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台湾侵攻  作者: 未世遙輝
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第一章:静かなる不穏  1.3 サイバーの嵐、そして沈黙の序曲


王美玲の勤務先である台北市内のIT企業は、その日、これまで経験したことのない異常な熱気に包まれていた。警報の電子音がひっきりなしに鳴り響き、サーバー群が置かれたフロアからは、排熱ファンの唸りがまるで嵐の到来を告げるかのように響き渡っていた。美玲は、モニターに表示される複雑なグラフと数値の羅列を食い入るように見つめていた。大量のトラフィックが、まるで津波のように彼女たちのネットワークに押し寄せ、防御システムを叩き潰そうとしている。それは、単なるハッキングやサイバー犯罪の域を超えた、大規模なDDoS攻撃だった。

「これ、ただの嫌がらせじゃない。組織的すぎるわ……」

美玲は、隣で同じくモニターと格闘している同僚に、思わず呟いた。同僚は額の汗を拭いながら頷いた。攻撃の規模、洗練された手法、そしてターゲットの選定。これらが示唆するのは、もはや個人のハッカーや犯罪集団の仕業ではないということだった。背後には、国家規模の組織が関与していることは明らかだった。

攻撃は、企業のネットワークだけに留まらなかった。台湾電力の送電網を狙った攻撃が報告され、一部の地域で瞬間的な停電が発生した。交通管制システムも一時的に混乱し、台北市内の幹線道路が麻痺寸前となった。さらには、金融機関のネットワークにも不審なアクセスが集中し、国際送金システムに障害が発生したという速報が入った。美玲は、徹夜で復旧作業にあたるが、状況は一向に好転しない。彼女の心臓は警鐘を鳴らしていた。これは、来るべき大規模な軍事行動の前に、社会インフラを麻痺させ、国民の士気を削ぐための、周到に準備された開戦前の予兆なのだと、彼女は薄々気づき始めていた。コーヒーを何杯飲んだか分からない。目の奥が焼けつくように熱く、指先はキーボードを叩きすぎて痺れていたが、それでも手を止めることはできなかった。彼女の指の一本一本が、台湾の未来を握っているかのように感じられた。

時を同じくして、中国本土、北京郊外に位置する人民解放軍の作戦司令部。地下深くにある巨大な指令室には、壁一面に並んだモニターが青白い光を放ち、数十人のオペレーターたちが静かに、しかし寸分違わぬ動きで各自の持ち場についていた。その中心に立つのは、陳偉師団長だった。彼はまだ50代そこそこだが、その顔には深い思慮の跡が刻まれ、その瞳は氷のように冷徹だった。

「台湾北部の電力供給、70%ダウンを確認。通信網は、主要回線の40%が依然として機能不停止。空港の管制システムは完全に掌握下に入った」

副官の報告を、陳は一切の感情を交えず聞いた。彼の指示のもと、数日前から大規模なサイバー攻撃が台湾に対して仕掛けられていた。これは、来るべき侵攻作戦の第一段階、すなわち「情報戦フェーズ」の一環だ。その目的は明白だった。台湾の社会機能を完全に麻痺させ、軍の指揮統制システムを混乱させ、国民の抵抗意思を根こそぎ奪うこと。物理的な攻撃を始める前に、敵の骨抜きにするのだ。

モニターの一つには、台湾各地のインフラの状態を示す地図が表示されていた。赤い点が次々と増え、機能不全に陥った箇所を示している。陳は満足げに、しかし感情を露わにすることなく、次の指示を出した。「引き続き、金融システムへの圧力を強化しろ。国民の生活を混乱させ、士気を徹底的に削げ。同時に、我が軍の航空機のレーダー回避システムへの最終調整を怠るな。夜明けまでに全てを終える」

兵士たちは、彼の言葉一つ一つに緊張と高揚が入り混じった顔で聞き入っていた。彼らの多くは、祖国統一という大義名分を信じていた。中には、初めての実戦に高揚感を覚える若者もいる。しかし、陳は知っていた。この作戦の先に、血と泥に塗れた現実が待っていることを。彼は内心で、この非情な作戦の先に本当に「統一」と呼べるものが待っているのか、自問自答していた。それでも、彼の表情は崩れなかった。感情は弱さであり、この場において最も不要なものだった。彼はただ、来るべき大規模な軍事行動への準備を、静かに、しかし着実に進めていた。夜が明ければ、台湾はもう、彼らが知る姿ではないだろう。

その頃、台北の街から、徐々に日常の音が消えていく。夜市の喧騒は鳴りを潜め、車の走行音も途絶えがちだった。街灯の多くは消え、不気味なほどの闇が広がる。李志明は、客足が途絶えた「暖光珈琲」の片付けをしながら、店のラジオから流れる中国語のニュースに耳を傾けていた。普段は流暢なニュースキャスターの声も、どこか緊張しているように聞こえる。

「……現在、台湾全域において大規模な通信障害が発生しております。政府は、これは外部からのサイバー攻撃であると発表しており、国民に対し、落ち着いて行動し、不必要な外出を控えるよう呼びかけております……」

そして、臨時ニュースに切り替わり、政府からの国民への警戒を促すアナウンスが何度も繰り返された。その内容は、徐々に具体的になっていった。「避難場所の確認」「食料と水の備蓄」「家族との連絡手段の確保」。どれもが、ただならぬ事態が迫っていることを雄弁に物語っていた。

志明は、カウンターを拭く手を止め、窓の外に目をやった。いつもなら光の海のように輝いているはずの台北の夜景は、あちこちで停電が起き、まばらな光しか見えなかった。不気味なほど静まり返った夜空には、星がいつもよりはっきりと見えた。まるで、この街の未来を静かに見守っているかのように。

その時、彼のスマートフォンの画面が光った。妹の美玲からだった。メッセージはたった一言。

「兄さん、気をつけて」

簡潔な言葉の中に、言い尽くせないほどの不安と、兄を案じる気持ちが込められていた。志明は、そのメッセージに返信することなく、ただ画面を見つめた。それが、彼が聞いた最後の穏やかな言葉となることを、この時の彼はまだ知る由もなかった。

やがて、遠く、ごくかすかに、しかし確実に、何かが始まる予感させる音が聞こえ始めた。それは、大地の奥底から響くような、低いうなり声。あるいは、巨大な怪物が目覚めの咆哮を上げる寸前の、震えるような吐息。嵐の前の静けさは、もう終わりを告げようとしていた。次の瞬間、その不気味な静けさは、地獄のような轟音によって打ち破られることになるだろう。


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