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無敗伝説  作者: 童堕狼
3/7

一つ目 狗雑種軍勢ト登雲梯その三

 勝手気ままなジラべの態度とは裏腹に、シュンは眼前に連なる試練を跳ね除けんと足掻けども、力及ばぬ苦衷に苛まれていた。


 想像をはるかに凌ぐ颶風(ぐふう)が真夜中の海を圧倒し、艦腹を噛む巨浪ごとに肋木(ろくぼく)は悲鳴をあげる。海そのものが怒気を噴き、艦を崩壊寸前へ追いやらんとするかのようであった。


 ——ここは艦尾楼直下、厚樫(あつがし)の扉に守られた情報室。


 幅一尺の小窓が三つ。射し入る稲妻は刃のごとく暗室を裂き、灯火を蒼白に震わせる。狭い舷間(げんかん)に谺するのは、波が肋骨を叩く籠もり音。


 幾名かの受験生は轟音に歯を食いしばりつつ連続作業へ没入す。シュンは焦燥を胸底へ沈め、風向板と気圧管を睨んだ。


 水銀柱は狂おしく痙攣し、風見針は南南東から東へ跳ね返る。彼は羊皮の航海簿へ数値を刻みつづける。


 その一瞬、夜空を裂く閃光。視界が飲み込まれては退く。


 筆が険しい線を刻む。痛むまなこを細めながら、シュンはなおも窓硝子の外を鋭く見むけた。


 天より下りくる白き奔流。


 それは、ただの雷電にあらず。


 ——「柱」と称するべきものだった。


 まさに一柱の巨大な光が、海の真中に届く。


 波濤を蒼白に塗り替え、海天を震撼せしむ。


「これはいったい、何事だぇ。天気のせいなんかじゃない。大きなケモノの潜むみてぇ……」


 掌に汗滲み、鼓動は荒ぶる。雛鳥は、まことに畏怖を感じた。


 情報員として任じられて未だ一週。ようやく自信が芽ぐむる矢先に、千尋の谷へ突き落とされた心地であった。


 胸を隔てて響くバッジは雑鳴(ざつめい)を吐き、折しも呼吸に驚かされ、ひよひよの手でミュートへ切り替えたその時、扉が音もなく開き、すずらんの尉官が現れた。


 閾に佇み、視線をひと巡らせる。汗に濡れ、なお震える少年を見止めるた。


「君、戻って休憩せよ」


 沈黙ののち下された命令にもかかわらず、シュンは激しく首を振る。


「キュウケーするわけにはいきません!まだやるべき任務が多いです!必ずお役に立ちます!」


 その声は震え、唇も乾ききっている。


 エット少尉はただじっと彼を見据え、焦れったくひとつ頷いた。


「けれど、無理はするな」


 許しを得たシュンは再び計器へ身を沈め、奔流する数値を追う。さすればわずかながら、不安も遠のく気がした。


 室中央、真鍮と水晶のキャビネットに橙色で点滅。


 海図卓では三角定規とコンパスが乱れ散り、杯式風速計は空回りした。


「風速……計器が振り切れる!風杯が飛びそうだ!」


 受験生がカウンターを見つめながら声を上げた。気流が過剰ゆえ、回転部が値を捉えきれぬらしい。


「手動計測?甲板は地獄だぞ!」


 隣席では別の少年が苦い顔をする。手持ちの測器とて、波飛沫に視界を奪われれば値を拾い難い。


「もう三十……いや、毎秒三十五メートルを超えている!正確な値は望み薄です」


 グラフを確認し続ける目と、相継ぐ報せを受け止める耳。その狭間で心は複層な思念に絡め取られてゆく。されど冷静さを失うわけにはいかぬと、シュンは己に言い聞かせた。


「こちら情報室。推定風速三十五以上!帆索調整、急いでください!」


 『こ…バ…応急…帆装具隊が…』


 混線する通信が掠れた。


 情報隊長はギョッと動きを止め、一旦確認するため卓に戻った。そしてすぐまだ遠くいってない尉官を足止めにむかう。


「監視を続けて!私がタシュレイン少尉に報告しますぅ!」


 外では波なおそそり立ち、怒れる獣の爪が海面を裂いていた。豪雨は視界を奪い、常闇の帷がすべてを呑み込む。


 シュンは前肢(まえあし)のごとく掌を制御卓につき、跳ねる心臓を胸郭(きょうかく)いっぱいに聴きながら海図の針路へ視線を滑らせる。


 どくん、どくん。波浪と心拍が奇妙な斉拍(せいはく)


 硝子筒の水銀は激しく震え、針路線は幾度も書き換えを強いられた。


 卓上の羅針環、脇壁の気圧盤――いずれも霧紅(むこう)の警報灯が荒天の鼓動を模して瞬く。


「……雷電は器物の神の(しるし)、暴風雨はその息吹。無敗タンの平静は、国神の守護に依るなり」


 花蕊(かずい)のそよぐがごとき、ゆるやかにして清き声音は、室内の空気を和ませた。


 読点ひとつ、句点ひとつ。音節の間に、室内の緊張はすっと溶けて、雷雨と相克(そうこく)する安らぎを孕む。


 言の主は、すずらんの尉官であった。


 エット少尉は報を聞くや直ちに情報室へ戻っていた。


「貴方たちのような初羽(ういは)は、国神の庇護のもと、やがて大きく羽ばたく日が訪れます。大鷹とは冒険そのものです。真の挑戦の前に、その片鱗を味わえることは幸運。全力を尽くせばこそ、貴重な才能も経験も翼となるでしょう」


 あまりにも正論かつ美しい響きに、異議を唱える者は一人もいない。


 鼓舞された彼らの胸中より、大鷹に相応しい猛きが芽生えた。


 シュンはひゅっと息を整え、再び計器へと視線を潜らせた。他の受験生も作業に没入し、潮流や風向の変化を逐一算しつつ、針路修正の是非を探る。


「帆装具隊の報告が正しければ、あと十分で風向が南東に回るやも。……ここで一旦針路を東に振って回避しないと、波に飲まれるぞ!」


 海図に定規を当てつつ、震える声が上がる。細やかな角度を計り、艦務部隊へ渡す指示メモを纏め上げる手元は、かたかたと微かに震えた。


「待て、気圧計が急落——読み違えてる!いずれにせよ危険値だ!」


 水銀柱の値を殴り書きした紙片が高く掲げられた。その異様な低さは、暴風雨の目がすぐそこまで迫っていることを明確に示していた。


「シュン、艦長室に報告して!」


 横合いから飛んだ声に、シュンは伝声管の笛口へ身を寄せて叫ぶ。


「え……こちら情報室!気圧がきゅうに下がっています!ボウフウーの中心に捕えられるかも!急調を急いでください!帆の破損を避けんがため!」


 直後、見張り員より疑わしい影を発見するとの通信が届いた。


「長官!不明なる影をはっけん!海賊だァァ!」


 シュンは思わず息を呑む。


「海賊?」


 エット少尉は、ただ一瞥を与えるのみ答えた。


「このような暴風雨下で行動するは稀ですが、可能性を排除すべきではありません」


 シュンの心は一瞬緩んだが、すぐに警戒を取り戻す。


「この混迷を好機とみ、視界不良を突いて奇襲を企む可能性は、なきとは言えん」


 エット少尉は震える雛鷹らにわずかながらも心安らかを与え、勇気を授けんとす。


「彼らは常に弱点を抉り、迅速果敢に動く。船脚も軽く、急な転針を厭わぬ。速やかに行動しましょう。注意深く事に当たり、皆ものよ、監視を強化し、些かも警戒を怠るな」


『了解!』


 シュンは再び作業へ飛び込む。


 情報室の受験生らは、各々の任に没しおる。ある者は海図を広げ、風向と風速細々と記し、またある者は針路を指差し確認す。補助に立つシュンの姿もあり、気圧計にて暴風の遷移を読み取り、予測値を書き起こす者もいた。


 室内には、張り詰めた気が満ちていた。


 エット少尉は全景を見渡し、一段声を抑えて号した。


「持ち場を死守せよ。眼を光とせよ。備えを極限まで、引き上げよ!」


 嵐がいまだ猛りを見せるなか、シュンは怯えを呑み込み、計器へ心を沈めた。


「十五分内、風向は東北へ変換予測です!」


 海図に定規をあてる指はかすかに震え、円コンパスがきしりと悲鳴をあげる。刹那ごとに書き換えを余儀なくされ、束ねられた指示メモは、気送管へと押し込まれた。


 乾いた密閉音とともに、紙片の束は艦の内奥へと吸い込まれてゆく——目指すは、艦務隊の作戦卓。


 決して気を緩めることは許されない。


 少尉がギシギシと甲板を駆け上がったとき、受験生らはすでに波濤と格闘していた。帆縄を締め、帆布の張りを改め、艦の横揺れを押さえ込む。


「風上を取れ、舵を二度東へ!帆装具隊は張力を均せ、連携を乱すな!」


 濡れた甲板を巡回しながら、少尉は次々と指示を飛ばす。その眼は刃のように冴えわたり、雛鷹らを鋭く貫いた。


 やがて刻は過ぎ、風勢は幾許か緩む。波も幾尋(いくひろ)か低みへと落ち、隊長は伝声筒の前に腰を据える。結露した管がみちみちと啼き、なお声を通した。


「風速三十より二十台へ減衰!波高もけっこう下がっています!」


 直ちに海図は更新され、気圧遷移を追う眼が走り、風向の細変を記し艦務へ流す。すべて、艦を生かすため。


 エット少尉は情報室に戻るや、濡れた袖を払い、すかさず通信盤へ手を伸ばした。


『エット、損傷状況を報告せよ』


 ドラング大尉の沈着な声音が管を震わせ、室内に鋼の芯を通す。シュンもその響きに胸の高鳴りが収まるをおぼえた。


「艦体、局所に亀裂あれど致命傷にあらず。主帆は大破いたしましたが、結索にて再使用可。負傷者は数名、医療班が処置中にございます」


 エット少尉は手短かに現況を伝えた。


『……ご苦労』


 短い応答ののち、大尉は艦内放送へ切り替える。


『帆の修復を最優先。帆装具隊直ちに作業に移れ。砲撃隊は手を貸せ。情報隊は高所作業の補助に回れ。艦工隊は艦体亀裂の補修開始』


 通信を切るや否や、エット少尉は再度通信機を取る。


「閣下、艦尾(かんび)に浸水が確認されております。排水ポンプ班の対応指示を賜りたく存じます。」


『……ええ。艦務部隊も全力で排水にあたれ。安定が戻るまで気を抜くな。エット、工程管理を任せたぞ』


『了解です!』


「⋯⋯了解いたします」


 通信を終えた少尉はシュンのそばへ歩み寄り、その肩を軽く叩く。伝声筒を切れ、その声をやや潜めた。


「君はそろそろ休むべき頃合いです」


 すずらんを思わす柔和な調子。しかしシュンは首を振りきっぱり拒む。


「ダメです!補助にまわらないと……ひっ、ひぃっ?」


 足を踏み出そうもしないのに、足許がもつれシュンは前のめりに倒れ込んだ。


「うわっ!」


 まるで誰かに足を掬われたようである。


 驚きの声を上げるシュンを見やり、彼は低い声で呟く。


「黙れ」


 硬い靴底が背に重くのしかかり、冷える声が追い打ちをかける。


「教官に逆らうなと叩き込まれなかったですか」


 シュンは、ようやく周囲の空気すら凍るのをおぼえた。


 足の下に伏す者は、屍のごとく静まり返る。エット足を退け、鋭く室内を見回す。


 そこへ休憩から戻った受験生が扉を開け、この光景を目にして喫驚しているばかり、動きを止めた。


「扉は長く開くな、と申したはずですが」


 淡い一瞥で十分。受験生は慌てて扉を閉ざし姿を消す。


 しばし黙し、エット少尉は拳を唇にあて、軽く咳をひとつ。


「諸君、二度と言い含める必要はなかろう。各自、体調管理に注意。任務の精度を損なわないように」


『は、はい!』


 扉の外に立ち尽くす者は、如何にすべきかと迷った。性命と使命とを天秤にかけ、よくも勇気を振り絞りて、再び扉を叩かんとす。


 キイィ――軋む蝶番、再び少尉の面が覗く。さらに真正面だ。


「少々、頼みことが」


 叱責を覚悟していた彼の耳に、意外な柔和が届く。


 無表情のまま発せられたその言葉に、事情を問うこともなく、受験生は胸を撫で下ろし、「は、はいっ!」と応じた。


「同僚を寝室へ運び、休ませてやれ」

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