七
春の訪れで、村はまた騒がしくなった。
田植えの季節が始まり、田畑を耕し、新しい種を蒔く。忙しなく働く村人達の賑やかな声や、子供達の村を駆け巡る無邪気な声がよく響いていた。
庭の桜から、ひらひらと花びらが舞い薄紅色に染まっていく中、蚩尤とユーリックは桜の木の下に座りながら、それを眺めながら酒を呑んでいた。
暖かい陽気に昼間から花見に酒と、贅沢とは思いつつも、ユーリックは嬉しそうに杯の酒をちびちびと口に含んだ。
酒を飲みたいなどとは、言うべきではなかったが、春の陽気に当てられ、「こんな日は、花でも見ながら酒でも飲みたいものですね」などと、うっかりと溢れてしまった。
蚩尤はと言うと、それを歓迎する様に、酒を用意させる始末。要は、蚩尤も飲みたかったとの事だった。
蚩尤も、杯の中を一気に飲み干すと、酒器を傾け杯を波立たせながら、口を開いた。
「以前、春になったら出掛けると言ったのを覚えているか」
「ええ。ですが、此処にいる事がお仕事なのでは?」
「融通は利く。代わりなどいくらでも居るからな」
口調から、命じる立場で有る様にも見える。この方は一体何者なのだろうか。
聞けば、龍人族と同様に人もそれなりの一族が省を治めているのだと言う。丹省もまた、人が治め、蚩尤はそれに仕えていたとだけ説明していた。
「いきなり出掛けては、御実家も心配されませんか?」
「嫌味は言ってくるかもしれんが、問題無いだろう」
ユーリックも、違う地も見て見たい気持ちは有るが、監視の対象と言われ、勝手に出掛ける事は出来ない。だからと言って、この御仁を巻き込むのもどうかという思いもあった。
適当な理屈を付けては見たものの、意に介さないと、あしらわれる。
「何処に向かうかは、決められているのですか?」
「軽く出掛けるならば、雲省都だろうか。桜の季節は終わってしまうが、あそこの街並みは実に優美だ。」
ユーリックは全てを蚩尤に任せるしかなかった。
地図を見たところで、何かを想像出来るわけでもなく、書物を読んでも、それは同じだった。
ただ、龍という存在は気になった。ユーリックをこの地に迎え入れた存在でも有るが、それとはまた違うと、蚩尤が言った。
「雲省は白龍一族の白家が治めている。龍人族が治める地ならば、飛んでいる様もよく見えるだろう。」
それもあって、蚩尤はその地を選んだと言った。
杯を見つめては、それをまた飲み干す。酒を飲みたいと言ったのは、ユーリックだったが、蚩尤の方が余程進んでいる。
「蚩尤様、その様に飲まれては……」
「何、丈夫に生まれた身だ。これしきでは酔いもしない。」
前に蚩尤は異能を持っていると言っていた。未だそれを見る事は無いが、そういう存在なのだろうかと、ユーリックも又、杯の中身を口の中へと流し込んだ。
「雲省へ向かうのは……三日後ぐらいにするか。馬には乗れるか?」
「乗れます。」
「後で、少し乗っておくと良い。灰色の牝馬ならば、乗り易く扱いも容易だ。」
真面な善意を受けた事が、今迄に殆ど無かったのも有るが、何から何まで気に掛ける姿に、ユーリックは蚩尤に信頼を抱いていた。
「私は、どうやって蚩尤様に恩義を返せば良いでしょうか。」
「気にするな。金持ちの道楽とでも、思っておけば良い。」
悠々と言う御仁を前に、ユーリックは困り顔を見せた。
「何か返したいと言うならば、暫く私の道楽に付き合ってくれると助かる。」
恩を感じさせまいとする物言いに、僅かに寂し気な表情を浮かべていた。今まで、悠然とした態度ばかり見ていただけだけに、ユーリックは、蚩尤に手が伸びそうにもなったが、思い留まり、その手を戻した。
「(私は、この方の事を何も知らない。)」
お互い、知識や見識を広げても、自らの事は何一つとして、語ってはいなかった。話したくは無い、聞きたくは無い、これ以上、踏み込むべきでは無い。
信頼はしているが、未だ壁はある。余計な詮索は、今の状況を瓦解させるのでは無いかと、思えてならなかった。
「(それに、監視とは、いつ迄なのだろうか。)」
既に、ユーリックが屋敷に滞在して半年が過ぎていた。ユーリックも出て行きたいと言う考えも無ければ、普通とは言えないが、穏やかな生活が気に入っていた。
蚩尤からは、此処に滞在する期間も監視の期限も告げられていない。今暫く、この夢に浸っていたいと、遥か遠くにある白仙山を見つめた。
――
花見もひと段落すると、ユーリックは厩へ向かった。
何度か訪れた事はあるものの、少しばかり馬を眺めては、撫でる程度だった。
黒と濃い灰色の二頭。灰色を撫でると、馬は体を振るわせた。
馬を見ていると、師と共に南部を巡った事が記憶から鮮明に蘇る。南部の魔術師の仕事の多くが妖魔の討伐だった。辰帝国では何故か南部地方だけが妖魔が出た。
増えすぎると山や森を出て人を襲うとされ、南部の一部の地域には専門的に妖魔退治を行う者も居た。妖魔が出没する原因は誰にもわからなかったが、食いっぱぐれる事がなくて良いと言うのが、南部の魔術師の考え方だった。
ユーリックにもその程度の考えしかなかった。
陽でも妖魔が出ると聞いて驚きはしなかったが、五十年程前から減り続け今は殆どいないのだという。
いつまでも馬を撫でているわけにはいかないと、灰色に鞍を付けると乗り上げた。目線が高くなり、見晴らしが良くなる。初めて乗る馬だが、蚩尤の言う通り、大人しくて乗りやすい。
馬を歩かせると、少しばかり敷地を出てみる事にした。どこに行こうか迷ったが、何気なく鎮守の森の方を見た。
自身はその森の前に倒れていたのだと聞いてはいたが、一度として赴いた事は無い。
四半刻程歩いた所にあるというが、馬なら直ぐだろうと思い、ユーリックは馬を向かわせた。
「あんた、元気そうだな」
敷地を出てすぐだった。声の方を見ると、カンがいた。
冬の前にカンは何度か蚩尤と共に散歩するユーリックを遠目で見てはいた。普通に歩き回り、元気そうではあったが、蚩尤が同行しているのもあるが、無表情で話しかけづらい雰囲気を醸し出している。
それが、ある時から一人で歩き回る時もあれば、二人並んで和やかに会話をしている様子もあった。
それでも、異邦人という特殊性か、村人が話し掛ける事は無かったが、カンは何となくではあったが、ユーリックを目で追うぐらいには気に掛けていた。
それが、偶々目の前に現れたものだから、思わず声をかけてしまった。赤い瞳がカンを捉え、きょとんとした顔を見せるも、ユーリックは一度馬から降りると、カンに向き合った。
「久しぶりだな」
ユーリックが目覚めてすぐの頃、カンはユーリックに会っていた。見つけた本人を安心させると共に、ユーリックが異形でないと示す為でもあったが、愛想がいいわけでも無く、感謝は述べても表情は皆無だった。
それが今は、なんとも穏やかに返事をする様になったと言える。
「何処に行くつもりだ?そっちは何も無いぞ?」
「馬を慣らしに、鎮守の森まで行ってみようかと」
「行くのは良いけど、入るなよ?」
「入れないんだろう?行くだけだ」
鎮守の森は誰もが知る神域だ。ユーリックは、その事を聞いてはいたが、信仰を犯す行為をする気はないと特に森へ入る気は無かった。
「なら良いが…道をまっすぐ行けば良い。馬ならすぐに着くだろ」
「わかった」
カンと別れると再び馬に乗った。
村を出ると、確かに道らしき物はあったが、雑草が茂っており、とても道とは呼べない代物だ。馬で良かったと思いながら、ゆっくりと進んでいく。
反対側は田畑や家畜小屋などがあったが、此方には一切人の手は加わってはいなかった。
村から離れるほどに、無音になっていく気がした。風が吹けば草木の揺れる音が響いたが、鳥や虫の鳴き声が全くしない。まるで、白仙山にいた時の様だ。
暫くすると、森に着いた。
道は途切れており、鬱蒼と茂った木々が中を隠している。見る限りはただの森としか思えない。
この森は白仙山の麓まで奥深く続いているという。これ以上は意味もないと判断し、後ろを振り返ろうとした時だった。
不意に何かと目が合った気がした。気の所為と思いつつも再度森を見たが、やはり何もいない。胸がざわつき、何者かに見られている様な感覚だけを残し、ユーリックは馬に乗ると屋敷へと戻っていった。
――
夜、誰もが寝静まった頃、春の心地よい風がユーリックの頬を撫でた。窓を開けたままだったのだろうかと、ユーリックは朧げながらも身を起こした。
机の横にある窓が風に揺れて、カタカタと音を立てている。しっかりと閉めなかったのだろうと思い、立ち上がり窓に手をかけた時だった。
突如、突風がユーリックに襲いくるかの様にどっと突き刺さった。あまりの強風に目を瞑り両手で顔を覆ったが、ほんの僅かな時間の事で、風はあっさり止んだ。
顔を覆っていた手を下ろすと足元に違和感がある。足元はゴツゴツと土の上にいるかの様に感じ、目の前には暗闇が広がっている。確かに寝室に居たはずなのに、今いる場所を確認する様に辺りを見渡すも、暗闇の中に揺れる木々が周りを囲んでおり、森の中にいる事だけが理解できた。
「此処は…」
ユーリックは裸足のまま立ち尽くすしかなかった。せめてもの灯にと、掌の上に魔術で火を灯す。ようやく周りが見えたが、状況は変わらない。
鬱蒼と茂る木々が視界を遮り、奥はひたすら闇が続くばかりだ。これは夢なのかと思うほどに、状況が理解できないでいた。
ふと、視線を感じた。それは昼間に鎮守の森で感じたものと同じだった。
「何がしたい!」
何がいるかも、何がしたいかもわからない。せめて意図を教えて欲しく、ユーリックはただ何かもわからないそれに叫ぶしかなかった。
ユーリックの問いに応えたのか、白い光が現れた。それは徐々に形になり、白仙山で出会った白い龍と同じ様に視界に形となって現れた。
それは、白銀の鹿だった。
灯があるとは言え、はっきりと白とわかる姿は神々しいと言えるほどの白光に包まれていた。ユーリックは問い質そうと口を開こうとしたが、声が出ない。何より口を動かす事もできない。
現れたかと思えば、それは徐々に姿が薄れ、それの存在が遠くなるのを感じた。
その瞬間、また突風が吹いた。目を開けていられず、思わず顔を覆う。
風が止み、ユーリックはゆっくりと手を下ろし、恐る恐る目を開けると、また元いた部屋に戻っていた。
夢でも見ていたのだろうかと思ったが、足にざらざらとした違和感だけが残っている。足の裏は砂利や土で汚れていた。夢では無いと明示しているようで、不可解でしか無い。
ふと、蚩尤の言葉を思い出した。
―それ程強い存在が、すぐ傍に存在するからだ。
蚩尤の言う強い存在と言うのが、あれなならば、あの鹿は神とでも言うのだろうか。
あれが神なら、二度対面した事になる。神という不確かな存在を未だ信じきれずにいるが、確かにそう呼ばねば説明など出来ないだろう。だが、疑問が残る。
「(不可視の存在ではなかったのか?)」
何故自身には見えるのだろうか。何故この国へ連れて来たのだろうか。そして、何故姿を見せるばかりで、何も言わないのか。誰も答えられぬ疑念ばかりが、ユーリックの中に積もっていった。