一つ目 狗雑種軍勢ト登雲梯その四
暴風雨はいよいよと激しさを増し、艦体は軋みを上げていた。シュンが目を覚ましたのは、そんな暴風雨の真っ只中だった。
彼の手首には縄の痕がうっすらと残っていた。がみがみと苦情をぶつけた同僚によって荒っぽく解かれた縄は、自由をもたらしたが、その代わりに心へ深い影を投げかけていた。
『お前のせいで連座されかけたぞ!何ゆえ我まで巻き込まれねばなんねぇよ全く、面倒ばっか増やしおって……』
暗い艦室の窓から外を覗くと、黒い海の荒れ狂う波が目に飛び込んできた。
シュンは窓外をじっと眺め、思索に深まっていた。
狂ったように窓を打ち叩く風雨に反して、心は不思議なほど物静かなのだ。
やがて、ジラべは仕事より戻ってきた。一見するとまっすぐに歩いていたのだが、その足取りはどこかふらついているかのように見える。言葉を交わすこともなく、ジラべは自分の寝台に身体を沈める。
「マジ颶風のただ中に人の影を見たんだ。」
シュンが真剣な表情で語ると、ジラべは布団の中で鼻を鳴らし、あたかも相手をする気もないかのような態度だった。
「本当なんだ。あれはただのゴミでも蚊でもない、確かに人の影だぞ。」
窓の外に視線を投じたシュンは、手を伸ばして掴まんとする仕草を見せた。その目は、遠くに見えた何かに焦点を定め続けていた。
「空の中で、ぐるぐると、ふわりふわりと漂っていたんだ。」
ジラべはわずかに頭を傾け、布団の中より掠れるような声を漏らした。
「目、大丈夫?また脳みそどうかしとるんちゃうか。」
その言葉にはいつも通りの皮肉と冷淡さが滲んでいた。
しばし沈黙が流れ、シュンは心中に何度も繰り返し考え抜き、急にピンときた。
「いやっ!なんでいつもオレをおとしめるんだよ!」
声を震わせて詰め寄る。
一瞬だけ、ジラべの表情が動く、驚愕の色が刹那に浮かび、目を曇らせたが、まるで波が引くように、その動揺はすぐに消えてしまう。
「……貶めてるわけじゃない。お前が愚かなだけや。」
肩を軽くすくめ、いつもと変わらない淡々とした声で、さりげなく話を終わらせた。
「まあ、次はもう少し感情を抑えるようにするよ。」
言葉に潜んだわずかな変化は、シュンの耳をすり抜けたまま、彼は冷たく鼻を鳴らして無情に背を向けた。
時の静かな流れの中、ジラべはため息をつくこともなく寝台を離れた。洗面の木盆を抱きかかえ、ゆっくりとした足取りで部屋の外へと歩み去った。
再び戻ってきた折にはシュンは卓に向かいて座っていた。何も騒がずただ静かに、その目には涙が浮かんでいた。
遺書をしたためているのだ。
部屋の中には妙に重たい空気が渦巻き、時間が止まったかのような感覚が心の奥より這い上がってきた。
そして、ジラべはその姿を眇めて胸の奥に何かがぎしぎしと音を立てているようなおぼえだ。面に表情一つ浮かべざりきれどその瞼は一瞬だけ、見たくもない現実を押し殺すかのように閉じた。
「お前、保険入ってるのか?」
話しかけてきてしまった。
シュンは鼻をすすり問いてしまった。まるで言葉がこぼれ落ちるように力のない声だった。
「そんなもん詐欺やん。鷹に保険をかけるなんて誰しもせえへんや。」
目を開けて逃げようのない現実に向き合い、ジラべは淡々と語り出した。
「でもよ!銅貨十枚オレ、払ったぞ!」
シュンはなおも涙を流しながらぼやいた。
「安っ!」
ジラべは派手に驚いた。しかしその表情もすぐに掻き消された。シュンが顔をくしゃくしゃに歪めて号泣を始めたからだ。涙こぼしてしゃくり上げるその姿に、ジラべは次第に眉をひそめていった。
「疲れてるわ。お前の犬吠えを聞かなーかんの?」
そう言い捨て、力が抜けたように寝台に倒れ込んだ。
「は?偉そうに言ったくせに今さら疲れた?オレが黙るの待つなら自分の言い分だってしっかり聞いてくれよ!」
反攻の時至るを察し、シュンは嚆矢として快勝の予告を高らかに放った。
その鋭い叫びも届かない。ジラべはまるで遠い夢の中に沈みしままに微動だにしない。
「どうだい?どうだい?返事しろよ!」
勝ち誇って声を張り上げたシュンだった。しかし、その勝利の余韻は、反応のないジラべの前でむなしく消え去るばかりだった。
「起きろよ!せっかくオレが勝ったんだろうし!」
シュンはさらに揺り動かし、半ば焦れたように言った。されども、ジラべは相変わらず反応を見せず、まるで声が届いていないかのようだ。
もどかしさと苛立ちがシュンの胸を満たし、もう一度の強い声に化けた。
「文句言うなよ!言いワケするなよー!」
返ってくるはただの静寂だった。シュンは優位を手にしたというのに、その喜びも、そして胸の奥に広がる孤独も、共に分かち合うべき相手がいなかった。
「仕事があるだけありがたいと思えよぉぉ!」
涙を堪えるシュンだった。
結果として言葉を呑み込み、しぶしぶ黙り、再び窓の外へと視線を戻す。
「……あれ?いなくなった?ジラべ、いなくなったぉぞ!」
シュンは急に身を乗り出して窓の外を凝視した。数秒前には確かにそこにあった何かが目を逸らした刹那の間に消え失せていた。
「飛蚊症が治ったな。おめでとう。」
ジラべはまどろんだまま目を閉じてかすかに呟いた。
シュンは激怒した。
「飛蚊症じゃなえー」と言ったところ、突然に外より音が響いた。何かが倒れて、木製品が砕け散る響きが耳を打ち、船の揺れをも掻き消さんばかりに重く異様な物音だった。
「ろ、廊下で何かが倒れたぞ!ジラべ、起きろぉよー!」
シュンは立ち上がり、ジラべを揺さぶった。しかし、彼は目を開けようともしない。すでに頭を濡らしたまま深い睡眠に落ちていたように見える。
世界は静まり返っていて、自分の喘鳴しか聞こえないくらいだ。
あんまりにも怖くて、全然長いことじっとしていられないくらいなのだ。
シュンは内心焦りながら涙をぬぐい、急いで外の様子を見にいった。
幸いに、廊下には、ただただ、全身ずぶ濡れのナニカが倒れ伏しているだけだった。周囲に何らの異常をも見当たらず、その黒影だけが静かに横たわっている。
シュンは恐る恐るその人物に近づき、約半メートルの距離まで足をそっと伸ばし、つんつんとつついて確認した。
間違いなくたぶんは人間だ。先立って学んだ脱水症の処置法を思い出して急ぎ部屋に戻ってタオルを取りにいって、ぽんと、その人物の頭上に投げかけた。
まだまだ足りない。そう思って部屋の隣寝台に熟睡する奴のうなじの下に絡まるバスタオルを引き出さんとす。
すると、強烈な力が伝わってきた。手首をがしっと握り込まれた際、腕からはバキッと軋むような鈍い音が響いた。
長い髪が覆い隠し、窓から差し込む月光を遮断していた。その代わりに、灰色光の瞳が冷ややかに見下ろしていた。視線と髪が生む闇が、圧倒的な恐怖を植え付けてくれた。
情けないことに、その視線に壓され、シュンは心まで静止したかように身動きが取れない。
押し付けられた背中や肩からはミシッ、ゴキッと悲鳴に似た音が鳴り響く。
その力は決して弱まらず、むしろ増すごとにさらにねじ伏せてこれ以上に曲げさせんとするものだった。
斯かる屈辱を味わいしは生まれ初めてである。ついに堪忍ならず、シュンは大声出した。
「うわあぁ!死にそうだ!二人が死ぬぞおぉ!」
バスタオルが床にぽとりと落ちた。
ジラべは押さえていた手をゆっくりと緩め、脇に置かれてあった枕を手に取って、そのままバイブレーションを無効にしてそっと顔にしっかり抑え込んだ。
「……っ。今なんや?」
まるで瞼を動かすのさえも施しに感じられるように、先ほど層倍の迫力をもって告げたが、優しく大人しくなるまで待ったのだ。思うままに息を潜めたら、彼は枕を取り除いてみた。
「……廊下で誰かが死にそだぞ!」
「死人?」
目を閉じたまま寝台を降り、身近にあった束帯を落ち着いた手つきで胸元に着けた。
「本当だって!誰か死んでるの!」
シュンは焦りながら、躊躇いがちに震える声を小さくする。
「廊下に人が倒れてる!本当に死んじゃうかもしれないんだ!」
ジラべは眉一つ動かすことなく、ただ無関心にパンツをも整え、扉の方へ向かっていった。
今まさに、廊下の端に倒れていた男の人が、もう意識を取り戻したようだ。
それを見たシュンは張り詰めていた息をふと漏らし、思わず喜びに満ちた声で話しかけた。
「起きたァァ!大丈夫ですか!」
「……まあ。」
男の人はまだ面に濡れたタオルを押しあてたまま、もやもやとした口調で応えた。
薄い月光が、背を向けた彼の背中を照らしていた。その光は柔らかく部屋を包み込み、静かな夜の冷たさを感じさせる。
「これ、君の毛布かい?」
「あ、はい……タオルですが……」
シュンは言いながら視線をタオルに釘付けになっていた。
「濡れちゃってね。」
軽く微笑みを浮かぶ男の人が、タオルを面より外さんとしける。シュンはその瞬間、何か不気味だと感じた。そして、タオルを外した瞬間、鮮烈の赤が目に飛び込んできた。
「はい……いやややや!血だ!ケガをしてるぞ!」
シュンは息を呑んで声を震わせながら叫んだ。
赤い血が点々と滲んでいる。それほど鮮やかな赤は月光に照らされ、一層際立って見ゆる。
「大丈夫です。それより……少しお腹が空いたんですけど。」
微かな笑みを声に宿し、一切の不安が見えないようだ。
シュンは一瞬、その落ち着き払った口調に戸惑いをおぼえた。しかし、白いタオルには鮮やかな血の跡が滲んでいた。それを見たシュンは、焦慮のあまり手を震わせた。
「イム室行きましょう!少し歩けますか?」
彼が狂気じみた問いかけをよそに、ジラべは目を閉じたまま「眠い」と一言だけ呟き、背を向けて部屋に戻った。
「いいんです。寝れば治りますから。」
男の人もジラべに構うことなく、ただ微笑んで穏やかな声で言った。
その変わらない落ち着いた態度にシュンは一瞬言葉を失ったが、気を取り直した。
「……じゃあ、包帯持ってきますよ!」
シュンはそう言い終えると、男の人に背を向けた。そして、急ぐその場を離れ、医務室へと向かった。気づけば、男の人はもうそのまま後ろに残されていた。
疑念が頭を掠めたが、今は包帯や必要な救護用品を多く持って戻らねばならないと考え、その場を急いで離れた。
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