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無敗伝説  作者: 童堕狼
6/7

一つ目 狗雑種軍勢ト登雲梯その六

 その言葉は鋭く固く、刃物のように空気を切り裂いた。


 シュンは、自身の息が空気の網に絡め取られたような錯覚をおぼえた。


 棚の後ろよりひょっこりと現れたのは、ひとり背の高い少年であった。蒼ざめた気まずげな面差しが陰影より浮かび上がり、やや深い色の瞳が遅れて視界に滑り込んできた。まるで背高の幽霊のごとく見える。


 しかし、いかに恐ろしくとも、シュンの前にはすずらんの尉官が控えていた。その何ごとにも動じない背中にシュンは心の拠り所を見出した。


 果たしてエット少尉は少年の面を見ると、その名を呼んだ。いかに恐ろしい鬼であろうとも、正体を現せば皆もの天涯孤独たるものだ。


「マーケル隊長。」


 さらに冷静な視線を送りながら問いただした。


「確かに君は、倉庫の管理者を任されているはずですね。であれば、なぜこのような時間に、このような場所で隠れておるのか、説明してもらいたいんですが。」


 マーケルは焦るようにちっとも思えない表情を浮かべている、その視線の先にいるのはエットではないかのようだ。むしろ傍観者たるシュンこそ、全ての圧力を一身に受けているように感じた。喉は干上がり、背筋に冷や汗が伝い、心臓が飛び出さんばかりの緊張に支配されていた。


「隠れていたわけではありません。失礼いたします、閣下。受験生が、ここにおりますのは、現下の航海病の多発に対し、対策を練る必要がありますゆえに在庫の確認作業を行っているからです。」


 完璧と言える対応だ。シュンはその内容を完全には理解せずとも理解したようなうなずきだ。


 マーケルは答えたが、その声にはどこか後ろめたさがあった。その回りくどい説明がかえってエット少尉の苛立ちを増幅させた。


「隠れる理由などないはずです。必要あらば、報告すべきでした。」


 そのなじりには情けも憐れみも欠片ほどもなかった。マーケルは反論の糸口すら奪われ、規律の重みに膝を折るほかなかった。


 これぞ航海の掟。


 だが、天を翔ける雛鷹には、その掟は鉄鎖に等しい。


 ーーこれぞ、誰もが認める不文の理。


 沈黙を守るドラングを横目に、マーケルは誰にも届かない青息をそっと吐き出した。


「まことにその通りでございます。隠れているように見えて、報告も怠ったことで誤解を招きました。受験生、ふかく反省しています。このような行動また起こす時には、必ずや、閣下の指示を仰ぐことを徹底いたします。ご指導ありがとうございます。」


 完璧な連続技だとふむふむと何度もうなずいたシュンの一方で、エット少尉は目を細めてさらに執拗に問い質そんとする構えを見せた。


「君の隊員の皆は今、いずこにある?」


「受験生は計算に得意のに加え、必要があるが、それほどの急務ではないため、他のサポートに従事させています。他の同僚十人は、四人炊事処で食材の整理、三人雨水収集処で蒸留水の加工に、残り三人は、船務部隊の作業でサポートです。」


 彼が言い終わるや否や、船艦は再び激しく揺れ動いた。シュンは一時平衡を失い、数歩よろめいて辛うじて身を支えた。


「うわっ!……申し訳ありません!」


 その動揺はあまりに明白だ。微塵も動くことなく、ただ身の上部をわずかに揺らすのみのマーケルのようなスーパールーキーには及ばない。


 ドラング上尉は一瞬シュンに目をやったが、すぐに視線を戻した。一方、エット少尉はなおもマーケルを厳しい目で見つめ続けていた。


 その時、また微かな音が聞こえ、カタンと、拳ほどの大きさの硬い麺麭の塊が壁際より転がり出でた。


「マーケル隊長、あれは何です?」


 エットはマーケルを見やる。彼の表情変わり果て、この情景に相当の動揺を示すのを見た。一時言葉を失い、軽く咳払いをした。


 ドラング上尉は嘆息して傍らの銅壺より蒸留水を汲み取って彼に差し出した。このあまりに容赦ない対質に一旦の幕を引くためだ。


「落ち着け、ゆっくり飲め。」


 穏やかな声が緊張を溶かしていく。


「感謝します、上尉。」


 マーケルは水杯を受け取ってゆるゆると飲み干し、そして胸を押さえて深々と頭を垂れた。


 エット少尉はなおも冷厳なる眼差しで問い続けた。


「これは一体、どういうことなのか。」


 マーケルは思案を巡らせた末、咳を払いながら力のない声で答えた。


「それは、波があまり強くて棚より落ちてしまって、四っつに……なりましたからですっ。」


「もう一度、返答は何ですと?」


 長く黙すことなく、マーケルは身を翻し、麺麭を拾い上げて青息吐息だ。


「……腹が減ったからです。」


「もっと大きな声で言え!」


「腹減ったからです!」


「よろしい。」


 エット少尉は厳したる声で称賛のような言葉を出した。


「……わかるよぉ。その気持ちぃ……オレだってぇ、お腹へったら何だってするぅ……!」


 シュンは思わず口を挟んだ。


 先ほどマーケルが「腹が減ったからです」と答えたとき、シュンはびっくりを隠せなかった。しかし、その気持ちは次第に共感へと変わり、彼は小さくうなずいた。


 もし自分が同じ状況に置かれたら、同じことをしていただろう。そう考えると、マーケルを責める気持ちは消え去っていた。


 マーケルは驚いたようにシュンを見つめ、顔に救われたかのような表情を浮かべた。エット少尉もまた、一時シュンに目を向け、その真摯な眼差しに打たれて言葉を失った。


 冷笑は影をやめたもののその表情なお一抹の怒り含まれていた。しかし、その反応より無力感もおぼえているようだった。


 それでも、叱責は避けられない。


「理解することはいいが、まずは規律を守ることが先決だ。」


 少尉はしばらく沈黙し、二人を見比べた後、溜息をついて言葉を続けた。


「君たちは将来、高貴なる雄鷹とならん者。いかに飢えようとも、無敗の栄光を忘るべからなく。たとえ死が目前に迫っても、信念を貫くことが我々の責任です。」


 マーケルはその厳しい言葉を黙って受け止め、背筋を伸ばしてエット少尉の目をまっすぐに見据えた。


「……はい。」


 しかし、彼の手にはまだ固く握りしめた麺麭の塊があった。その執念深さは、もし戦場での勝利のためであれば称賛に値するでしょう。けれど今の彼は、あたかも最下層の狗雑種のらいぬのように見えた。


「今回の試験に、どれほどの者が応募したか知っておりますか。」


 エット少尉が問いかける。


「はい、五百人でしょうか?」


 マーケルの曖昧な答えに、少尉はゆっくりと首を横に振った。


「公民試験には毎年幾千もの若者が挑み、合格を目指して参ります。五百三十二名の受験生を乗せたヴォリュビリィス号(ネフ)は今は首の狭い銅の器のごとし。孤児も、平民も、一部の貴族までもが、皆が瓶の口より出でんとし、最も勇気ある雛鳥のみが瓶首を突破し得る。その限られた席を手に入れんと切磋琢磨しておるのです。」


 エット少尉の声には熱がこもり、その言葉は心に響いた。


「この一か月で貴方たちに叩き込んだことは、無益ではごさいません。たとえ試験に通らずとも、柔弱な産毛を脱ぎ捨てしめます。その新たに生え揃うものが、天高く舞う羽となるか、ただ長い産毛に留まるか、我ら教官はその篩い分けの代行者なのでございます。」


 少尉の瞳は、まるで水面へ飛ぶ泡のように、輝きを帯びていた。


 しかしその瞬間、マーケルがわずかに居眠りしかけていることにエットは気付いた。視線がマーケルに戻ると、彼は急いで姿勢を正した。


「……真の雄鷹は規則を理解し、狂風怒濤をも乗りこなす術を持つ。最も肝要なる条件は、規律と服従を学ぶことでございます。これは脅しではありません。我らが切望するのです。優れたる雄鷹たることを!」


 ーー「説教はここまでにしよう、エット少尉。」


 その声に一同が振り返った。ドラング大尉のその冷静さと威厳を湛えていた瞳には、誰もが息を呑み、場の空気が一瞬にして変わった。


「この床、君一人できれいにできるか?」


 ドラング大尉はマーケルに向き直り、穏やかな口調で問いかけた。マーケルはしっかりとうなずいた。


「はい。」


「そうか。では、ここをきちんと片付けておけ。私は近くにいるから、何かあれば報告するように。」


 その最後の一言に、シュンは少し戸惑った。マーケルの表情を伺おうと顔を上げたが、エット少尉が机を叩く音に驚かされた。


「……雛鳥、何をぼんやりしておるの?補給品はこれで十分でしょう。」


 エット少尉はすでに癖菜もの塩漬けなど、多くの補給品を手に抱えていた。


「あ、ありがとうございます!」と、シュンは慌てて礼を述べた。


 エット少尉はさらに続けた。


「君も少し食べておけ。栄養のバランスに気をつけてください。」


 そう言うと、マーケルに視線を移した。突然、鼻に差し込む鋭い匂いがマーケルを襲い、その衝撃に思わず顔をしかめた。


「クッセェ!……いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます。」


「教官には逆らわないほうがよかろう。」


「……本当にこれを食べなければいけないんですか?」


 シュンは驚きに打ちのめされた。マーケルがなぜそこまでしてエット少尉に逆らうのか、全くもって理解できない。それどころか、少尉に反抗する彼の勇気に知らず心が震えた。


「さようです!栄養不足で部隊に迷惑をかけるつもりか?隊長として、模範を示せ!」


 幸いにも、マーケルは不満げな顔をしながらも、それ以上反論しなかった。シュンはほっと胸を撫で下ろした。


「でも、本当にマズいんです……」


 マーケルは小声でつぶやき、まだ不満を漏らしていた。


「皆、自分の持ち場に戻れ。」


 シュンやエット少尉たちは指示に従い、その場を後にした。去り際にシュンは心配そうにマーケルを振り返ったが、すぐに倉庫の扉が閉まり、その姿は見えなくなった。


 ドラング大尉と分別したら、通路にはシュンとエット少尉だけだ。静寂が二人を包み、遠くから機械の低い唸り声だけが微かに聞こえてくる。


 シュンはエット少尉の横顔を盗み見た。その険しい表情には、どこか深い考えが垣間見えた。彼は勇気を振り絞って口を開く。


「少尉、マーケルは……大丈夫でしょうか?」


 エット少尉は一瞬立ち止まり、シュンに目を向けた。その水色の瞳には冷静さとともに、わずかな憂いが宿っていた。


「彼自身が乗り越えるべきことだ。我々ができるのは、信じて待つことだけだ。」


 そう言って再び歩き出す。シュンはその背中を見つめながら、困惑とおぼえた。


「いや、さっきから一体なんなんだよ……」


 彼の問いかけに答える者はいない。ただ、遠くで響く機械音が、彼の心の迷いを映し出すかのように響いていた。


「……ジラベならしゅぱっと分かるだろ。寝室に戻ったら聞いてみよっか。」


できれば、毎週お届けできるようになりたいと思っています。


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