一つ目 狗雑種軍勢ト登雲梯その五
医務室までわずかの道のりだった。
距離を置いたことで、ようやく独りきりになれた。
その怪我よりも食事を求める男の態度が、なんとなく不気味に心をざわつかせていた。その異常な様子は、うまく言えないけど、嵐の前触れの風が冷たく肌を撫でるように、不安をかき立てた。
ねちねちと思考に詰まるシュンは、薄暗い廊下で軽やかに澄み渡る足音が耳に入ってふいにはっと我に返った。
それはすずらんのように清雅な音色だったが、心臓に触れるたび激しい鼓動を誘い起こした。
——あの、エット・タシュレイン少尉のことだ。
今は休憩時間であり、夜番の受験生を除けば外には数人の幹部と二人の上官のみ。この刻に、この場にいる者は他になかるべし。どこの馬の骨でもなく、少尉以外にはないということだ。
シュンは胸元をぎゅっと押さえ、身を物陰に沈めた。
かの日、少尉の怒りを買った記憶は鮮やかに甦る。鋭い叱責と冷たい眼差しは、今も彼の心に深く突き刺さっている。同じ過ちを二度と繰り返すべからない。
もしまたやらかしてしまったら、今度はどんな恐ろしい結末が待っているのだろうか。そう思うと身震いを禁じ得ない。息を殺して体を強張らせ、シュンは慎重に足を運んだ。
……見つかってはいけない!絶対に!
足音を抑えんとすれども、内なるくよくよした気持ちが足をまた速めた。急き立つ足取りはすずらんの足音の残響と重なり、医務室の門前にたどり着いた。
そっと扉の取っ手に手をかけた時に慌てて引き戻す。
「くっ……」
エット少尉の厳しい眼差しが再び脳裏を過ぎた。同僚は彼を待っているのに、足は震えて動かない……にっちもさっちも行かない。シュンは両難に陥った。
——「怪我をなされましたか!」
扉の向こうより響き来る少尉の怖い声に、心臓が跳ね上がった。
「……怪我はしておらん。」
落ち着いた声が続き、それはドラング大尉のものである。
かくも静かな夜に二人の指揮官が医務室にて語らうとは。シュンは耳を澄まし、その会話を聞き入れた。
大尉は深い溜息をつきつつ窓外へと静かな瞳を向けていた。その声は低く穏やかにして、さながらやむのなく揺らぐ海面と共鳴せしごとし。
「我が雛鷹たちは航海病に苦しんでいる。先ほど薬庫の確認を済ませて、各室への配布を準備していたところだ。」
その横顔より漂うのは、荒海を前にしても崩れることなく穏やかさと静謐な空気であった。エット少尉は思わず見入るほかなく、知らぬ間にその声もまた柔和なしらべを帯びた。
「……本当にご無事でいらっしゃいますか?」
その疑念は声に滲み出て隠しようもなかった。ドラング大尉は窓外に視線を投じたまま簡潔に答えた。
「二度は言わせんぞ。」
エット少尉の不安はそれでもなお消えなく、心の奥底に燻るように残り続けた。
だが、これ以上話題を続ければ大尉の機嫌を損ねんのみ。彼は渋々話題を変えるほかあたわない。
「それにしても……これらの雛鳥は、あまりにも脆弱でございまし。訓練不足もさることなが……なのか、それとも単に精神が脆いなのか……」
エットの言葉はあまりに率直すぎるきらいがあり、その心の乱れが面出していたが、途中で自らを律した。大尉はそれを聞くと口元に微笑を浮かべた。
「そんなに焦ることはない。私も若い頃は同じだった。足は棒になり、食事すらままならなかった!」
「本当ですか!」
少尉の目が大きく見開かれ、その反応はまるでシュンの胸中を代弁するかのようだった。ドラングは楽しげに笑った。
「もちろん本当だとも!雛鷹は一気に成長するものだ。君もいつかこの日を忘れるのだろう。私自身も忘れかけていたくらいだ。」
彼の視線は遠い過去を遡るかのように光輝だった。
ドラングの笑い声を聞いて、シュンはほっと胸を撫で下ろした。それでもなお、心の奥底にわだかまっていた。
シュンは拳を握りしめた。
「しかし、この嵐が続けば、被験者たちの体力もメンタルも限界に近づきます。補給も日ごとに目減りしております。事態がさらに悪化せば……」
胸中の憎らしさを抑え込みながら、エット少尉は深く息を吸い込み、再び声を張り上げた。
大尉は彼を遮ることなく耳を傾けた。エットの悲観的な推測が声の途上でかすれ、やがて途切れるまで。その目は木壁を貫き、暴風雨の彼方を見据えていた。
「確かに状況は厳しいものだ。しかし、まだ最悪ではない。私たちが先頭に立って導けば雛鷹たちは翼を広げるのだ。私とあなたの使命は、経験と、勇気を語り継ぐ。その未来を支えることだ。」
「……仰せの通りでございます。しかしこのままではヴォリュビリィス号は到底持ち応えられませぬ。艦の至る所が損傷し、特にメインマストの補強が急務でございます、しかし、修理に必要な材木が欠乏しております。海の真ん中で調達せよとは、僭越にも申し上げますが、荒唐無稽にございます!」
エットがここまで言い切ったのはただ現状の急迫性に追い詰められ、大尉の命令を待つばかりで自分が無為に過ごす存在だと感じたのが言葉となって溢れ出しただけだ。
ドラングは低く穏やかな声で答えた。
「確かに、その通りだ。予備の材木はすでに尽きた。だが、何とか代替策を見つけねばならん。」
ドラング大尉の静穏なる言葉にも、エットの胸中の不安は鎮まらなく切羽詰まったような声で問いを重ねた。
「しかし閣下、他の代用となる材料の確保などは、能うのでしょうか?」
「予備の寝台や卓などを解体して、材木として再利用するまでだ。」
「なるほど、そのような手がございましたか。けれどそれでも十分足りるかどうかは……」
「足りない分はロープで補強しよう。帆布や綱を駆使して、応急的にでも耐えられるように工夫するのだ。我ら無敗タンの未来を信じよう。」
ドラング大尉の言葉に、エットは少し希望を見出した。
「承知いたします。」
「それと、食糧の状況はどうか?」
大尉はついでに言うことに、エットは渋面で一息ついて答えるしかない。
「恐れながら、食糧庫に湿気が入り込み、過半の乾麺麭や穀物が損なわれております。残りの食糧はあと三日分が限度でございます。でも、栄養面の保証は可能です」
「そうか……それじゃあ、今のところ至急ではない、ということだな。」
「仰る通りでございます。余剰の人員をマストの修復に充てるべきかと存じますが、大尉のご判断を仰ぎます。」
ドラング大尉はしばし黙考し、やがて口を開いた。
「考えた通りじゃないことも多い。常に備えを怠らんぞ。魚を捕りながら進もう。海には食料が溢れている。工夫すれば、何とかなるはずだ。」
「しかし、荒海での漁は危険ですし、網も破損しております。」
「釣り糸や即席の銛を作ればいい。ロープや釘、ナイフを使えばね。」
エットは何か言いかけたが、大尉はゆるりと振り向き、手を軽く上げて制した。
「心配は無用だ。海には無限の機会がある。我らは必ず、困難を乗り越える。」
その輝きに満ちた眼差しは冷静そのものだった。エットはその目を見つめるうち、自らの瞳にも光が反射しているのを感じ取った。
「はい!」
「では、行こうか。」
ドラングは軽く彼の肩を叩いて再び前に進んだ。その顔には再び微笑が浮かんでいた。
「食糧庫へ向かうのだろう?体調のわるい雛鷹を支援せねばね。」
その言葉は命令にあらず、ただ事実を述べたるのみ。エットは背中に導かれ、歩みを踏み出した。
「はい!」
二人の語らいが終わったこと察した折、扉の外で聞き耳を立てていたシュンは咄嗟にたじろぐ。思わず手が滑り微かな音を立てて取っ手を少し押してしまったのだ。
流れにしたがい、二人の視線が静かなるも鋭く扉へと集まった。
その瞬間シュンの血の気は一気に引いた。扉の隙間より見える二人の上官の姿と視線にシュンは息を呑む。ほんの小さな隙間なのに、身なりはきちんとしているはずなのに、これほどまでにいたたまれないとは。
まるで時間が止まったかのように、深い静寂がその場を包んだ。
彼の心臓は恐怖で激しく脈打ち、すぐにでも逃げ出したかったが、その場に釘付けになって動けない。手は冷たく汗ばんでいて、取っ手を離すことすらできなくただ立ち尽くすしかなかった。
「雛鳥!こんな所で何をしておる!」
もたもたと黙り込む彼にエット少尉はしびれを切らして、扉を勢いよく開け放った。
シュンは必死に答えを探すも何一つも見つからないままだった。それどころかその一喝に驚かされて、震える手足を抑えることもあたわず立っていた。
なだめように手を軽くあげて、ドラング大尉はシュンに話しかけた。
「雛鷹よ。落ち着いて話してくれ。何があったのか?」
その優しい声は暴風雨の中の一筋の安らぎのようだ。一瞬の安心をもたらしたものの現実が胸を締め付け、シュンはまた心が灼けつくようになった。
「わ、私は……何も……!」
シュンは震えてどもるように言った。
「だだっ誰かっか……」と言いかけたが、言葉が喉に詰まって続けられない。
「ゆっくり話してくれ。何が起きたのか、教えてほしい。」
シュンは体をなんとか抑え込み、長く息を吐き出すと、ようやく緊張を克服することが叶った。
「ふん……誰かが!血をドクドクと、ザーザー!ととまんねー!怪我いっぱいで!……航海病でフラフラとたっすい症状に苦しんでいますぅ!食べ物をあげたけどチビチビ、と、食べただけで、ぜんぜん足りなくてぇ!」
滑らかに言うことはあたわぬえど、意味のみがなんとか聞き取られた。
「出血に開放創、脱水、飢餓……迅速な対応が必要だ。報告してくれてありがとう。君の勇気は称賛に値する。今は薬箱で必要なものを揃えて急ぎ向かわねば。」
大尉は考え込むと、的確に状態を分析し、行動を指示した。
何と言うべきか分からないシュンは深く頭を下げた。去らんとしたとき、ドラング大尉が彼を呼び止めた。
「待て。水と食糧を持っていくのを忘れるでないぞ。」
その優しさに触れ、シュンは必死に感謝を表した。
しかし、医務室には非常食の備蓄はなく、食糧はすべて食糧備蓄室に集められ、倉庫管理班が一括して管理している。
元より晨光号が建造された時代には、「医務室」という概念そのものが存在しなかった。大規模な巡洋艦でありながら、百名以上の乗員を収容できる規模を誇るにもかかわらず、現代的清潔で専用の医療空間を備えるという発想自体がなかったのだ。
現在使用されているこの「医務室」も、元は蒸留水などを保管する倉庫、飲水保管室を急遽改装して設けられたものである。今では飲み物と食べ物が同じ倉庫に押し込まれる状態であった。
飲水保管室の施錠札を抜けて廊下を進めば、ほどなくして食糧備蓄室に行き着く。両室は壁を隔てて向かい合う形となっているが、どちらも広大な空間を有するため、その入口同士はかなり離れた位置にある。
そんな廊下を進む途中、ドラング大尉は遠くに食糧庫の扉が開いていることに気づくと、眉間に皺を寄せた。
「なんて警備が手薄になっておるの!」
そう呟いたのは大尉ではなく、行動を急ぐエット少尉であった。
彼は真っ先に足を速めて扉の前に立ち、その厳しい視線で入口周辺を隈無く見渡す。
「エット」と、ドラング大尉は彼を呼び止め、周囲を一度見回し、少尉を追い越して中へと足を踏み入れた。
シュンも続いて庫内に入った。中は静まり返り、艦の構造からくる微かな音だけが漂う。見える範囲に異変はなく、人影もまた皆無である。
誰もいないはずなれど、エット少尉はなおも警戒を怠らない。
すると突然、ドラング大尉が声を荒げた。
「誰だ!」
特定の誰かに宛てたものではありませんが、どなたかに読んでいただけるなら、それだけで意見を伺いたくなる気持ちになります。
物語を細部まで考え抜き、締め切りまでに仕上げることはやはり長続きしない作業ですね。
現実へと逃避、行っちゃおう?