八
朝日が登る頃、二人は屋敷を出た。
馬に乗り、雲省を目指すため、村から西へと進みゆったりと進んだ。
ユーリックの眼前には、広大な大地と山々が広がっていた。まだ見ぬ地に心馳せるも、屋敷を振り返り、少しばかり名残惜しくなった村を見つめた。
果てしない旅に出るわけではないが、半年過ごしたこの地は穏やかで、ユーリックには心地が良く、思い出と呼べるまでに心に残っていた。
雲省への道のりは遠く、幾つかの町や村を通っていく事になる。ユーリックには旅路など慣れたものだったが、心配は蚩尤だった。高貴な方に馬での長旅などさせて良いものかと思ったものの、彼もまた旅には慣れていると答えた。
悠々とした旅路に、春の風を浴びながら、景色が静かに横を過ぎ去った。新緑満ちる地に、過去を僅かばかりに重ね、緑深い山々と白仙山の景色は、意外にも辰国と大差ないという他なかった。
夕方の日が沈みかけた頃、今日は此処までにしようと野宿になった。イルドがある辺りは雪が多過ぎて人が住み辛い為、途中はどうしても野宿になる。
ユーリックは慣れた手つきで、火を起こし、食事の支度をした。蚩尤としてはユーリックに全てを任せるつもりはなかったが、彼女なりに気を遣っているのだろうと思い、木切れだけを集める事にした。
「手慣れているな」
「辰にいた頃は、妖魔狩りの為、南部の地を巡っていたので」
「旅路には慣れている……か」
「蚩尤様も、旅をされたのでしょう?」
焚き火の前に座り、蚩尤は木切れを火に放り込みながら静かに頷いた。
「昔は良く友人と共に旅をした。道楽では無く、目的あっての事だったが、今では全てが遠い過去だ」
お互い、曖昧にしか語らなかった。当たり障りの無い会話に、深くは聞いてくれるなと、わざとぼかして話す癖だけが、どちらにもあった。
線引き、その領分を弁え、何も語らず、何も聞かない。
それを信頼関係と聞かれれば、それも、また信頼だと、二人が答えるだろう。
何も知らない方が、お互いの為だと。
「此処からは、私の事はシエイとでも呼んでくれ。顔を知っている者がいると、面倒だ。貴女の名前も呼ぶと目立つ……ユウリとでも呼ぼうか。それならば、此方でも通ずる名だ」
「わかりました。私の場合、赤目も目立つでしょうか」
「少々目立つが、それで異国の者と判断する者は居ないだろう」
月が昇り、夜が来る。
虫の音だけが響き渡る中、夜は更けて行った。
――
幾日後の夕刻に差し掛かった頃、宿場町に辿り着いた。
宿が立ち並び、雲省と丹省へ行き交う旅人や商人が使う町。雪が溶けた春は、商人達の書き入れ時であり、賑わい始める時間帯となると、早々に宿を取らないと、埋まってしまう。
馬を引きながらも、ユーリックは、珍しい街並みに目移りしながら、蚩尤の後を着いて歩いていた。
「丹は治安は良いが、冬の厳しさの所為で、暴利な店も良くある。昔、一度嵌められた」
蚩尤のその言葉がユーリックには無性に可笑しかった。蚩尤の様な御仁が口にする言葉には思えなかったのもある。笑いが込み上げ、つい声に出して笑ってしまった。
「それは、身なりが良かったからでは?」
金が取れると分かれば、客毎に料金が違うのは良くある事だ。
「その通りだ。世間知らずで、適当な宿に入ったら、金を払うまで出してはくれなかった」
「いくら払ったんですか?」
「通常の五倍は盗られた。」
痛手ではないが、騒ぎを起こすわけにもいかず、渋々払ったと苦虫を噛んだ様な表情を見せる蚩尤に、ユーリックはまたも笑ってしまった。
蚩尤は旅路の為に、平民に近い身なりにしているが、それでも、それなりに持っている様には見えてしまう。よく見れば、生地は割と良いもので、何より蚩尤はどう見ても平民の風格では無い。ユーリックが背後に着いているせいで、尚更見えないだろう。
「そう言った話を聞くと、考える事は皆、変わらないのですね。」
明るい表情を見せ、口元に手を当てて笑いを抑えるユーリックに、蚩尤は少し安心した。最近は、以前にも増して表情を見せる様にもなった。こちらでの生活に慣れ、精神も安定してきたと伺えた。
厩のある一件の宿に決めるも、食事は無く、馬を繋ぐと適当な大衆食堂に入った。店の中は騒がしく、着ている衣さえ違えば、本当に此処が異国かなど、考えもしなかっただろう。
空いている席に座ると、蚩尤が適当に注文を済ませた。ユーリックには、文字は読めても、料理の名前だけでは、米が使われているか、肉が入っているか、というぐらいで、味までは想像できない。
食にそこまで興味が無く、蚩尤の屋敷で出されていたものも、何気なしに食べていたのが、仇になっていた。
「暫くしたら、慣れるだろう。」
「ええ、善処します。」
二人は食事を終えると、宿へと戻った。
部屋は相部屋で寝台と衝立が置かれているだけの簡素なものだ。
蚩尤は寝台に座ると窓の外を見た。夜が訪れ提灯の灯が街を照らす。二階から見下ろす町には、人が行き交い、喧騒が部屋まで届く。
ユーリックもそんな姿を眺めた。
「イルドとは大違いだろう」
「確かに比べると。でもイルドは穏やかな村です」
イルドは、夜になると、静かな村だった。皆が家に帰ると、昼間の喧騒が嘘の様に、静まり返る。
何も無いが、その穏やかさが、ユーリックは好きだった。
「さあ、今日はさっさと寝てしまおう。先はまだ長い。休める時に休んでおかねば」
ユーリックは頷くと木窓を閉め、蝋燭の灯りを消す。寝台に横になると、静かな部屋には外の喧騒が未だ響いている。目を閉じると、騒がしい外の様子がどこか懐かしくも思えた。
――
旅路は順調に進んだ。天候にも恵まれ、雲省手前にある最後の街まで辿り着いた。丹省で三番目に大きな街、ウジ。華やかで、雲省だけで無く、雲省に隣接する柑省や菫省も近い事から商人が行き交う街でもあった。
「大きな街ですね。」
「陽皇国では小さい方だ。此処は妓楼も多いし、商人達が多く宿も高めだ。馬を繋いだら、少し街を観て歩こう」
蚩尤は宿を選ぼうとしたが、今は春と商人達の往来が多く、どこも空いていない。仕方なく、少し高めの宿となった。
「彼方の派手な色の建物は妓楼が立ち並んでいる。行かない方が良い。」
蚩尤が指差した方には、朱色の屋根に黄色の柱が良く目立つ建物が並んでいた。
其方とは反対側の露店が並ぶ方へと進むと、最初の宿場町とは違った賑やかさを見せる中、時折掏児の子供が目立った。酒場も多く、妓楼だけで無く如何わしい店も多い。そう言った店が多いという事は、客引きもそれなりにいるわけで、蚩尤は幾度となく足を止められた。
平民を装っても、金を持っていそうな者には目敏い者も多い。呼び止められる度に蚩尤は面倒だと言わんばかりに露骨に顔に出る様になった。
「シエイ、顔に出ています」
「ああいった手合いはしつこい」
「なるべく隣を歩きます。多少は効果があるかと」
ユーリックはいつも蚩尤の後ろを着いて歩いていた。それでは従者程度にしか思われていなかっただろう。
「歳の離れた夫婦か、親子とでも勘違いしてくれたら良いが。」
目論見が当たったかは分からなかったが、その後は声をかけられる事はなかった。
露店には、様々な物が並んでいた。四つの省の境目が近く、其々の特産品が混じっている。細やかな装飾が施された工芸品は菫省独自のもの、辛味の強い調味料や見慣れない食べ物などは雲省、美しい瑠璃色の陶器の器は柑省、酒や薬は丹省独自の物だ。
「丹は酒が上手い。お陰で酒好きも多いが」
「冬の寒さを凌ぐ為でしょうか」
「純粋に、丹を治める一族が酒好きというのもあるが、特産品を作る中で、米と水を生かしたものが、酒だっただけだ」
雪で街が閉ざされると、冬を凌ぐ為と、暇を潰すのが、酒というのもあった。それが特産品となったのなら、良い事ではあったが、治安の安定には中々に苦労するだろう。
「お陰で、毎年、飲み過ぎて外で凍死する者が何人かいる」
馬鹿げた話ではあったが、事実な為、あまり笑えない。
「ユウリは、それなりに飲めるのか」
蚩尤と飲んだのは、花見の一度きりだったが、その時は、遠慮してそれ程飲んではいなかった。
「酔えた事は一度も無いですね」
「それは良い。私の友人が飲み相手を探していた。今度紹介しよう」
蚩尤の知人となれば、やはり身分が高い方なのだろうか。ユーリックはぼんやりと考えながら、街を見渡した。
夕陽が差し掛かり、薄暗くなる中で、提灯が次々と灯されていく。
人の賑わいはより一層強くなった。街の喧騒はどこも変わらず、豊かな国と言う事を除けば、辰と何ら変わらない街の姿に、ユーリックはまた、自分がどこにいるのか分からなくなりそうだった。
「ユウリ」
ぼんやりしていた所為か、蚩尤と距離が開いていた。人混みに紛れない様にと慌てて蚩尤の後を追った。
「どうかしたか」
「いえ、何でも有りません」
不用意に不安を口にするべきでは無いと、適当に口を濁した。
それから一通り街を見て回ると、二人は露店で適当に食事を済ませ、宿へと戻った。
蚩尤は少しと言ったが、ユーリックにとっては上等な宿だった。今まで寝台は硬いものばかりだったが、綿の入った布団や整えられた調度品が宿の高さを物語っていた。
「此処は高かったのでは……?」
「たまには良いだろう。金は足りてるから、気にしなくて良い」
折角だからと、蚩尤は宿の風呂まで借りてくれた。今までは沐浴程度で済ましていた為、ユーリックは贅沢だと思いながらも、満喫するほかなかった。沐浴していたと言っても、道中は野宿も多い。髪は油が溜まり、身体中は汚れていた。
湯船に浸かりながら、蚩尤の優しさに甘えてばかりだと思えた。金持ちの道楽だとしても、何から何まで世話になりっぱなしだ。
降り積もる恩に、本当に唯の道楽なのかも、分からなくなっていた。
「(未だに、それとなくしか、蚩尤様の事を分かってはいない)」
蚩尤が話す内容から分かったのは、以前は丹省に勤めていて、それなりに高官であったと伺えるというぐらいで、大した情報では無い。
蚩尤は悟られない様にしているのもあり、いまいち掴み難い。どの道、分かったところで、それがどれ程の身分なのかも、分からないのだが。
何よりも、蚩尤もユーリック自身の事に気を使ってか、何も聞かずにいてくれる。ユーリックも話したいとは思わないし、話すと、嫌な記憶が鮮明に蘇る気がしてならない。何より自分に起こった事を人に知られたくは無かった。
だが、このままで良いのだろうか。腹に何かを溜め込んだまま、本当の信頼など出来るのだろうか。蚩尤と共にすればする程、そんな思考が芽生えていた。
ユーリックが風呂から戻ると、蚩尤も既に部屋に戻っていた。髪は濡れていて、彼も同様に風呂に浸かっていたのだろうと伺えたが、顔はどこか怪訝な面持ちにも見えた。
「シエイ、ありがとうございます。久しぶりに湯船につかれました」
ユーリックの言葉に蚩尤の顔はいつも通りの穏やかなものへと変わった。
「満喫できた様で何よりだ」
「……何か、ありましたか?」
先ほどの顔つきが、どうにも気になって、僅かな疑念を口にしてしまった。
「いや、大通りに進むかどうかを悩んでいただけだ。あちらは人が多いからな」
「そうですか」
本当に、それだけだろうか。神妙な顔付きで、悩む程の事では無いだろう。
それまで、ユーリックには蚩尤しか、信頼できる者がいなかった。
なのに、今になって、その信頼に足ると思っていた人物が何かを隠している。
「(きっと、私の勘違いだ)」
ユーリックは自分に言い聞かせる様に、疑念を、そっと胸に仕舞い込んだ。