後編
俺は、知らず知らずのうちに自惚れてたんだろう。
奇跡を呼ぶ男だと持て囃されて、どんな難病、奇病、呪いであっても、たちどころに治すことができる、だなんて。
だが、どんな名医だろうと全ての病気を治すことは不可能だ。
ましてや、それが呪いとなれば。
俺が知る限り、世の中で呪いと言われているものは3種類に分けられる。
未知の病気と、脳の誤作動と、あとなんかよくわからん説明のつかない現象だ。
今回の件は、3番目だったってことなんだろう。
きっと。
多分。
「ええと……では、あなたはもう20年近く井戸ってことですか」
「ええ、ええ。幼い頃、魔女に悪戯したら呪われてしまいましてね。それからずっと、ここで井戸やっとります」
俺は、自分の脳の一部が正常に働いてないことをぼんやりと感じながら、医者として患者を問診していた。
みなまで言うな。
なんだかもう、あまり難しいことは考えたくないんだ。
「では、その呪いを解いてほしいということですか」
「いーえいーえ、それはもういいんですよ。なんせ呪われてから20年ですからねえ。今更、井戸男ではなくただの男としてなんて、どうやって生きたらいいかわかりませんよ。はっはっは」
いいのかよ。
「まあ、お兄さまったら。面白い井戸ジョークですこと」
どこらへんが面白かったんだ?
それはともかく。
こうして問診している間ずっと、俺は視界の端に気になるものを捉えていた。
俺たちと一緒に裏庭にやって来た、使用人の存在だ。
彼女は、両手に抱えるほどの大きな籠を持っていた。
その中には、極悪な甘さと思われる焼菓子が山のように盛られている。
焼菓子には溶かし砂糖の層が厚く塗り固められ、その上からこれでもかと粉砂糖がまぶされていた。
見ているだけで胸焼けしそうだ。
使用人はその焼菓子をトングで掴み、次々と井戸の釣瓶籠に放り込んでいた。
どういう仕掛けかわからねえが、どれだけ焼菓子を放り込まれても釣瓶籠はいっぱいにならず、異次元に吸い込まれているかのように消えていく。
なんなんだこりゃ。
「あの、ところでそれは……」
どうにも気になって、俺の方から聞いてみた。
「おやおや、これは失敬。実は私は甘いものに目がなくてですね。ま、井戸なんで目はないんですが。あっはっは!」
「まあ、お兄さまったら。小粋な井戸ジョークですわ!」
どうやらあれは井戸男のおやつだったらしい。
ということは、釣瓶籠が井戸男の口なのだろうか。
井戸だから目はないのに、口はあるのか。
よくわからん。
「あっはっは、実を言えば、目がなくても見えてはいるんですよ。ただ、最近は井戸が板についてきたからでしょうかねえ。だんだん見えづらくなってきまして。おっと、それより我が家の菓子職人自慢の、地獄のような甘さの焼菓子、おひとついかがです?」
「いえ、結構です」
地獄のような甘さの焼菓子を山のように消費する、喋る井戸……と、会話する俺。
ある意味、この絵面が既に地獄だ。
「お兄さまったら、井戸になる前からしょっちゅう甘いものばかり召し上がって。ろくにお食事もされませんでしたものね」
「私にとっては、甘くないものなんて口に入れる価値もないよ。あ、今は井戸だから口はないんですけどね、あっはっは! 小粋な井戸ジョークですよ!」
釣瓶籠は口じゃないのか。
井戸男の身体構造がどうなってるのか気になるところだが、取り敢えず今は置いておこう。
「それでは、何にお困りなんでしょうか。妹さんからは、呪われているのではないかと相談を受けたのですが」
「あーはいはいはい。そうなんですよ、困ってるんですよ。なにせ私、この家の嫡男で、今や立派な井戸でしょう? なのに、このままでは仕事に支障が出てしまいましてね」
確かに、やや古ぼけて端々が欠けてしまってはいるが、大きくて立派な井戸だ。
そういうことを言ってるんじゃない気もするが、そこはあえて無視した。
「……なるほど。ところで、お仕事は何を?」
「あっはっは! いやだなあ、井戸の仕事なんて1つしかないでしょう。ねえ」
「そうですわ。お兄さまが呪われたままでは、わたくしたちも困ってしまいますの」
「すまないねえ。呪われた上に更に呪われて、長男としても井戸としても責務を全うできない不甲斐ない兄を許しておくれ」
「そんな……お兄さま……っ!」
ひしっ、とお嬢さんが井戸に抱き着いた。
麗しき兄妹愛…………
あー、世界は今日も平和だなあ。
ひと頻り「お兄さまっ!」「妹よ!」を繰り返し。
彼らの気が済んだところで、俺は問診を再開した。
問診以外にできることがないとも言える。
井戸相手に、どうやって触診や聴診をしたらいいか、俺は知らんからなあ。
「それで。お仕事に支障がある、とのことでしたが」
「あーそうでしたそうでした。いやはや、これはまったく厄介な呪いですよ。立派な井戸として、以前のように家族に美味しい水を届けてやることができなくなってしまったんですからね。非常に困ってるんですよ」
なるほど。井戸の仕事といえば1つしかない、という主張は理解した。
確かに、それ以外で井戸にできそうな仕事はない。
「具体的には、どういったことでお困りで?」
「井戸としてはお恥ずかしい限りですが、ここのところ私から汲んだ水が、どうにも甘いらしいんです。おかげで、どんな料理を作っても甘くなると料理人から苦情がきましてね。私としては、甘くなるなら大歓迎なんですが……」
「お兄さま、わたくしも使用人たちも、あまり甘い食事は好みませんの。ベッセル様にもお兄さまのお水を召し上がっていただきましたけれど、甘すぎと仰っていましたわ」
「ああ、あれが……」
兄妹の会話が、俺の中で繋がった。
さっき応接室で出されたのは、お茶ではなくこの井戸から汲んだ水だったのか。
確かにあれだけ舌を刺激するような甘ったるい水じゃ、料理には使えないだろう。
甘いスープやシチューなんて、考えただけで吐き気がする。
「ちなみに、それはいつ頃から?」
「3年前には既に。辛党の父と母は耐えられず、屋敷を出ましたわ。お兄さまを1人にするわけにはいかず、わたくしは残りましたが……どんどん甘さは増していって、ふた月ほど前からは完全に料理には適さない甘さになってしまったんですの」
「それに、水の量も随分減ってるんですよねえ。このままだと私、華麗に枯れ井戸になってしまいます。なーんて、あっはっはっは!」
あー、はいはい。
井戸ジョーク、井戸ジョーク。
「もうっ、笑いごとではありませんわ! 最近は、井戸の端がどんどん欠けたりもしているではありませんか! このままでは、枯れ井戸どころか、井戸自体が……お兄さまがなくなってしまうかもしれませんのよ!」
「…………はぁ。いやはや、まったくそうなんですよ。それでまあ、こりゃあ間違いなく呪いのせいだろうってことで、世間で評判の祓い屋であるベッセル先生をお呼びしたってワケなんです」
俺は祓い屋ではなく、医者なんだが。
とにかく、状況はなんとなく理解した。
「なるほど、お話しいただいてありがとうございました。しかし……大変申し上げにくいのですが――」
*****
今回の一件で、俺は医者としての未熟さを痛感した。
俺の知る医療の常識から500年は遅れているからと、どこかで小馬鹿にする気持ちがあったのだろう。
呪いなんて存在しない、そんなものは無知か気の迷いだ。
俺にかかれば、呪いだと言われている病気だって完璧に治してやれるんだ。
だけどその考えは間違いだったと、今なら理解している。
結果から言えば、俺はあの井戸男の『呪い』を治してやれなかった。
いや、もしもあいつが井戸男ではなく、ただの男だったとしても、俺には治してやれなかったことだろう。
俺は井戸男の身体構造なんて知らんし、呪いで井戸になった人間がどうやって生きてるのかすら知らん。
だけど、俺やお嬢さんの目に見えないだけで、井戸男にも目や口があるのだとしたら。
きっと、他の臓器だってあるはずだ。
だとすれば、井戸男の『病気』は、あまりに典型的すぎた。
目が見えづらくなってきたのも。
井戸の端が崩れてきたのも。
井戸水が少なくなってきたのも。
全て、糖尿病の末期症状だ。
そりゃあ、あれだけ大量に地獄のような甘さの焼菓子を食べ続けていれば、病気にもなる。
井戸水が甘くなるのも当然のことだ。
………………そう、井戸水だ。
あれは井戸水だった……………………
とにかく、あそこまで症状が進行していては、治療は難しい。
せいぜいが対症療法で、悪化させないようにすることしかできない。
とはいえ、甘いものを控えろと伝えたときの井戸男の絶望っぷりは凄まじかった。
にょ……いや、井戸水を飲用にしている以上は投薬もできないから、悪化を防ぐことも難しいかもしれない。
俺は自惚れていた。
あの兄妹の力になってやれなかったことは、俺の自信を打ち砕いた。
所詮は俺も井の中の蛙だったってことだ。
もっと大海に出て、世の中を知る必要があるな。
…………ははは。小粋な井戸ジョーク、ってやつだよ……
*****
今、俺の前には新たな患者がいる。
大きさは、腰から上だけで俺の倍以上。
全身毛むくじゃらで、額からは山羊みたいな2本の角が生えている。
5つある金色の瞳は妖しく光り、開いた口からは鋭い歯が無数に飛び出していた。
吹雪のように冷たい息を、ごぅごぅと荒く吐き出しながら、その患者は言った。
「ふっふっふっ……我輩は、大悪魔だ」
呪いが実在したんだ。
そりゃ悪魔くらいいるだろう。
ちょっと前の俺だったら、間違いなく自分の目と脳を疑っただろうが。
今となっては、呪いや悪魔の存在を信じていなかったことが、信じられないくらいだ。
「下等な人間よ……貴様らに、召喚されて……我輩は、地獄の底から……地上へと、やって来た……のだ……」
魔法陣の描かれた地面から半分だけ体を出した悪魔が、息も絶え絶えに俺に訴えかける。
「卑劣な、人間め……召喚した、我輩を……いきなり苦しめおって……うう、息が、苦しい……ハァハァ……頭が、割れるように……ふぅふぅ…………痛い……」
「だるい感じがしませんか? 吐き気は? 寒気は? 深呼吸はできますか?」
「くっ……だるさも、吐き気も、寒気も、あるぞっ! ハァハァハァハァ、く、苦しい……なんなんだ、これは……っ。我輩に何を……したんだっ!」
「高山病でしょうね。ここは山ではないですけど。地獄の底から急に地上に出てきたから、体がびっくりしちゃったんですよ」
俺は鞄から簡易酸素マスクを取り出して、悪魔に取り付けた。
「ま、地獄に帰ればすぐに治まりますから」
「いや待て! 我輩は……ぐっ、地上で……まだ、何も……していない……ハァハァハァ、我輩を、うぐっ……召喚した、人間と……契約して……ハァハァ、魂、を…………うっぷ」
「はい、ではお大事に〜」
地面の魔法陣を踏みつけて消すと、悪魔はゴゴゴゴゴという音と共に地面へ沈んでいった。
「あ、しまった。次に地上にくるときは、ゆっくり上がってくるようにって、言い忘れたなあ……」
これだから俺は、未熟だというのだ。
俺が医者として自信を持てるようになるまで、まだまだ先は長そうだ。
残念ながら作者は飲んだことがないので、実際に甘いかどうかは知りません。
もしも「その井戸水飲んだことあるよ!」な方がいたら、こっそり教えてください。