嫌われる絵 石ころであるということ
Xのタイムラインを眺めていると、毎日たくさんの絵が流れていく。
まさに「流れていく」。かわいい女の子の絵。線の細い美青年の絵。誰の絵なのか、フォローしてなくてもわかる。描き手が私のことを知らなくても、こちらは知っている。その絵を。描き手のアカウント名はおぼろにしか記憶していなくても、その絵はわかる。自分の目がその特徴を、においを知っている。
でもそれは自分が絵描きだからなんだろうとも思う。先日、流行りの絵、流行りの原作の二次創作を描く人が、自作の絵としてAIイラストを紛れ込ませているのを見た。とても絵柄はよく似ている。LoRAで寄せたのかもしれない。でもそれはAIイラストだ。コメ欄を見てみると、ファンの人からは変わらず肯定的なコメントが入っている。気づいていないのか、この人はそんなことしないと信じているのか。引用ポストから、それを匂わせる突っ込みが入っている。
その後のことは知らない。気づかない人は気づかない。本人が明記しない限り、それはあくまでその人の手描きのイラスト。あるいは気づいていてもどうでもいいのか。実際のところ、「その人の」作品でないと耐えられない、というのは、ことアマチュアの創作にあっては稀有なことだ。特に二次創作なら、同じ原作を愛好する他の二次創作者の作品でいくらでも代替が効く、というのが大多数の消費者の本音だと思う。なんならAIイラストでも構わないかも知れない。見たい画角なら。それどころか、好きなキャラのかたちさえしていれば。
先日、非常に手間のかかる絵を描いた。
頭の中でイメージしている分には、さほど手間がかかると思わなかったのだが、いざ描き始めたらあれもこれも手をかけないと安っぽくてどうしようもなかった。仕方なくちまちまと手を入れて、結果的にとても気に入る絵になった。こういうのは実際よくあることで、基本的に、自分は本来絵を描く人間にあるまじきレベルのめんどくさがりだから、「こんなに手をかける羽目になるとは」と後で後悔することになる。絵を描くのは楽しい、でもその工程の半分以上は不快感を伴う。ふわふわとしたイメージが形にならない苛立ち、描き始めてみたら大した絵にならない予感、難易度が高過ぎて自分の力量では描ききれないと気づく敗北感。その隙間を、自分のイメージと実際に自分が持つ技量との隙間を、数少ない自分の持つカードで(それはエフェクトであったり陰影であったり単なる力技であったりする)なんとか近づけていく情けない時間。一枚8時間くらいかける中で、それらのあまり心踊らない作業は実に5時間から6時間に及ぶ。
さて、そこまでして描いても、実は誰もその絵を待ってはいない。前述の二次創作者のAI作品の方がずっと需要がある。自分の絵は誰から頼まれたわけでもなく、誰から飾られるわけでもない。誰かの目を引くことすら稀、誰の記憶にも留まらない。これは自虐ではない。おそらく創作者の大半の作品はそうやってただ流れていく。作品が本当に人の心を捉えるというのはとても難しいことなのだ。私には世界で一番私が好きな絵を描く人がいるが、その熱量で私の絵を好む人はおそらく自分には現れないと思う。それを芯からわかっていて、それなのに他人には全く無価値な絵を時間をかけて、時に苛々しながら、時に絶望しながら描く。常軌を逸している。
そうやって描いた絵も、何も労せず描かれた絵、生成AIが出力した絵も、自分としては全く同じだと思っている。生成AIが出力した絵と比して、絵描きが手で描いた絵は苦労しているから、時間がかかっているから、そのレベルの絵を描けるようになるまでに努力してきたから尊い、というのは、作品そのものを一種愚弄しているように思う。ことさらに「苦労して描いているから」人間の絵は素晴らしい、というのは「作品それだけでは勝負できていない」という言い訳に聞こえる。言いたいことはわかる。機械がひょいひょいと人間が積み重ねてきた作品からいいとこ取りして作った絵を、身を削るようにして描いた絵と比較するのは烏滸がましいと思わないのか? という、その研鑽に対するリスペクトからの反応だというのはよくわかっている。自分だってそれなりにのたうち回って絵を描いているのだ。よくわかっている。ただ、単純な消費者にとって、その絵描きの苦労話というのは全く興味ないし、関係ないので、そこを強調しても仕方がないのだ。1週間かけてスパイスから作ったカレーがボンカレーより美味いとは限らない。身を削っているかどうかなんて誰にもわからない。ある時から誰かの絵がAI生成物に置き換わっていたとしても、本当に、心から傷ついて残念に思う人間なんか滅多にいない。大半にとっては、何もかも全部ただタイムラインを上から下に流れていく石ころで、それが模造でも天然でも関係しない。
それでも描く。自分で。それはただの石ころだが、長い年月をかけてあらゆるものに削られ磨かれて自然にこの形になったことを知っている。誰にも刺さらなくても、もっと絵が上手くなりたいと思う。描き上がった絵はいつも、前の絵より少し進化している。