第57話 神秘公
コルネリウス・アグリッパ。
ユリシルトですら耳にしたことのある、それは伝説上の大魔道士の名。
まさしく歴史書に記載されるクラスの偉大なる人物にして、だが、同時にそうした史書の類では決して書き尽くすことのできない、謎めいた部分がいまだ数多くある存在。
そして何よりも、150年ほど前、この魔道士の街クラウゼンブルクを世界の果ての荒地の中、忽然と建設したという……。
「え、嘘……」
はたしてそんな普通では出会うことさえまず不可能なこの街の真の支配者と、あろうことか今まさに目と鼻の先でまともに遭遇しているのだ。女騎士が我知らず惑乱覚えてしまったのも、まったく無理からぬことであった。
畢竟、彼女は畏れのあまり自らもすぐその場で跪こうとしたものの。
「異邦人よ、お前は私に仕える者ではないのだ、それはよい」
しかし目敏くその素振りに気づいたのだろう、神秘公は静かながら力のある言葉で、それをあっさり制止してきたのだった。
紅色の瞳が、かくてそんな騎士を見て僅かに細められる。
「恐らく、探し人でも求めてこの街へやって来たのだろうが」
「!」
「その者が、悪魔の血と関係しているのだろう?」
そうして放たれた一言、だがそれは余りにユリシルトにとって核心を突かれた言葉に違いなかった。途端、彼女は彼女で絶句してしまったのだから。すなわち、この齢幾つとも知れぬ魔道士は、一体此度の件についてどれだけのことを知っているのか、そして逆に知らないことはあるのか、と隠しようのない驚愕に包まれ。
かくして美しくも剣呑な視線の照射はいまだ続き、そのどこまでも思慮深い瞳に自らの全てがあられもなくさらけ出されてしまうのか、などとユリシルトが我知らず思いかけた、
――しかしその瞬間。
「おい、この人は紛れもなく俺の依頼人だ。余計な真似は困るぜ」
その隣から、ふいに遠慮なく鋭い声を挟んできたのはロディだった。相変わらず畏怖のまったく含まれていない、平静たるとしか感じられぬ響きだ。そう、まるでそういった言葉が、彼にとっては実にありふれたものでしかなかったような。それもあの神秘公を前にして。
そして当然のごとくその声は公の眼を再び彼へと引き戻して。
「そうだったな。お前が守るべき存在。……こちらとしても少し話を聞いてみたかっただけのことだ」
……そんな詫びるような言葉まで、ふいに真剣さを増した表情とともに発させている。
「……そんなことより、俺に用があるんだろう? 早く言ってくれよ」
「何、それはお前だって大体予想はついているだろうが。要は、ロディ、お前に頼みたいのは他でもない、悪魔の血に関することなのだ」
「やはりそうか」
「まず第一に、あれだけは決して使用させてはならぬ。あの薬は世界の均衡を容易く破ってしまうもの、すなわちこの世の理など軽く超越した。……だが、魔法とはまさしく<龍脈>から得られる大いなる、だが限られた一定量の力。当然いかなる手段であれ、自らに、それぞれの者に課せられた域を超えることは決して許されておらん。もちろんこの原理、お前なら分かるな? 悪魔の血を使うというのは、そうした世界に満ちている輝かしき全体エネルギーへ干渉することと同義なのだから。すなわちその結果どんな恐るべき惨事が起こるか、皆目見当もつかぬ。実際200年前、住人の一人がそれを使用したがゆえ、フィリポの街が一瞬で大地に飲みこまれたように」
加えていよいよ真に迫ったものへと化してきた、その声音。かくて話が佳境に入り始めたのは、門外の徒たるユリシルトにもすぐ悟られたくらい、まず間違いのないことなのであった。
「ではよいな、これを使い、悪魔の血の力を無効化するのだ」
そうして神秘公は手の中に突如として青い壜のようなもの現わすと、それを静かにロディへと差し出した。その中には透明な液体が入っていた。
「……何だよ、これは?」
「<王の水>。あらゆるものをたちまちその内に溶かし、無へと化してしまう液体。もちろんこれを悪魔の血と混ぜ合わせれば、かの魔の薬でさえ、一瞬で無力化できる。当然ながら、何者かがそれを飲む前に使う必要があるが」
「なるほど、あれを取り戻し、加えてさらに力を無きものにしろ、と」
一方ロディは一瞬その液体前にして考えこむような態示す。どことなく、釈然としないような感じだ。むろんそれは当の壜渡そうとした公をして、怪訝な顔示させるには充分なほどだった。
「どうした? 何か疑問でもあるのか?」
「いや、確かに厄介な品とはいえ、悪魔の血はミラルカが精魂込めて作り上げた代物だ。かなりの努力と代償を払って。それにあいつにあったのはそもそも純粋な錬金術師としての興味だけで、そこまでの悪意はなかったはず。まあ、それでも奴はもちろんかなりの大罪に価するはずだが」
「うむ」
「――だから一つ提案なんだが、俺がうまくあの薬を取り戻し無力化できたら」
そして彼は神秘公が目を細めさらに物問うと、声をやや重くして、一つ、意を決したように告げていたのだった。
「せめてあいつの記憶だけは戻してやってくれ。言わば、それが俺への今回の報酬ということで」
「……」
「出過ぎた頼みなのはもとより承知だが、しかしミラルカは元々そんな悪い奴じゃないし」
「だが、記憶が元通りになり、さらに刑期を終えたら、またあれを作るかもしれんぞ」
かくてロディの言葉を聞くと、刹那の沈黙の後、公が口を開いた。紛れもなく、そこには選ばれた者のみに備わる厳しさがこもっていた。
「そうなれば、今度は忘却の罪どころではとても済まされない。それこそ死に価するような。……むろんミラルカにとっては、むしろそちらの方が悲劇であろう。それでもお前は良いというのか?」
だが、対するロディも負けてはいない。彼は少しも狼狽えた様子見せず、むしろそんな冷ややかな言へすかさず声に力こめ応じていたのだ。
「ああ、それに関しては、俺が責任を持つ。つまり、あいつがまた再び悪魔の血を作ろうとしないように、ちゃんと監視するから」
「安請け合いというやつだな。そこには保証の類がどこにもない」
「だったらあいつがまたやらかしたら、今度は俺も連帯責任ということで記憶を奪われる、さあ、これならどうだ?」
そうしてきりっと表情改め、相手のこと正面からじっと見据える緑の魔道士――。
「……これは傑作だ」
かくてしばしその提案前にして沈黙が訪れたのだが、やがて神秘公が口を開いた。その口元には、再び形容し難きあの笑みが浮かんでいた。
「次は自分に忘却の罪与えよ、とはな。それが友情か何かは知らぬが、なかなか友思いのことだ。……よかろう、我が不肖の息子よ、お前の提案、しかと受け入れよう」
(え?!)
「分かってくれたか? そりゃよかった。だったら、その水、しかと受け取るぜ」
「――だがこれはこれでなかなか貴重な代物だ。ゆめ失敗などせぬように。では話は終わりだ、私はもう立ち去ることとしよう」
……しかも取引成立の証しに相手のロディまで似たような笑み、にっと零したのだが、しかしその時ふと耳にした神秘公のとんでもない一言が、傍でそれ聞いていたユリシルトをして知らず大きすぎる驚愕、覚えさせていたのである。




