二
女の目に、白い光が飛び込んだ。それが、朝日と気付くのにどれぐらいかかっただろうか。
目を擦り、重たい体を起こすと、身体を支える手に違和感を覚えた。その手に伝わるのが、冷たい雪でも、凍った土でも無い。
霞む目に、ぼんやりと辺りを見渡したが、どうにも状況が掴めない。
石造りの壁に、寝台と簡素な机と椅子だけが置かれた部屋。確かに、自分は白い山に居たはずなのに、何処とも分からない場所にいる。剰え、自身は寝台に寝かされ、更には暖かい毛布まで掛けられていた。
持っていた荷物は見当たらず、身も清められている。身に纏っていた衣服は、異国を思わせる古風な民族衣装の様で見覚えは無い。
「ここは……?」
思わず声に出るも、それを返す者は居ない。状況が飲み込めず、何か手がかりは無いかと、窓を見ると、自身が登っていた筈の白い山が、そこにあった。
その瞬間、女の顔色は忽ち凍りつき、寝台から飛び出した。女にとって一番最悪の状況が頭に浮かんだ。
―故郷に戻ってしまったのだろうか
女は、慌てて扉に向かうも、鍵が掛けられていて開く事は無い。木の扉を壊す事など、女には造作も無い。だが、女は冷静に自身の手足と部屋を見渡した。何も手足を拘束されているわけでは無く、扱いも悪いものでは無い。
ここが何処かも分からぬ今、相手の出方を伺う必要があると思い直し、再び寝台に戻った。
窓から見える白い山を眺めては、時を待った。
――
蚩尤は日課となった、女の様子を見に、屋敷の端に有る小さな部屋へと向かっていた。旅人にでも貸し出そうと空けてある部屋ではあったが、使われた事は一度としてない。こんな形で使う羽目になるとは思っても見なかったが、一体何度この部屋へ往復すれば良いかが見当も付かなかった。
いつになったら女は目を覚ますのだろうか。昨日、変化はあったものの、結局目覚めるには至らなかった。今日も変わり映えなどしていないだろうと、たかを括って徐に扉を開けたが、蚩尤の目に映ったのは思いもよらない光景だった。
寝台に静かに腰掛けて窓を眺めて待つ女の姿。長く伸びた黒髪に、整った容姿に映える紅色の瞳が真っ直ぐに蚩尤を捉え、戸惑いを隠せなかった。直様、平静を取り戻すも、一瞬出遅れ、先に動いたのは女だった。
女は静かに立ち上がったかと思うと、蚩尤に向かってゆっくりと頭下げた。
見つけた当初の、お世辞にも身綺麗と言えない姿からは想像すらしていなかった礼儀正しさに、蚩尤は思わず息を呑んだ。
女は、頭を上げず、蚩尤の出方を伺っているのか、反応を待っている様だった。
蚩尤は平静を装い、女に近づくと、机に備え付けられていた椅子を女の前に置き、何事も無く座った。
「頭を上げて、座りなさい」
女は言葉を発する事なく、指示に従い、寝台に腰を下ろした。落ち着き払った動作に、不安を隠しているのか、無表情を貫いている。
敵意は無い。だが、警戒はしている。今の状況で、蚩尤が読み取れるのは、それぐらいだった。
「私は、この村に住んでいる……蚩尤と言う」
何者かも分からない者に、身分も姓も明かす事は出来ない。蚩尤も又、女の出方を伺う必要があった。
「まずは、名前から聞こうか」
発言を許可する言葉で、漸く女が口を開いた。
「私は、ユーリックと言います」
耳慣れない名前だった。あくまで、聞かれた事しか答えず、身分ある者との対話に慣れている様子が、それなりに身分ある身か、それに仕える者を思わせた。
「何処から来た」
静かな口調で問うも、女は戸惑った。
何かを隠しているというよりは、答えられないといった様子で、困った顔を見せた。
「そもそも、此処は何処なのでしょうか」
本当に此処が何処かも理解していないのか。この地は、目指さなければ、歩いてなど来れない北の果て。
だからと言って、女が嘘を付いている様子でも無い。
女は、どう答えるかを悩んでいた。
「此処は、丹省イルド村だ」
「……聞いた事が有りません」
耳慣れない名前、見たこともない装い。蚩尤は、頭に一つの答えが浮かんでいた。
「生まれを聞いても良いか」
「辰帝国の南部山岳地帯の小さな村としか答えられません」
それは、蚩尤の答えが確信に変わった瞬間だった。そもそも、蚩尤は辰なる国を知らない。恐らく、この国でそれが何処かを言い当てる事が出来る者はいないだろう。
「成程、外界から迷い込んでしまったか」
女は、首を傾げた。蚩尤の言葉が指し示すものを、どう解せば良いかが、判断できずにいたからだ。蚩尤もそれを察してか、成るべく女に理解できる言葉を選び直した。
「貴女は、異国から、この地に辿り着いた異邦人だ。だが、青海から此処まで歩いて来たのか?」
異国。それを聞いた女は、安堵した顔を見せたが、青海が何かが分からず、また、どう答えるかに悩んでいる様だった。
「海から来たのだろう?」
女は、漸く青海が意味するものを理解したのか、蚩尤の問いに何気なしに答えた。
「いいえ、私は、あの白い山を歩いていました」
言葉と共に、女は窓から見える白い山、白仙山に目線を向けた。
その途端、蚩尤の顔色が変わった。白仙山は神が住む神域だ。凡そ、人では到底生きられぬ地から、女が来たと言った事で、とても穏やかでいる事など出来ないと、険しい顔つきで女を見た。
余りの形相の変わり様に、女は肩を竦め、答えを間違えたのだと悟った。
「神が住む地は神域とされ、人には毒だ。あの山は、とても人が越えられるものでは無い。何の目的で、この国に来た。」
お前は、人では無いのか。
明確な敵意に、女は戸惑うも、何かを躊躇い答えない。
その様子は蚩尤ではない、何かに怯えている様だった。
「私は、確かに山に居ました。先程、人には毒と言われましたが、恐らく私には関係ないのだと、思われます。私は……」
そこで、言葉は詰まった。先程までの気丈な振る舞いから一変し、女の顔は青ざめ、手は震えていた。
一体何に恐怖しているのか、異国という言葉に安堵した事から、何者かに追われているのだろうか。
蚩尤には想像が付かないが、余りにも、その姿が哀れでならなかった。
先ずは落ち着かせなければ、話はできないだろうと、蚩尤は、女の震える手を優しく握った。
「此処は、貴女が居た国では無い」
成るべく怯えさせぬ様にと、蚩尤の顔つきは穏やかなものに戻った。
優しげな好々爺然を見せると、女は少しばかり落ち着きを取り戻し、再び口を開いた。
「私は、どの様な手段を使っても死ねないのです」
蚩尤は、想像もしていなかった答えに、驚きを隠せなかった。
それに気づかず、女は、口を動かし続けた。
「私に目的などありません。あの山を登ったのも、誰もいない場所で生きていたかったからです」
とても、信じられる様な話では無かったが、死ねないと言うのであれば、白仙山を越えたのも頷ける。
だが、女の口調はどこか、自信が無い様子だった。
「山を降りた記憶は有りません。信じてもらえないかもしれませんが、白銀の龍に出会したかと思ったら、気を失い、気づけば此処に……もしかしたら、幻覚を見たのかも、しれませんが……」
曖昧な記憶に、幻覚、只人なら、信じない話だったのだろうが、蚩尤は違った。
「白銀の龍に会ったのか」
「会ったと言うよりは、ただ此方を見ていただけでしたが……」
女自身、自分が世迷いごとでも言っていると思えてならなかった。自信のない姿に目も合わせられないと終始俯いていたが、蚩尤は、女の話を信じるしか無くなった。
―この国には、神が住むとされている
この国の者ならば、神が居ると誰もが信じている。決して、見る事、相見える事が出来なくとも、神はそこにいる。そう教えられてるのだ。蚩尤もまた、例外では無かった。
「貴女が白い山と言った地は、この国では白仙山と言う。あの山には、白神という神が住み、山を守っている。私はその姿を見た事は無いが、白銀の龍と伝え聞いている」
肯定と取れる言葉に、女が顔を上げ、驚いている様子だった。
女も、半信半疑だったのだろう。漸く、嫌疑が解けた事に明るい顔を見せた。
「信じて、頂けるのですか?」
「信じよう。その身に死が無いのなら、白仙山に身を置いていたというのも頷ける」
蚩尤は、立ち上がると、女に手を差し出した。
「ユーリックと言ったな、行く宛は無いだろう。神に導かれた者として、この屋敷に歓迎しよう」
女は、戸惑いながらも、その手を取った。安堵の顔色は見せても、警戒を解いた訳では無いだろう。
それでも、怯えた表情は無く、紅色の瞳は微かに揺れていた。