一つ目 狗雑種軍勢ト登雲梯その三
勝手気ままなジラべの態度とは裏腹に、シュンは眼前に連なる試練を跳ね除けんと足掻けども、力及ばぬ苦衷に苛まれていた。
想像をはるかに凌ぐ颶風が真夜中の海を圧倒し、艦腹を噛む巨浪ごとに肋木は悲鳴をあげる。海そのものが怒気を噴き、艦を崩壊寸前へ追いやらんとするかのようであった。
——ここは艦尾楼直下、厚樫の扉に守られた情報室。
幅一尺の小窓が三つ。射し入る稲妻は刃のごとく暗室を裂き、灯火を蒼白に震わせる。狭い舷間に谺するのは、波が肋骨を叩く籠もり音。
幾名かの受験生は轟音に歯を食いしばりつつ連続作業へ没入す。シュンは焦燥を胸底へ沈め、風向板と気圧管を睨んだ。
水銀柱は狂おしく痙攣し、風見針は南南東から東へ跳ね返る。彼は羊皮の航海簿へ数値を刻みつづける。
その一瞬、夜空を裂く閃光。視界が飲み込まれては退く。
筆が険しい線を刻む。痛むまなこを細めながら、シュンはなおも窓硝子の外を鋭く見むけた。
天より下りくる白き奔流。
それは、ただの雷電にあらず。
——「柱」と称するべきものだった。
まさに一柱の巨大な光が、海の真中に届く。
波濤を蒼白に塗り替え、海天を震撼せしむ。
「これはいったい、何事だぇ。天気のせいなんかじゃない。大きなケモノの潜むみてぇ……」
掌に汗滲み、鼓動は荒ぶる。雛鳥は、まことに畏怖を感じた。
情報員として任じられて未だ一週。ようやく自信が芽ぐむる矢先に、千尋の谷へ突き落とされた心地であった。
胸を隔てて響くバッジは雑鳴を吐き、折しも呼吸に驚かされ、ひよひよの手でミュートへ切り替えたその時、扉が音もなく開き、すずらんの尉官が現れた。
閾に佇み、視線をひと巡らせる。汗に濡れ、なお震える少年を見止めるた。
「君、戻って休憩せよ」
沈黙ののち下された命令にもかかわらず、シュンは激しく首を振る。
「キュウケーするわけにはいきません!まだやるべき任務が多いです!必ずお役に立ちます!」
その声は震え、唇も乾ききっている。
エット少尉はただじっと彼を見据え、焦れったくひとつ頷いた。
「けれど、無理はするな」
許しを得たシュンは再び計器へ身を沈め、奔流する数値を追う。さすればわずかながら、不安も遠のく気がした。
室中央、真鍮と水晶のキャビネットに橙色で点滅。
海図卓では三角定規とコンパスが乱れ散り、杯式風速計は空回りした。
「風速……計器が振り切れる!風杯が飛びそうだ!」
受験生がカウンターを見つめながら声を上げた。気流が過剰ゆえ、回転部が値を捉えきれぬらしい。
「手動計測?甲板は地獄だぞ!」
隣席では別の少年が苦い顔をする。手持ちの測器とて、波飛沫に視界を奪われれば値を拾い難い。
「もう三十……いや、毎秒三十五メートルを超えている!正確な値は望み薄です」
グラフを確認し続ける目と、相継ぐ報せを受け止める耳。その狭間で心は複層な思念に絡め取られてゆく。されど冷静さを失うわけにはいかぬと、シュンは己に言い聞かせた。
「こちら情報室。推定風速三十五以上!帆索調整、急いでください!」
『こ…バ…応急…帆装具隊が…』
混線する通信が掠れた。
情報隊長はギョッと動きを止め、一旦確認するため卓に戻った。そしてすぐまだ遠くいってない尉官を足止めにむかう。
「監視を続けて!私がタシュレイン少尉に報告しますぅ!」
外では波なおそそり立ち、怒れる獣の爪が海面を裂いていた。豪雨は視界を奪い、常闇の帷がすべてを呑み込む。
シュンは前肢のごとく掌を制御卓につき、跳ねる心臓を胸郭いっぱいに聴きながら海図の針路へ視線を滑らせる。
どくん、どくん。波浪と心拍が奇妙な斉拍。
硝子筒の水銀は激しく震え、針路線は幾度も書き換えを強いられた。
卓上の羅針環、脇壁の気圧盤――いずれも霧紅の警報灯が荒天の鼓動を模して瞬く。
「……雷電は器物の神の徴、暴風雨はその息吹。無敗タンの平静は、国神の守護に依るなり」
花蕊のそよぐがごとき、ゆるやかにして清き声音は、室内の空気を和ませた。
読点ひとつ、句点ひとつ。音節の間に、室内の緊張はすっと溶けて、雷雨と相克する安らぎを孕む。
言の主は、すずらんの尉官であった。
エット少尉は報を聞くや直ちに情報室へ戻っていた。
「貴方たちのような初羽は、国神の庇護のもと、やがて大きく羽ばたく日が訪れます。大鷹とは冒険そのものです。真の挑戦の前に、その片鱗を味わえることは幸運。全力を尽くせばこそ、貴重な才能も経験も翼となるでしょう」
あまりにも正論かつ美しい響きに、異議を唱える者は一人もいない。
鼓舞された彼らの胸中より、大鷹に相応しい猛きが芽生えた。
シュンはひゅっと息を整え、再び計器へと視線を潜らせた。他の受験生も作業に没入し、潮流や風向の変化を逐一算しつつ、針路修正の是非を探る。
「帆装具隊の報告が正しければ、あと十分で風向が南東に回るやも。……ここで一旦針路を東に振って回避しないと、波に飲まれるぞ!」
海図に定規を当てつつ、震える声が上がる。細やかな角度を計り、艦務部隊へ渡す指示メモを纏め上げる手元は、かたかたと微かに震えた。
「待て、気圧計が急落——読み違えてる!いずれにせよ危険値だ!」
水銀柱の値を殴り書きした紙片が高く掲げられた。その異様な低さは、暴風雨の目がすぐそこまで迫っていることを明確に示していた。
「シュン、艦長室に報告して!」
横合いから飛んだ声に、シュンは伝声管の笛口へ身を寄せて叫ぶ。
「え……こちら情報室!気圧がきゅうに下がっています!ボウフウーの中心に捕えられるかも!急調を急いでください!帆の破損を避けんがため!」
直後、見張り員より疑わしい影を発見するとの通信が届いた。
「長官!不明なる影をはっけん!海賊だァァ!」
シュンは思わず息を呑む。
「海賊?」
エット少尉は、ただ一瞥を与えるのみ答えた。
「このような暴風雨下で行動するは稀ですが、可能性を排除すべきではありません」
シュンの心は一瞬緩んだが、すぐに警戒を取り戻す。
「この混迷を好機とみ、視界不良を突いて奇襲を企む可能性は、なきとは言えん」
エット少尉は震える雛鷹らにわずかながらも心安らかを与え、勇気を授けんとす。
「彼らは常に弱点を抉り、迅速果敢に動く。船脚も軽く、急な転針を厭わぬ。速やかに行動しましょう。注意深く事に当たり、皆ものよ、監視を強化し、些かも警戒を怠るな」
『了解!』
シュンは再び作業へ飛び込む。
情報室の受験生らは、各々の任に没しおる。ある者は海図を広げ、風向と風速細々と記し、またある者は針路を指差し確認す。補助に立つシュンの姿もあり、気圧計にて暴風の遷移を読み取り、予測値を書き起こす者もいた。
室内には、張り詰めた気が満ちていた。
エット少尉は全景を見渡し、一段声を抑えて号した。
「持ち場を死守せよ。眼を光とせよ。備えを極限まで、引き上げよ!」
嵐がいまだ猛りを見せるなか、シュンは怯えを呑み込み、計器へ心を沈めた。
「十五分内、風向は東北へ変換予測です!」
海図に定規をあてる指はかすかに震え、円コンパスがきしりと悲鳴をあげる。刹那ごとに書き換えを余儀なくされ、束ねられた指示メモは、気送管へと押し込まれた。
乾いた密閉音とともに、紙片の束は艦の内奥へと吸い込まれてゆく——目指すは、艦務隊の作戦卓。
決して気を緩めることは許されない。
少尉がギシギシと甲板を駆け上がったとき、受験生らはすでに波濤と格闘していた。帆縄を締め、帆布の張りを改め、艦の横揺れを押さえ込む。
「風上を取れ、舵を二度東へ!帆装具隊は張力を均せ、連携を乱すな!」
濡れた甲板を巡回しながら、少尉は次々と指示を飛ばす。その眼は刃のように冴えわたり、雛鷹らを鋭く貫いた。
やがて刻は過ぎ、風勢は幾許か緩む。波も幾尋か低みへと落ち、隊長は伝声筒の前に腰を据える。結露した管がみちみちと啼き、なお声を通した。
「風速三十より二十台へ減衰!波高もけっこう下がっています!」
直ちに海図は更新され、気圧遷移を追う眼が走り、風向の細変を記し艦務へ流す。すべて、艦を生かすため。
エット少尉は情報室に戻るや、濡れた袖を払い、すかさず通信盤へ手を伸ばした。
『エット、損傷状況を報告せよ』
ドラング大尉の沈着な声音が管を震わせ、室内に鋼の芯を通す。シュンもその響きに胸の高鳴りが収まるをおぼえた。
「艦体、局所に亀裂あれど致命傷にあらず。主帆は大破いたしましたが、結索にて再使用可。負傷者は数名、医療班が処置中にございます」
エット少尉は手短かに現況を伝えた。
『……ご苦労』
短い応答ののち、大尉は艦内放送へ切り替える。
『帆の修復を最優先。帆装具隊直ちに作業に移れ。砲撃隊は手を貸せ。情報隊は高所作業の補助に回れ。艦工隊は艦体亀裂の補修開始』
通信を切るや否や、エット少尉は再度通信機を取る。
「閣下、艦尾に浸水が確認されております。排水ポンプ班の対応指示を賜りたく存じます。」
『……ええ。艦務部隊も全力で排水にあたれ。安定が戻るまで気を抜くな。エット、工程管理を任せたぞ』
『了解です!』
「⋯⋯了解いたします」
通信を終えた少尉はシュンのそばへ歩み寄り、その肩を軽く叩く。伝声筒を切れ、その声をやや潜めた。
「君はそろそろ休むべき頃合いです」
すずらんを思わす柔和な調子。しかしシュンは首を振りきっぱり拒む。
「ダメです!補助にまわらないと……ひっ、ひぃっ?」
足を踏み出そうもしないのに、足許がもつれシュンは前のめりに倒れ込んだ。
「うわっ!」
まるで誰かに足を掬われたようである。
驚きの声を上げるシュンを見やり、彼は低い声で呟く。
「黙れ」
硬い靴底が背に重くのしかかり、冷える声が追い打ちをかける。
「教官に逆らうなと叩き込まれなかったですか」
シュンは、ようやく周囲の空気すら凍るのをおぼえた。
足の下に伏す者は、屍のごとく静まり返る。エット足を退け、鋭く室内を見回す。
そこへ休憩から戻った受験生が扉を開け、この光景を目にして喫驚しているばかり、動きを止めた。
「扉は長く開くな、と申したはずですが」
淡い一瞥で十分。受験生は慌てて扉を閉ざし姿を消す。
しばし黙し、エット少尉は拳を唇にあて、軽く咳をひとつ。
「諸君、二度と言い含める必要はなかろう。各自、体調管理に注意。任務の精度を損なわないように」
『は、はい!』
扉の外に立ち尽くす者は、如何にすべきかと迷った。性命と使命とを天秤にかけ、よくも勇気を振り絞りて、再び扉を叩かんとす。
キイィ――軋む蝶番、再び少尉の面が覗く。さらに真正面だ。
「少々、頼みことが」
叱責を覚悟していた彼の耳に、意外な柔和が届く。
無表情のまま発せられたその言葉に、事情を問うこともなく、受験生は胸を撫で下ろし、「は、はいっ!」と応じた。
「同僚を寝室へ運び、休ませてやれ」