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無敗伝説  作者: 童堕狼
7/7

一つ目 狗雑種軍勢ト登雲梯その七

 そっと口にしたその言葉は、信頼する僚友に託すものである。


 然れども、寝室に戻ればジラベの影は見当たらない。どうやらもう輪番制の勤務に戻ったらしい。


 また四時間。あたかも嘲るがごとく、寂然たる浪の中、耳許には耳障りな囁き声のみ絶えず反響していた。


 まだ四時間。心懐を打ち明ける相手もなく、眠りの訪れもない。ひたすら気を揉みばかりで、時の過ぎゆくのみ待ち続ける。


 先刻まではひとたびの休憩をとっていたものの、突如の暴風雨により今もなお休憩だ。作業効率を損なわぬよう、エット少尉は直ちに時刻の組み立てを改めてくれた。


 しかるにシュンは今や心身ともにすっきりしていると自身が思っているにもかかわらず、現場への出向くを許されない。寝室の丸窓を抜く視線は上の空で物思いをふけていた。


 考えるべきことは少ないはずなのに、そのすべてが理解ならず、同じ思考を繰り返しめぐるばかりなのだ。


 今日一日に種々の出来事が頭をめぐる。恐ろしい暴風雨の襲来、保険詐欺だと明かされた途端、あの奇妙な男のこと、それとマーケルの言葉……思い返すだけで腹はキュルキュルと鳴る。


 かく理解の及ばぬ情状に苛まれ、シュンはふと顔を上げ、青灰色の雲に覆われる空を見あげる。


「へぇ?」


 久しく茫々と空を眺めているうち、東の空より明光差し出づる。しかし、夜明けが近づいていることにシュンは今さら気づかなかった。


 灰青色に曇った空は光帯び、夜の闇を徐ろに押しのけていく。これを見てシュンも雑多な思いをほったらかする。


 暫し思案しつつ、卓上に据えられた食糧へ目をやり、腹を満たして温もりを得てから再び任地へ戻らんと心中に決めしかば、温めた食事を求めて食堂に赴かんとす。


 とりあへず硬い麺麭と水で空腹を宥め、外に出て炊事処の料理の仕上がるのを待ちながら海風に身を晒す。


 まずは、この朧な旭光を借りて髪の手入れをする。


 雄鷹たる者を目指し、シュンは髪を整える習慣を身につけんとしていた。


 解き離れた金髪は柔らかく肩へと垂れ落つ。動作には未だぎこちなさが残る。いまは短い髪を簡略に一本に束ぬるのみなれど、いずれ華やぎの翼となる。


 心を込めて後頭部にまとめ、首を高く上げて寝室を後にした。


 廊下は清らかに安然として、昨夜と変わらぬ平穏が広がったような、何事も起こったことない錯覚をおぼえた。


 呆然として歩み、通路を抜けて扉を開く。室外の風は前髪を渦を巻くように舞うほど激しい。半ば開けた扉も吹き飛ばされるほど力強い。


 シュンが手で押さえ支えても、風は隙間より腕を伸ばし、扉をこじ開かんともがいているようだった。それでも暴風雨の際、天空を裂けんとするかのような恐ろしさに及ばない。


 悲鳴を上げる扉の蝶番を救うため、シュンは歯を食いしばって扉を丁寧に閉じた。強風に逆らいながら一歩ずつ前進せしめた。


 目の前の光景が一気に広がった。暴風雨後の雲景は静謐にして美しい。その下に海平面には金色の光が微かに漏れて見えた。


 後ろを顧みれば、海の彼方には霧の合間より月の光が仄かに覗き、とても淡い輝きを放っている。


 この時だとしても甲板通路には誰一人もいないはずがない。シュンは帽子の庇を下げ、歩みを進めるにあたり一瞬身を止めた。


「……この海の静けさは、何かの前触れのような。」


 ドラング大尉が、暗い海を見つめて静かに呟きを漏らした。


 その声は風にかき消されることなく、シュンの耳に届いた。シュンはその憂わしげな言葉に耳を傾け、心はとても同感だ。


 静けさは嵐の後の一時的なものだ。海面は凪だ。けれどもその下には何かが蠢いている。


 さらに潜みいるものは何なのか、自分には全くわからない。訓練で身につけた知識も、この広大な海の前では頼りがない。


 とても痛い悟りだ。


「世紀を経てなほ咲き誇る旋花(つむはな)よ、凋まむを遅らせたまえ。生気満る雛鷹らは、いまや羽を伸べ、貴方の庇護を報いて翔ばんとす。」


 ドラング大尉は独りごちて、ヴォリュビリィス号が進む先を瞳深く見据えた。その言葉は、海上に咲く花に託しし挽歌にして、若い雛鷹らの未来に寄する祈願である。


 海の北方、艦船の斜め前方には、淡い霧ゆるりと棚引く。しかし、ヴォリュビリィス号の未来は、その靄の向こう、未知なる航路へと進むのだ。


「や、早うな。この時間の海は初めて見るのか。」


 もう彼の存在を気づいたドラングは振り返らず、先に挨拶の言葉を出した。


「は、はーい!大尉、おはようございます!」


 掛け声で我に帰るシュンは慌ててうなずいた。彼の勤務は通常、屋内の情報室で行われるものであり、かく屋外に出る機会は稀であった。


「どうだい?朝の景色は美しいだろう。」


 シュンは胸中で千々にうなずきながらも、まだ見ぬ海の広がりに心躍る。


「程なく、水平線あそこを越えれば、ガスホテイが栖息する平らな原に到着する。」


 艦長たるドラング大尉は厳格で硬い顔立ちをしていたが、その声には温厚さがある。


 急にひやりと風が吹きすさぶ。シュンは帽子を掴み、遠くの風景をしっかりと見んと大きく目を開いた。


 空は目に丸く映る。雨に潤んだように光を放る。潮の移ろいとともに波は絶え間なく踊り、不規則な稜線を刻む。海と空は色を分かち難いといえども、水平線と呼ばれる縫い目によって色がかすかに淡み、完全には一続きでないことを微妙に察することが叶えた。


 こっそりと海より暗い潮流が侵食しているかのごとし。


 この交差の中で、淡い背景に濃い影浮かび、島嶼の輪郭がかすかに浮かび上がっていた。


「見えました!あれが翡翠山の群れ島でしょうぅ!」


 シュンの声には興奮が溢れる。それに対し、ドラング大尉は少し驚いたように見え、目は再び海の彼方へ眼を凝る。


「陸地を見出しただと?」


「はいぃ!ほら、左側が丸そうで、尖った山があるよね。そして長く細く、一番大きな島は三つの山ほどの大きさですと!」


 ドラング大尉は思索にふけるように頷いた。


「そうか。君には国神に望まれたほどの珍しい眼力がある。大切に養わねばならぬ。」


 シュンはぼっーと、そして狂喜した。


「ほんとですか!つまりリッパツなおタカになれるってんの?」


「人、皆、立派な大鷹になる可能性を有す。努力は裏切らない最高の仲間だ。」


 シュンはその言葉を理解しきれないまま、うなずいて応えた。そして、ためらいでうすうすと、細い声でたずねた。


「大尉閣下……あっちは、海の果てなのですね?」


 その耳にしたことないほど愚かな発問に、ドラング大尉はつい戸惑った。


 そして猛然と、腹の底より響いたような笑い声を上げた。


 ーー「少年よ!海に果てなど存在しない!大海には豊富な宝が溢れ、無限の宝庫が広がっているのだ!」


 ドラングは哄笑しながら細身の背中を力強く叩き、手で果てしなく広がる海原を示した。


「今より君は無敗タンのために、無尽蔵の宝をもたらし、無敗タンの更なる雛鷹を育て、より良い公民を育成するのだ!」


 シュンはその力筋でバランスを崩し、ほとんど転倒しかけるも、何とか手すり子を掴んで身を支えた。激しい海風が彼を押し倒さんとするが、彼は堅く掴まり、風浪を畏れないドラング大尉の雄姿を目に焼き付く。


「その海は一体どれほどのヒロさがあるのですか?北区よりも大きいのでしょうか?」


 シュンは執拗に問い続け、果てもない新知を自分の理解に当てはめんとしていた。


「北区とな?少年よ、海はその想像を遥かに超える広さだ。無敗タン全体を囲み、世界中のすべての陸地を巡り囲む広さだ。海に果てなぞあらんぞ!」


 この言葉が、雄鷹が海を仰ぎ見るゆゑんなのか。シュンは考えるほどに混乱を深めた。心中に湧き上がる疑問を抑えて、彼は一層声を大きくして再び問いかけた。


「なにユエ海には果てがないんですか?」


 大尉は一瞬沈黙したまま、やがて静かに答えた。


「無敗タンが世紀にわたり前進し続けたからに他ならん。無限な海原はその探求心の象徴であり、終わりない旅路を体現しているのだ。」


 シュンはその言葉にますます理解が追いつかぬまま、心中に渦巻く思索に沈んだ。彼の目は、果てなく海と空の境へ流れゆく。


「雛鷹よ。後君は見張台へ配置替えとならむ。」


 突然の言葉にシュンは驚きを隠せず、困惑を隠しきれぬまま応じた。


「どうしてですか?」


「君の内務はもう十分に習得した。次は自身の強みを磨き、航海士としての技能を学ぶ時が来たのだ。」


 ドラング大尉の声には、厳しさと共に温かな励ましが込められていた。


 認められたと、シュンは任されたものをもらった瞬間、泣くほど嗚咽にゆった。


「はいーっ!頑張ります!」


 大尉はゆっくりと頷き、さらに続けた。


「航海士とは、海の動きや天候を読み取り、船を正しい方向へ導く重要な役割だ。君には、この役目に最適だろう。」


 彼の目には、広大な海とその先に広がる無限の可能性が映し出されていた。


「ありがとうございます!……ありがとうございますぅ!」


「お礼は一回だけでよい。それに、君に任せたほうが得策だ。」


 ドラング大尉は再び海と空を見つめた。


「貴方たちの成長は、ヴォリュビリィス号の未来を左右する。海は多くの秘密と試練が待ち受けている。しかし、恐れることなく前進し続けることだ。そうすれば、必ずや答えは見つかるだろう。」


 シュンは、その目に映り出した太陽を見つめた。しかし長く見続くことはあたわなかった。


 海に向かう、静かに揺れる波間に映し出されていた二人の姿は、朝日の中で絵となった。


 シュンは新たな役割に挑む覚悟を胸に、前を進むために一歩を踏み出した。

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