔は君付けで呼ばれていたような気がするが、いつ間にかリョウ兄と呼ばれるようになっていた。気がついたらそうなっていたのだ。今更、本人に訊く度胸もない。そもそもさほど気に留める程の事でもなかった。
「ねえ、今日もうちに来て勉強を教えてくれない?」
「ん……ああ、いいよ」
「じゃあ放課後、我が家に集合ね!」
「はいはい……」
この会話もいつも通りであった。ルーティーンの一部だと言われても違和感のない程に静寂な会話であった。
◆
授業の終了を告げる鐘が鳴る。それはその日の最後を示す鐘の音であった。
淡々と進むホームルームを終えて、帰り支度を始めた頃、背中の方から名前を呼ばれた。
「ねえ、リョウスケくん。帰ろうとしている所悪いけど、今日は図書委員の仕事があるの。手伝って」
「えー、マジ?」
名前を呼んできたのはクラスメイトの少女であった。
「エリー! 先行ってるよー!」
「うんー、先生には言っておいてー!」
他のクラスメイトが僕らの方へと声を掛けながら教室を出て行った。僕の目の前の少女が返事をしたのを見て軽く手を振っていたのが見えた。
「部活があるのでは?」
「今の聞いていたでしょ。とにかく、同じ図書委員なんだからさっさと行くわよ」
「へいへい、仰せのままに」
少女の名はエリ。僕のクラスメイトにして同じく図書委員を務めている女の子である。バドミントン部に所属しており、県内のプレーヤーであればその名を知らない者はほとんどいない程に優秀な成績を収めている。
「これ本当に生徒の仕事なの?」
その仕事量に辟易した僕は、堪らずため息と愚痴を漏らした。
「仕方ないじゃない。頼まれた以上はやらないと」
仕事内容は至ってシンプルで、新しく入荷した本を図書室に運ぶというものだった。
「いや、いいんだけどさ。今日はこれ運ぶだけなの?」
「ええ、図書室の受付に置いてと言われたのよ。ところでリョウスケくんはちゃんと進路のこと考えてる?」
「まあ、ぼちぼちかな……」
「それ何も考えてないでしょ」
「……………………」
言い返す言葉が見つからず長い沈黙が生まれた。
「あ、図星だ」
「う、うるさいな。良いだろ別に、今すぐ卒業するわけでもないし」
「もう三年生なんだよ? 半年も経てば今年も終わって進学するならば受験が本格的に始まるのよ? ちゃんと勉強すればリョウスケくんなら良い大学に受かると思うけどな」
「…………んなことはわかってるよ……」
エリには聞こえない程度のか細い声で小さく反発した。
春の陽気が過ぎ去り徐々に熱を帯びていく空気がやけに暑く感じられる。額から汗が滲み出ていた。
普通に過ごすだけであれば心地の良い天気であるが、両手いっぱいに本が詰まった箱を抱えている事で話は変わる。
一冊の重量など高が知れているはずなのに十数と束ねるだけで途端に重くなるのだろうか。
廊下の角を曲がると、図書室の戸が見える。ようやくゴールが見えてきたのだ。
扉は既に開いていた。エリが事前に開けていたのだろう。その引き戸は自然と閉まらないように固定されていた。
「そこに置いて」
「はい、よ。……いやー、流石に疲れるわ」
「……それはそうでしょ。一箱でも十分重いのに二つも持っているもの」
僕は本が詰まった箱を二箱運んでいた。
くだらない見栄に苦労させられるのはある意味男の習性とも言えた。
「あれ、その本はエリの?」
僕は受付の机にある一冊の文庫本に目が止まった。本屋の書棚に並べられているような小説らしきものであるという事だけはわかった。
「ええ、そうよ。ただのミステリー小説。気になる?」
「いいや、あんまり本読まないし」
「そう……」
元来、僕は小説を読むような人間ではない。図書委員になってしまったのも、その場の流れでそうなってしまっただけの事だった。
「さて、もう一往復行きますか」
箱は全部で六個。一度に二箱も運んでいたのは二往復で終わらせたいという気持ちの表れでもあった。
図書室の戸を潜ろうとした所で違和感を目の端で捉えた。振り返ると視線の先でエリは立ち止まったままだった。
「……本当に変わったよね」
突拍子のない台詞に困惑していた。
「何が? 言っている意味がよくわからない」
「だって、前までは委員会なんて絶対に入らない性分だったじゃない。昔とは全然違う」
エリとは同じ中学校から進学した知り合いだった。
確かに僕は何かの役職に就いて仕事をするような人間ではなかった。昔を知る者から見れば異様な光景に映るのだろう。
少し考察に耽り、一つの答えに辿り着く。
「いや、僕が変わったわけじゃない。環境が変わったんだよ。今も生きていれば、最後まで決まらなかった図書委員をあいつがやっていたと思う。僕より前に挙手をする人がいなかった。ただそれだけだよ」
もちろん、エリも親友の事は知っていた。彼は優しく、芯の強い人間だった。中学校の頃から何度も同じクラスになっていた。気兼ねなく会話できるくらいには仲が良かった。
「……やけに早く終わらせようとしてるけど、今日もあの娘の所へ行く気なの?」
詳しく話したわけではないが、エリにはリョウスケの思惑が筒抜けであった。
「別にいいだろ。深い意味なんてないよ。リナの勉強を見てるだけ、それ以上でも以外でもない」
「……本当にそれだけ?」
「そう言っているだろ? 言葉の意味以上の事なんて何もない。いいから早く行こう、中途半端に放置していて気分が悪くなるから」
そう言い、踵を返して廊下の奥へと進んでいく。
「……本当はわかっているくせに」
エリは大きくため息をついた。
「うーん、逆効果だったかなぁ……」
エリもリョウスケの後を追うように小走りで駆け寄った。
◆
「もう! 遅いよー!」
開口一番、リナが腹を立てて机を軽く叩いた。
「ごめんごめん。委員会の仕事があってさ、意外と時間が掛かっちゃって」
僕は謝りながらリナの対面に座る。場所はリナの自室で、小さなテーブルを挟むようにあぐらをかいて座った。
「またエリちゃんのお手伝い? 本当に二人も必要だったの? リョウ兄も人が良いから良いように使われてるんじゃない?」
やけに懐疑的だが、決してエリとリナは仲が悪いわけではない。半分以上は冗談である。軽口を叩けるほどの仲なのだ。
「いやいや、ちゃんと重労働だったよ。女の子一人に任せるには忍びないくらいにはね」
「ふーん、そうなんだ。まあ、そこがリョウ兄の良い所でもあるんだけどね。で! も! 理由はどうであれ連絡はいけるべきだったと思うけどなー」
「う、それを言われると……」
「言われると?」
「……ごめんッ!」
僕は両手を合わせて深く頭を下げて平謝りをした。
「……それだけ?」
「ええと、どうしたら許してくれますでしょうか……?」
可愛げに怒るリナにわざとらしく下手に出る。
「うーん、そうだなあ。じゃあ今日はウチで一緒に晩御飯食べよーよ! お父さんは今日から出張で家にいないから一人で食べるのは寂しくて寂して……」
わざとらしく涙を拭う素振りを見せた。
「えー……」
「一人分のご飯じゃ無駄が多くなるしー、最近は特にお父さんの帰りが遅いしー……チラッ」
擬音を口に出しながら虚構の涙目でしぶとく訴えかける。
「あーもう、わかったよ! 食べていくよ。あー、母さんに連絡いれとかなきゃ……」
「リョウ兄とご飯だ、わーい」
「……それ感情入ってる? それより、これで今週三回目な気がするのですけど僕の気のせいでしょうか?」
「んー、気のせいじゃない?」
「左様でございますか……」
すると、急に思い出したかのようにリナは鞄からノートや文具を取り出した。テキストとノートを開き、ペンを持つ。ようやく本来の目的の状態に近づいた。
僕はリナが開いたテキストへと目を向けた。どうやら数学の問題のようだ。特別難しくもない、標準的な問題集だった。学校の宿題なのだろうか途中式と解答をノートに書き連ねて行く。
「うーん……」
「どこか分からない所がある?」
「待って、もうちょっとだけ自分で考えてみる!」
スッと手の平を向けて改めて問題を考え直す。
静謐な空間が得も言われぬ居心地の良さを助長させていた。やがて行き詰まったのか、手に持つペンでノートの端をトントンと小気味よく小突き始めた。
「うーん、やっぱり分からない! ここの解き方を教えてよ」
嘘である。
元来、リナは僕よりも圧倒的に勉強が出来る娘であった。学習塾などに通っていなかったが、いつもテストでは高得点を保っていた。わざわざ学校のグレードを落として僕と同じ高校へ進学したのだ。そのリナが高校生になりたての数学の問題程度、分からないはずがなかった。
「どれどれ……」
僕は身を乗り出して問題が書かれているテキストを覗き込んだ。問題を見て確信する。やはり、リナが解けないような難易度ではなかった。
ふと、僕はリナを方へと視線を向ける。そこには本気で頭を悩ませている少女の姿があった。それを見て少し愛おしく、しかしそれ以上に寂しさと悲しみが胸中に渦巻いていた。
僕が兄の代わりなんてなれるはずもないのに。
「ここの問題は――」
それから、何問か解法を示した。どこか納得がいったのか後の問題は自らスラスラと解いていった。
この光景もいつもの事であった。数問だけ泣きつき、機嫌が良くなると自分で解き始める。
黙々と筆を滑らせるリナを見て、どこか安堵している自分がいた。
「ちょっとトイレに行ってくる」
「はーい」
僕は立ち上がり部屋を後にする。リナはノートと睨み合いながら生返事を返した。
トイレも、洗面所も全てが日常と同化していた。まるで実家にいるような感覚に陥いる事もある。勉強の面倒を見る前から何度も何度も訪れた場所なのだから、当然と言えば当然である。慣れ親しんだ構造に違和感は全くなかった。
とある一点、もとい一人を除いては――
「玄関の靴を見てもしやと思っていたが、やはり君だったか。リョウスケ君」
「…………」
洗面所で手を洗い、リナの部屋に戻ろうとしたその時、スーツ姿の中年の男性と目が合い、声を掛けられた。
僕は返事が出来なかった。なんて声を掛ければ良いかわからない。
否、それも嘘である。
「こうやってちゃんと話すのは久しぶりだね。二年ぶりになるのかな? リナから話は聞いてるよ。遊び相手になってくれてありがとうね。リナも素直に喜んでいるよ」
「…………そうっすか……それならよかったです……」
捻り出した言葉も、目を逸らして呟くのが限界であった。
僕はこの人の事が嫌いという訳ではない。ただ単純に、気まずいだけだった。もはや自分が今どのような顔をしているかも分からない、知りたくもない。
「私もね、今でも君がこうやって遊びに来てくれている事が凄く嬉しいんだよ。もっと早く言うべきだったけれど、なかなか会えなかったね」
「……………………ゥス……」
やはり言葉が見つからない。一瞬だけチラリと視線を送る。そこには妻を病で亡くし、息子を事故で亡くした男には見えない穏やかな表情でこちらを見つめている。
昔は父親のいない自分にとっては、まるで本当の父親のように思う時もあった。
「あー! お父さん帰ってきたの!?」
廊下の奥からリナの声が響き渡る。
「ただいま、リナ」
「話し声が聞こえると思って来たら帰ってきてるんだもん、びっくりした! でもお父さん仕事は? 出張じゃなかったの?」
「ああ、少しトラブルでね。出張が中止になったんだ。しばらくは動かなさそうだし、明日からはまた家から通勤するよ。今日はまたリョウスケ君に勉強を見てもらっていたのかい?」
「うん!」
無邪気に返事をする少女を見て僕は眉をひそめる。ふと気になり視線を送ると、彼もまた口では笑っているが、どこか悲しげな雰囲気を隠しきれずにいた。
「あっ……そうだ、忘れていた!」
「お父さん、どうしたの?」
娘であるリナの問いかけにも応じず、廊下の最奥へと急足で駆けて行く。
その姿を見て、胸の鼓動の高鳴りを感じた。気分が悪くなるような嫌な動悸だった。
廊下の先には見覚えがあった。過去二年、どうしても入る事が出来なかった部屋がある。入る事が許されないだとか、そういった類のものではない。僕には入る資格もなければ勇気もなかった。
「お兄……」
リナが小さく呟いた。
その部屋はまさしく、リナの兄であり、僕の親友であった須藤リンヤが過ごしていた部屋だった。
「はあ……はあ……はあ…………」
息を切らしながら早歩きで戻ってきた。手に何かを持っているようにも見えた。
「須藤さん、いきなりどうしたんですか? 息まで切らしているじゃないですか」
「最近会えなくてすっかり忘れていたが……これを君に、渡さないと、いけないと、思って……」
そう言って須藤父がキラリと光る何かを手渡した。
それを手にした瞬間、目を見開いた。
「これって…………」
「ああ、君は見覚えがあるだろう? それはリンヤが亡くなる直前まで身に付けていた腕時計だ。確かお揃いの物を持っていただろう? だから、これは君が持っているべきだと思ってね」
手の平に収まるその腕時計の重量を感じた。銀のベルトに黒を基調とした文字盤には青の差し色が輝いていた。
僕の持っている腕時計と色違いなだけで、同じものであった。
あえて比較するとしたら、事故当時の損傷が激しく、擦り傷が目立ち、塗装が欠けている箇所が多く見られた。
しかし、本当の意味で驚いたのは傷だとか、そういった物ではなかった。
「動いて、る」
その腕時計は間違いなく現在の時刻を刻んでいた。時計なのだからなんら不思議な事ではないのだが、ことこの時計に関しては驚きを隠せないでいた。秒針の小さな鼓動に、強く胸を撃ち抜かれたのだ。
「もちろん、ちゃんと電池交換をしているからね」
「どうして、電池交換なんてしているんですか? 誰かが身に着けるわけでもないのに……」
「やはりそう思うかい? 私も理由を明確に断言は出来ないのだけどもね。この時計の針が止まっているの見た時には気付いたら時計に持って行ったのだよ。この針を止めちゃいかん、とその時は無意識に考えていたのだろうね。そして数ヶ月が経ったとき、今度はこれを君に渡すべきだと、そう思うようになった」
もう一度、僕は時計の針に視線を落とす。僕の持つ物とは裏腹に力強い躍動感を覚えた。
曇り無く回り続ける秒針を見て、ふっと息をついた。肩の力が抜け、強張っていた頬も徐々に緩んでいった。
「これはきっと僕はが持つべき物じゃないと思います。これは…………そう、君が持つべきだと僕は思う」
そう言って僕はリナを腕時計を差し出した。
「え、あたし……?」
当のリナは唖然としている。
「そう、リナが持っていてほしいんだ。僕には同じ時計があるからね、二つも持っていたって仕方がないよ。何の変哲もないけど、世界で一つだけの時計だから。リナが大事に持っていてほしい」
「うん……大事にする……」
リナは両手で腕時計を握りしめて、少しずつ奥底に眠っていた感情が吐露し始めていく。
「……本当によかったのかい?」
「はい、これで良いんだと思います。あいつなら……リンが僕と同じ立場だったなら同じ事をしたと思えます。むしろ僕は感謝しています。この時計を見ると、リンが僕に喝を入れているような、そんな気がするんです」
「そうか、それなら君に見せた甲斐があるよ」
どうやら肩の荷が降りたのは須藤父も同様のようだった。
「…………今日のところは帰ります」
「えー! 帰っちゃうの? ご飯食べて行かないの?」
リナがいち早く反応する。
「そうするといい。たまには三人で、というのも悪くないじゃないか」
リナに須藤父まで乗っかってくる。
「いや、こんな平日の家族水入らずなんだから邪魔するわけにはいかないよ。二人でというのも久々なんだろ?」
「……………………………………………………うん」
長く、長く溜めて返事をするリナ。
「須藤さん、今週末はリンの墓参りに行くんですよね?」
「あ、ああ。そのつもりだが……」
「ならばご一緒させて下さい。命日くらい、顔を出さないと怒られそうだ」
「ふふっ、そうかもしれないな。じゃあ墓参りついでに三人でご飯でも食べに行くか! リナもそれでいいかい?」
「……………………うん、わかった」
不満がまだ残っていそうな、噛み殺していそうな、そんな返事だった。
「では、僕は帰ります。お邪魔しました」
靴を履き、リナの部屋から持ってきた鞄を手に持って二人へと振り返った。
「リョウスケ君、月並みかもしれないが、決して立ち止まってはいけないよ。振り返るのはたまにで良い。景色が遠くなって、姿形が変わって見えたとしても、それ自体に意味があるのだから」
「はい……!」
「リョウ君……また、来てね?」
「ああ、またな」
そう言って僕は須藤家を後にした。
最後の瞬間に、少しだけ昔に戻ったような空気の軽さを感じた。
◆
「母さん、おはよう」
「あら、今日は早いじゃない。学校もないのに」
「まあね」
朝の挨拶を済ませ、その足で玄関の方へと向かった。
僕が靴を履いて紐を結んでいると、後ろから声を掛けてきた。
「珍しい……どこかへ出掛けるの?」
「ん……ちょっと時計屋に行こうと思ってね」
僕は軽くポケットを叩く。
「そう……気を付けて行ってらっしゃいね」
「うん、行ってきます」
玄関の戸を開けて、大きく一歩を踏み出す。
そして一度、息を胸いっぱいに吸った。いつもと変わらない習慣を繰り返す。清々しい気分にさせてくれるこの街の空気が昔から好きだった。
僕はこの街が好きだ。道路を行き交う自動車も、部活動に励む学生たちの笑い声も、朝を知らせる近所の鶏の鳴き声でさえ、僕の心を穏やかにさせる。活気溢れるこの街の喧騒が、僕は好きだ。今までも、そしてこれからもこの感情は変わらないのだと思う。
賑やかな街を踏みしめながら、軽い足取りで時計屋へと向かった。
心なしか見上げた青空は、いつもより広く見えた。




