一つ目 狗雑種軍勢ト登雲梯その一
お久しぶりです。連載と言いつつ、実際のところ「断載」のような状況になってしまいましたが、引き続き断続的に執筆を続けております。
作者の脳成分をお読みいただき、誠にありがとうございます。もしも読みにくい箇所や違和感のある設定がございましたら、ご遠慮なくコメントにてご指摘いただけますと幸いです。
あくまで趣味としての活動ゆえ、これからもマイペースに進めてまいります。どうぞ引き続きよろしくお願いいたします。
コトン。
音を立てて床へと、硝子瓶は堕ちた。
ごろりと転がり、じわりと滲みいずる墨液は床板の継ぎ目を染めてゆく。
しんと静まり返る艦室にて、その場に佇む二人の心は、千年を経たんと変わらぬ海のようにたゆたっていた。
髭を蓄えた主導者は、方正な顔立ちに鋭い眼光を持ち、峙つ濃眉に、内に秘む厳しさは巌のごとく、その佇まいに風格が自ずと滲む。
傍らに立つ青年は、時折、舷の小窓へと視線を逸らしている。
遠く彼方に、重く垂れ込む灰色の天空が目に映る。黒く沈みゆく海と、境をなさぬ曖昧な影が絡み合う。
「エット・タシュレイン」
その名が落ちる。
主導者は手に持っていた板のモノを下ろし、ふかい灰青色の目で青年を見据えた。
エットははっと視線を戻し、姿勢を正して応じる。
「はい、謹んで拝命いたします!エモン・ドラング大尉!」
ドラング大尉は何か言いかけたものの、その思いを留めた。
「……報告を続けたまえ」
「畏まりました。シニヤーロサ号よりの最後の通信に依ればと、プレーミ艦長は既に暴風雨を突破、西南の巳鼠壬の島へと方角一致でごさいます」
報告を進める途中で、言葉を詰まらせ、思わず声を落とす。
「……やつらはヴォリュビリィス号を知りながらなお加速をつづけやがって……!」
——拳が重く卓を叩きつけた。
衝撃音が艦室に鳴り響き、卓上の紙束が勢いよく散らばった。
言葉を飲み込んだエットは、上司の表情をまともに直視することにあたわない。
「……エット。君は冷静さに欠けているぞ」
手で顔を覆い、ドラング大尉は深く息を吐いた。その吐息は艦室の静寂に沈む。
トーンッ、トーンッと。卓を叩きながら、苦境を打ち破る策を思案しつつ、あらゆる可能性を考慮するなかで、まず、言辞に注意を払わざるを得なかった。
「はっ……!申し訳ございません!」
エットは頭を垂れて沈黙した。
片時過ぎれば、ドラング大尉は首を振りながら苦笑する。
「……実に峻嚴だ」
この言葉は、彪炳たる戦功を持つ者からしてもなお重みを持つ。
ドラング大尉はこれまで、狂瀾怒涛や死滅に迫る電閃雷鳴を幾多となく凌ぎ、その手腕を高く評価されてきた。
凱旋の折には、すぐさま戦神議会から管理権を委任され、この度の精鋭選抜試験を任されたのだが、出航早々、突発事態が彼らの艦を襲った。
熱気を帯びて吹き続けていた東風が、突如としてやみ、海流が異常をきたしたせいで、ヴォリュビリィス号はシニヤーロサ号とはぐれ、さらに暴風雨の脅威さえ迫っていた。
しかもヴォリュビリィス号は巡洋艦とはいえ、改装されたネフの名残で、今も主な動力源は風力に頼っている。
百年前には最先端と称えた装備も、今や時代遅れでほとんど役に立たない。それを補うのは指揮官の実力次第だが、艦上には震える寝禿げの鷹雛しかおらぬのが現実だった。
そこへ天災と人禍が重なるとなれば、最悪の三重苦。
このヴォリュビリィス号は、果たして目前の災禍を克服……て、疑問の余地か。
「こんな災害に見舞われるとは……未だ飛び立つことのない鷹雛たちよ、まさか今、我らとともに滅ぶ道を歩むことになるのか」
心の裡にては、上層部の澱む気配を感じながらも、逆らう術は、ついぞ授かることなく。
まるで自由を甘いエサに仕立て、巧みに誘い込んでは永遠の牢獄へ導くかのような、狡猾な支配だった。
若き才気溢れる鷹雛の姿を見るたび、ドラングは心痛と同時に深い後悔が込み上げる。もし私心さえなければ、彼らをこんな境遇へ巻き込むこともなかったかもしれない。
もし、あれを受け入れていれば……
「無垢なる彼らを巻き込んだ責任の漆黒は、私に圧し掛かり…… 星々の泡立つ海に、 未熟なる希望の双眸を凝らす、若き芽たち。 ああ、無敗タンの無垢なる幼獣よ!」
悲劇にも似た詩作だ。
死寂の沈黙のなか、金髪の青年は息を呑み、視線をそむける。卓上の文面を一瞥することさえできず、読むどころでもない。
高貴なる土壌に育まれ、すずらんのように開かれた才能、その生まれ性は果敢かつ剛烈のエット。けれど今は、自由を奪われた鳥のように、空を仰ぐことすら躊躇うばかり。
胸に閉じ込めた感情が、彼本来の判断を鈍らせている。翼を剪り落とされた身では、果たして無敗タンの助けとなるのか、確信を抱き得ないのだ。
雑念を振り払うように、ドラング大尉は顔を半ば覆い、ふかく目を閉じた。
エットは黙々と散らばった書面を拾い集め、卓上に差し出す。
わずかに目を上げたドラング大尉の視線は、ふと一通の紙に目を留めた。
『東区第二街道菓子屋、こんにちは:
これは、今はシュンという男が残した遣書です。
この手紙をだれが読むか分かりませんが、あなたにおねがいします。この手紙をアレンにはたしてください。海で死んだ後、私にはこの遣書だけがのこるです。どうか、おねがいします。ありがとうございます。
あなたがこの手紙を目ている時、私はもう死んでしまうはずです。試験は本当にむずかしかったです。失敗してごめんなさい。試馬に参加した試 者等は、糞国の地でなくなり、魚の餌になりぬ。わたしの飾りをみんなにわたせなかったことがざんねんです。死んでもずっと躰につけていたいと思います。本当にもうしわけありません。
天国に行っても、私はあなたたちはなれません。天からずっと見まもっています。後ろからあなたたちをずっと見てて、幸運を祈ります。
私をわすれないでください。さもなくは、本当に悲しくなります。
シュン=吾兒吾愛
敬具』
一見は染みに見ゆれど、読めば清水のように澄んだ文字であった。
眉間にしわを刻み、ドラング大尉は苦渋の息をついた。
「いかに思う?」
「これは……ご指示に従い、被験者が提出した成果物でございます」
その返答に、ドラングはとくに驚いた素振りもない。
今のエットは、飛べなくなった白鳩だ。その羽は恐れと慎重さで絡め取られ、空を目指す術を失った。正しさに縋るその姿は、美しくも儚い彫像のようだ。正しいか否かはもはや問題ではない、彼は戦うことも飛ぶことも叶わぬ鳩になったのだ。
しかし、この成鳥を再び天空へ返したい。その思いが、ドラング大尉の胸の奥で確かに根を張っている。
「そんな猫の目で見てもわかる情報はいらん。私が聞きたいのは、お前自身の意見だ」
不意を突かれたエットは、一瞬戸惑いつつも、冷静な口調を崩さず分析を述べはじめる。
「この遣書の良いところは、真摯な感情でございます。精魂を込めて書かれた文章からは、強い自由への渇仰がうかがえます。まさに飛鷹のごとく気高さを備えております」
ドラングがしじまに聞いているのを見て、エットはさらに滑らかに言葉を継いだ。
「ですが、礼節の面ではまだ修練を要します。誤字などは本来、注意深く写せば回避するはず。細部において、幾つか課題が見受けられます。例えばこちらの遣書の表記ですが——」
「私はそんな答えを求めているのではない!」
ドラングの低く鋭い叱咤を浴びるや、彼の言葉はその場で途切れ、身を縮めて黙り込んだ。
しかし、なぜ自分の答えが誤りとされるのか、エットには理解にあたわない。
「ただの課題ではない。死を目前にした、最後の心の叫びなのだ!この鷹雛たちの運命は、そんな浅い批評で語り尽くせると思うか!」
大尉はなおも心を閉ざすエットの生き様を見据え、断固たる決意をふかめた。
その鎖を断ち切るために。
ドラング大尉の言葉は、彼の胸をふかく突き刺した。
「君の正直な考えを聞きたい。良いも悪いも、率直にそのココロで語ってくれ!」
まさか尊敬するドラング大尉から、こんな要求を突きつけられるとは思いもせず、驚愕によりしばし言葉を失った。
「申せ。思考を解放するのだ、エット!」
唇を震わせ、ふかく息をついてから、エットは再び手紙に視線を落とした。
「……はい。このけ……コホン。この文面全体には、どうしようもない悲壮な感情が表れております。不揃いな筆跡ですが、この者は将来、必ずや、憂国の志士となることでしょう。私には、そのように感じております」
わずかでも、湧き上がる感情をそのまま言葉として紡いだ。
乾ききった言葉を終えると、エットは頭を垂れて大尉の反応を恐れるように視線を下げた。
ドラング大尉はその答えに、無力感と悲しみを覚えた。
「……然り。実に悲しい……この鷹雛たちが、かくも軽々しく篩い落とされるとは、いかばかり心痛きことぉー!断じて優れた飛鷹の材なのに!」
次第に激高した声で詠みいで、ドラング大尉は手を軽く書面に置く。
「たとえ僅かな希望しかなくとも、我らは全力を尽くし、道を切り開ける。帰還の暁には、この遣書をありのままに鷹雛らに返すのだ。一枚も欠けぬように、全てを」
と、そう誓言した。
エットは慎みふかく姿勢を正し、指示を待つ。
「各隊長に会議の通達を」
一礼を終えると、そそくさと通信設備の準備に取りかかるエットの背を見送りながら、大尉は窓の外へ目をやった。
つい先刻までの青空は、いつの間にか厚い雨雲に覆われている。大風がうねり始め、確かに暴風雨の足音が近づいていた。
灰色の聖獣が爪を立てた。これは国神の注視の下で行わるる試練。
彼に為し得ることといえば、ただ罪を悔い、鷹雛たちが国神の御許にて庇護を受け、貴き才能を携えて帰還することを願うのみ。
されど、その祈りすら、あるいは不要かもしれぬ。会議の映像が繋がるや、そこに映る者すべての瞳に、天災をも恐れぬ気概が宿っていたのだから。
まさしく優れた特性だった。
「飛鷹たる諸君、若き蒼鷹たちよ。我らは今、重大な危機の淵に立っている……貴方たちを激励せんとしたが、目の前では、長物となったようだ」
映像に映る皆の顔を巡り、その中に確かな希望を見出していた。
「エット少尉の伝えたように、我らはシニヤーロサ号と失散、状況もまた峻厳。しかし、飛鷹の宝たる貴方たちがいる限り、我らは決して、諦めてはならん!」
視線はまだ震えれど、羽翼はまだ未熟なれど、目の奥には大鷹の意志が灯っている。無敗タンの未来はかくも明るく輝く。
「今より、冷静沈着に各隊、指示に従い行動せよ。必ずや、かの暴風雨を乗り越へん!」
ドラングの胸には、感動と安らぎが満ちる。
全員が一斉に敬礼。
会議が始まった。
暴風雨は刻一刻と迫り来る。窓の外では遠くで風が唸りを上げ、厚くふかき影を天に落とし込んでいた。
まるで天と地が反転するような混沌が広がっていた。
どうぞ引き続きよろしくお願いいたします。