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婚約破棄、ありがとうございます。ですが殿下、それは私と国王陛下が一年かけて準備した【廃嫡】の同意書です

作者: 汐見 ゆゑ
掲載日:2026/08/08

「エレノア! 貴様との婚約を、この場をもって破棄する!」


 シャンデリアが降らせる光の下、王立学園の大広間に、王太子セドリック殿下の声が朗々と響き渡った。


 ——予定より、三分遅い。


 わたくしは扇の陰で懐中時計の蓋を閉じ、ドレスの隠しへ滑り込ませた。


 楽団は弓を止め、談笑は途切れ、卒業パーティの会場は水を打ったように静まり返っている。


 磨き上げられた大理石の床に、燭台の火が幾重にも映り込んでいた。集うは国中の貴族の子弟とその親たち、およそ三百名。


 証人の数としては申し分ありませんわね。ちなみに本日の会場費はすべて王室のお支払い——ええ、それももちろん、帳簿に計上済みですわ。


 殿下の腕には、薄紅のドレスをまとった異母妹のリリアンが、庇護を求める小鳥のようにしがみついている。


 あのドレス。ふふ。確認は後のお楽しみに取っておくといたしましょう。


 わたくしはスカートの裾をつまんで教本どおりの礼をひとつ、それから小首を傾げてみせた。


「まあ、殿下。突然どうなさいましたの」


「白々しいぞ! 貴様が陰でリリアンに働いてきた数々の非道、この俺がすべて聞いている! 俺とリリアンは、真実の愛で結ばれているのだ!」


 真実の愛。出ましたわね、今期の流行語。——ちなみにその愛の維持費がおいくらだったか、後ほどたっぷりご説明して差し上げますわ。


 わたくしは扇を開き、笑みの形になりかけた口元を隠した。


「お姉様……ごめんなさい。わたし、殿下をお慕いする気持ちを、どうしても抑えられなくて……」


 リリアンが長い睫毛を伏せ、細い肩を震わせる。ただし目尻に、涙は一滴も浮かんでいない。


 相変わらず詰めの甘い子。泣き真似をなさるなら、せめて目薬くらい仕込んでおきなさいな。


「言い逃れができぬようにな、書類も用意してある!」


 殿下は懐から羊皮紙の束を取り出すと、中央の円卓に叩きつけた。


 そして周囲に見せつけるように羽根ペンを取り、大仰な手つきで署名を済ませる。


「さあ、貴様も署名しろ! 三百の貴族が見ている前だ。後から泣いて縋っても無駄だぞ!」


 まあ、ご丁寧に書類まで。ええ、存じておりますとも。——何しろそれを起草したのは、このわたくしですもの。


 わたくしは円卓に歩み寄り、差し出された羽根ペンを受け取ると、流れるように署名を入れた。


 役目を終えたペンは、そっと殿下の手元へお返しして差し上げる。


 真新しいインクの匂いが、ふわりと鼻先をかすめた。


 三年前、家格合わせの政略でこの方の隣に据えられて以来、この胸が動いた日は一日たりともない。帳簿と違って積み上がらないものの管理は、楽でよろしいこと。


 この国において、貴族の面前で交わされた署名は最高位の証拠能力を持ち、何人たりとも覆すことができない。三百の証人つき。これ以上の舞台は、王国中を探してもないだろう。


 さて——お仕事の時間ですわ。


 ◇


 話は、一年前に遡る。


 その日、わたくしは王城の執務室に呼び出された。人払いの済んだ室内で、国王陛下は挨拶も前置きも抜きに、開口一番こう仰ったのである。


「エレノア。息子を切る」


 陛下は昔から、結論しか口にしない方だ。


 挨拶より先に議題。ええ、嫌いではありませんわ、その効率。


 聞けば、殿下が北部の災害復興予算に手を付けようとした形跡が見つかったのだという。寸前で止めたものの、器の底は見えた。あれに国は預けられない——そう見切った陛下を悩ませていたのは、むしろ手続きのほうだった。王族の廃嫡には、誰の目にも明らかな「正当な事由」が要る。密室で処せば、残るのは派閥争いの火種だけだ。


「お前を王室特別監査官に任ずる。期限は一年。愚息が自分から罪を積み、自分から婚約を破棄し、自分から廃嫡に同意する——そういう舞台を整えよ」


「承りました。成功報酬は、うんと弾んでいただきますわよ」


「まったく可愛げのない娘だ。よし、契約成立だな」


 わたくしと殿下の婚約は、もとより家格を釣り合わせるためだけの政略である。情など最初から一片もない。ならばこれは失恋ではなく、ただの業務だ。


 情の在庫はもとよりゼロ。棚卸しの手間が省けて、大変結構ですわ。


 ついでに、と父からも案件をひとつ預かった。異母妹リリアンの処理である。あの子は殿下に取り入るかたわら、公爵家の資産にまで手を付け始めていた。醜聞が表に出る前に、家から合法的に切除されたし——父の依頼書には、事務的な筆跡でそう記されていた。


 以来この一年、わたくしは何もしなかった。正確には、「何もしない」を徹底した。殿下が王室費から金を引き出しても止めない。妹が寮を抜け出して夜会に紛れ込んでも追わない。ただ、すべての伝票と、すべての逢瀬の記録を、監査局の書庫へ静かに積み上げただけである。


 泳がせて、太らせて、頃合いを見て網を締める。監査と養殖の基本ですわ。——ちなみに餌代は、あちらが勝手に王室費で払ってくださいました。


 そして本日。丸々と肥え太った罪状たちが、自分から網の中へ飛び込んできてくれた——というわけである。


 ◇


 わたくしは扇をぱちりと閉じ、正面のお二人へ向き直った。


「では殿下。婚約破棄の事由とやらを、具体的にお聞かせ願えますこと? 後々のため、議事録に残しておきたいの」


「ふん、往生際の悪い……いいだろう、思い知るがいい! リリアン、皆の前で話してやれ!」


 リリアンは殿下の腕からそっと離れると、胸の前で両手を組み、潤んだ上目遣いでわたくしを見た。


「お姉様は……わたしのドレスを、鋏でずたずたに切り裂きました! 殿下がくださった、大切な大切な、桜色のドレスを……っ」


 会場のあちこちから、非難のざわめきがさざ波のように起こる。


 わたくしは胸に手を当て、傷ついた顔を三秒だけ作って差し上げた。


 よくできた涙声。感情に訴えるのは戦術として悪くありませんわ。ただ——感情は、証拠にならないというだけで。


「あら、大変。それはいつのお話かしら」


「せ、先月よ!」


「先月の、何日?」


「み……三日よ! 三日の夜、寮のお部屋で!」


 はい、言質をいただきました。感情で語る嘘つきは、必ず細部を盛る。盛った瞬間、日付という名の急所が生まれるのです——尋問の初歩ですわ。


 わたくしが指先を小さく上げると、控えていた侍女が音もなく進み出て、黒革の帳面を手に載せてくれた。


 頁を繰り、目当ての写しを一枚、抜き出して掲げる。


「その桜色のドレス——本日あなたがお召しの、それですわね。フルール謹製、お値段は金貨百二十枚。お支払いは……あら、王室費」


「なっ……ど、どうしてそれを……」


「領収書の写し、整理番号八四七。そして納品の記録によれば、店からドレスが届けられたのは八日ですわ」


 さざ波のようだったざわめきが、ぴたりと凪いだ。


「おかしいですわねえ。三日の夜には、この世にまだ存在していないドレス。わたくし、いったいどうやって切り裂いたのかしら。あいにく、時を遡る魔法は不得手ですの」


「そ、それは……ひ、日付を! 日付を間違えただけよ……!」


「結構。では日付は保留にして、動かぬ事実だけを確定いたしましょう。——王太子殿下が、婚約者ではないご令嬢の衣装を王室費でご購入なさった。横領の証憑、其の一」


 ぱん、と扇の先で写しを打つ。


 会場に満ちるざわめきの質が変わり、非難の矛先が、ゆっくりと回転を始める気配がする。


 貴族というものは風向きに敏感でいらっしゃる。沈みかけの船から降りる速さは、皆さま一流ですものね。


 近くの令嬢がたが、扇の陰でそっと顔を見合わせた。


 ようございますのよ、皆さま。その視線こそ、本日の議事に必要な備品ですもの。


「ち、違うの! ドレスだけじゃないわ! お姉様は、お母様の形見の首飾りを盗んだのよ! 青い宝石の、世界にひとつしかない、あの……!」


 リリアンが声を張り上げ、胸元を掻き抱くような仕草をする。


 次はそれ。攻め手の順番まで予行どおりで、いっそ感心してしまいますわ。


「クロイツ家資産台帳、登録番号三一六、『蒼玉の首飾り』。……リリアン。あれは形見ではなく、公爵家の家宝です。あなたのお母様がお輿入れなさる、ずっと前から家にあるもの」


「そ、それでも! 盗まれたことに変わりはないでしょう!」


「二ヶ月前の九日。王都三番街の質屋『銀天秤』に、当該の首飾りが持ち込まれております。お持ち込みになったのは——薄紅の色がお好きな、小柄で愛らしいご令嬢」


 二枚目の写しを、指先でくるりと返して見せる。


「質札の写しと、店主の証言記録がこちら。盗まれたのではなく、あなたがご自分で質入れなさったのです。家宝を、当主に無断で。——家産の無断処分。リリアン、あなた自身の罪状、其の一ですわ」


 リリアンの大きな瞳から、作り物の涙が音を立てるように引いていく。


「な、なんで……なんでお姉様が、そんなことまで……」


「妹の身を案じるのは、姉として当然のことでしてよ」


 ええ、案じておりましたとも。主に、被害総額のほうを。姉妹の情で見逃すという科目は、依頼書に判を押した日に償却済みですの。


「ぐ……だ、だが、これはどうだ! 貴様がリリアンを大階段から突き落とそうとした件だ! 先月の十五日、学園でのこと。彼女は震えながら俺に打ち明けてくれたのだぞ!」


 殿下が円卓を叩いて身を乗り出す。額には汗が浮いているのに、その目だけはまだ勝ち誇っていた。


 ええ、その威勢をお待ちしておりましたの。この三件目のために、先の二件を丁寧に潰しておいたのですから。


 わたくしは帳面を侍女へ返し、代わりに一通の封書を受け取った。


「先月の十五日。刻限は?」


「ひ、昼下がりよ! 二の鐘の頃だったわ……!」


「その日のその刻限、わたくしは学園におりませんでした。王城で、さる御方と月例の会議の最中でしたから」


「はっ、出たな苦し紛れの嘘が! どこの誰とだ、言ってみろ!」


「国王陛下と」


 ——大広間から、音というものが消えた。


 良い静寂。嘘が擦り切れて、事実だけが露出する音ですわ。


 わたくしは封書から書面を抜き、胸の高さに掲げる。


「アリバイの証明として、陛下の御璽を頂戴した在城証明書がこちらに。回覧なさいます?」


 最前列の老伯爵が震える手で書面を受け取り、無言で隣へ回した。


 羊皮紙の擦れる音だけが、静寂の中で痛いほど大きく響いた。


「な……なぜ、貴様ごときが……父上と……げつれい、だと……?」


 日に焼けた殿下の顔から、みるみる血の気が引いていく。


 ここへ来てようやく、何かがおかしいとお気づきになったらしい。……お気づきになるまで、きっかり一年かかりましたけれど。


 ◇


「おのれ……おのれおのれおのれ! 謀ったな、この女ぁ——っ!」


 殿下は腰の剣の柄に手をかけ、円卓を回り込み、わたくしめがけて掴みかかってきた。


 見えておりましてよ。——というより、お待ち申し上げておりました。


 半歩だけ退く。振り上げられた腕が空を切り、次の瞬間、殿下の巨体は床に組み伏せられていた。


 給仕に扮して壁際に控えていた男が三名。上着の下から覗くのは、近衛騎士団第三部隊の黒い略章である。


 配置から制圧まで、きっかり二秒。良いお仕事ですこと。後ほど監査局の経費で、特別手当を申請して差し上げましょうね。


「なっ……貴様ら、この俺を誰だと——」


「職務執行中の王室監査官への暴行未遂。……加算しておきますね」


「かん、さ……? 監査官、だと……?」


 わたくしは胸元から黒い小さな手帳を抜き出し、開いて高く掲げ、ゆっくりと会場へ巡らせた。


 王家の紋章と陛下の御璽が、シャンデリアの光を受けて鈍く輝く。


「王室特別監査官、エレノア・ヴァン・クロイツ。国王陛下の勅命により、この一年間、王太子セドリック殿下の素行ならびに財務を監査しておりました」


 会場が、爆ぜた。悲鳴とも歓声ともつかないどよめきが、天井の梁を揺らす。


 隅のほうでは、気を失った令嬢が椅子ごと抱き止められていた。


 無理もない。彼らが今目にしているのは、ありふれた婚約破棄の茶番ではなく、王位継承者の公開監査なのだから。


 この一年、「殿下を顧みない冷血な悪女」と呼ばれるのも業務のうちでしたけれど——汚名も経費のうち。本日、利子をつけて回収いたしますわ。


 手帳を閉じて胸元へ戻し、視線で侍女たちを促す。


 侍女たちが二人がかりで書類の束を運び込み、円卓の上へ、どすり、と据えた。


 紐で綴じられた紙の塔は優に辞書一冊ぶんの厚みがあり、小口は色とりどりの付箋で膨らんでいる。


「監査報告書、全四百二十六頁。殿下がこの一年間に王室費から引き出された総額、締めて白金貨二万四千枚。国家の年間予算の、およそ三十分の一に相当いたします」


 どこかで、ひゅ、と誰かの喉が鳴った。


「使途の内訳は、ドレス三十七着、宝飾品六十二点、湖畔の別荘の改装、お二人きりの晩餐が百と八回——ずいぶんと、おまめでいらしたこと」


「そ、それは……それは、真実の愛のために、必要なものだった……!」


「ええ、存じておりますわ。お二人の恋の思い出は、すべて領収書の形で保管してございますもの」


 報告書の頁を、ぱらり、と一枚めくってみせる。


「愛は無料ですけれど、逢瀬は経費でしたのね、殿下」


「で、でたらめだ! そんな紙切れ、偽造に決まっている……!」


 偽造。ええ、その台詞が出るところまで、点検表のとおりですわ。


「全記録、監査局の刻印つき『記録の魔道具』の映像で裏が取れております。なんでしたら、一昨日の夜の、別荘でのお二人のご歓談から再生いたしましょうか」


 殿下の口が、開いたまま固まった。


 再生されたくない映像に、お心当たりがおありのようで何よりですわ。


 リリアンはと見れば、いつの間にか女性騎士に両脇を固められ、床にへたり込んでいる。


 ようやく状況のご理解が追いついたようで何よりですわ。飲み込みの遅さまで、お似合いのお二人ですこと。


「じゃ、じゃあ……さいしょから……ぜんぶ、わたしたちを、泳がせて……」


「人聞きの悪い。わたくしは何も。——ただ、見て、数えて、綴じただけですわ」


 さあ、メインディッシュは片付きました。残るは、殿下がご自分で運んでくださったデザートだけ。


「ところで殿下。先ほどご自分で叩きつけて、ご自分で署名なさったその書類——最後の頁まで、きちんとお読みになりまして?」


「……は? 破棄の同意書だろう。それが、どうし……」


「ええ、第一条から第六条までは。では、第七条をご一緒に確認いたしましょうね」


 わたくしは円卓の羊皮紙を取り上げ、会場に届く声で読み上げた。


「『第七条 甲、すなわちセドリックは、本件破棄に係る一切の有責事由——別紙監査報告書に記載の各項を含む——を己の責と認め、王位継承権を放棄するとともに、王国法に基づく廃嫡処分に同意する』」


 沈黙。それから、壊れた玩具のような声がした。


「……………………は?」


「ご署名は、貴族三百名の面前で。王国法上、撤回は何人にも不可能です」


「ば、馬鹿な! そんな条項、俺は知らん! だ、誰だ、この書類を作ったのは! 側近か!? 法務局か!?」


「殿下の側近どのが、法務局へ『完璧な様式を』とご依頼でしたのよ。……ご存じありませんでした? 法務局の書式の管理は、監査局の管轄ですの」


 殿下の両の目が、限界まで見開かれる。


 読まない、確かめない、疑わない。この一年間で唯一ブレなかった、殿下の美点でいらっしゃいますわ。


 わたくしは膝を折り、床の殿下と視線の高さを合わせ——この日初めて、心からの微笑みを差し上げた。


「起草はわたくし。監修は国王陛下。一年かけて、二人でご用意いたしましたの。あなたが書類を読まずに署名なさるところまで、とうに監査済みでしてよ」


 仕上げに、殿下ご自慢の羊皮紙を、報告書の塔の天辺へ、ぽん、と載せて差し上げる。


 ——検収、完了。納品先は王国法廷、返品はお受けしておりませんの。


 ◇


 その後の処理は、恐ろしく事務的に進んだ。


 近衛騎士団長が進み出て王命書を捧げ持ち、封蝋を割って読み上げる。


 居並ぶ貴族たちが、衣擦れの音とともに一斉に頭を垂れた。


 セドリック殿下——いえ、元殿下は、王位継承権を剥奪のうえ廃嫡。リリアンはクロイツ公爵家から除籍とし、貴族籍を剥奪。ここまでは、あの同意書と依頼書の文面どおりである。


 廃嫡された王族は戸籍を失い、王国法の保護の外に置かれる。なお、相続の関係で子どもができない措置も取られる。あらあら残念なこと。


 大広間の空気は、いつのまにか夜会のそれではなく、裁きの庭のそれへ変わっている。


「賠償額は、横領のお額に調査費用と違約金を加えまして、白金貨二万八千枚。お二人には王家直轄領ガルム鉱山にて、労働によるご返済をいただきます」


「こ、鉱山……!? い、いつまでだ……」


「日当から食費と寝具のお代を差し引いて積み立てますと——完済のご予定は、お利息を含め、五十八年後ですわ」


「ごじゅう、はち……」


 数字は嘘を吐きません。ですからわたくしは、愛の誓いよりも複式簿記を信用しておりますの。


「大丈夫。人は、希望さえあれば頑張れると申しますもの」


 希望があるとは、一言も申しておりませんけれど。それに完済の頃には、お二人そろって古希をとうに過ぎていらっしゃる計算——長生きの励みになりますわね。


「い、いや……いやよ! 鉱山なんて! わたしは殿下と結ばれて、王妃になるんだから! お父様、お父様ぁっ! 助けて!」


 リリアンが騎士の腕の中で身をよじり、会場の最前列へ細い手を伸ばした。


 その視線の先。父は——クロイツ公爵は、娘を一瞥すらせず、玉座の方角へ深々と頭を垂れただけだった。


 忠誠は、血ではなく王命に。それがあの方の、五十年変わらぬ答えである。


 冷たい家だと、お思いになるかしら。ですがその冷たさこそが、公爵家を三百年保たせてきたのですわ。


「除籍のお届けでしたら、受理されておりますの。あなたはもう、クロイツの人間ではございませんわ」


 リリアンの薄紅の唇が、音もなく戦慄いた。


「ですけれど、ご安心なさいませ。——真実の愛、でしたわよね?」


 わたくしは扇をゆるりと広げ、口元を隠した。


「お二人を引き裂くような無粋はいたしませんわ。配属は同じ鉱山の、同じ飯場——その愛が本物かどうか、五十八年かけて、心ゆくまでお確かめあそばせ」


 騎士たちが二人を左右から立たせ、出口へと引き立ててゆく。


 扉の向こうへ絶叫が吸い込まれたあとも、三百の貴族の中に、助命を口にする者はただの一人もいなかった。


 かくして本日の議事は、すべて予定どおりに完了した。所要時間、四十二分。想定との誤差はプラス三分——冒頭、殿下の宣言が遅れたぶんである。


 最後の最後まで、減点の多い御方でしたこと。


 ◇


 それから一週間後。空いた王太子の座には王弟殿下のご長子が就くと官報が告げ、社交界の話題は早くも夏の舞踏会へ移っている。そんな折、わたくしは王城の南向きの一室に招かれていた。


 磨き上げられた銀器と、湯気を立てる紅茶。向かいの席では国王陛下が、実に晴れやかなお顔で焼き菓子を摘んでいらっしゃる。


「ご苦労だった。良い茶番……いや、良い監査だった」


「恐れ入ります」


 報酬の桁は、事前のお約束どおり。まったく、良い雇い主ですこと。


 卓の端には約束の品——成功報酬の為替と、南部の温暖な領地の権利書が、無造作に重ねて置かれている。


 為替の額面をあらため、権利書とともに手元へ引き寄せる。


 名目は「慰謝料」。わたくしが欠片も傷ついていないことなど先刻ご承知のくせに、この妙な律義さが、あの方らしい。


「密室で首を刎ねれば、恨みと火種が残る。だが衆目の前で、本人が読まずに署名した書類なら、誰の恨みも買わん。……安く済んだものだ」


「ゴミは、正しく分別いたしませんと」


「まったく、可愛げのない娘だ」


 後日聞いた話だが、護送馬車の中でお二人は「お前のせいだ」と罵り合い、鉱山に着く頃には口も利かなくなっていたという。真実の愛の耐用年数は、馬車で五日——監査記録に追記しておくことにする。


 陛下は肩を揺らしてお笑いになり、それから、一冊の書類ファイルをすっと卓上に滑らせてきた。


 表紙には『南部辺境伯・関税不正の疑い』の文字。


「ところで、だ。次の案件なのだがな」


 わたくしは紅茶をひとくち含み、香りをゆっくり味わってから、静かにカップを置いた。


「陛下。——休暇の、後で」


 ファイルの表紙を、指先ひとつでそっと押し戻す。


 窓辺のレースが初夏の風に揺れて、外は憎らしいほどの晴天である。


 まずは頂いた領地で、しがらみのないお茶会でも開くといたしましょう。ええ、招待客の審査は——もちろん、厳正に。

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