二十五
丹省 省都キアン 紅砒城
夏に差し掛かる頃、悠李は丹の地を踏んだ。
皇都に比べ、丹は涼しく爽やかな風が流れる。髪を抑えながら、荘厳に佇む朱色の城を眺め、皇宮とは違う佇まいに息を飲んだ。
目覚めてからというもの、外にも出れず養生する様にと祝融に命じられ、思うように行動すら叶わなかった。
漸くこの地に戻ってきたとも思えたが、悠李の心の中には、これからの不安と期待が交差していた。
迎えに来た朱家の龍が人の姿に戻り若い女性の姿を表すと、悠李の背後に着いた。
「貴女は姜一族当主の御令嬢。無下にする者など、ここには居ない」
蚩尤の隣に並び、拭いきれない不安を抱きながらも悠李は胸を張り、足を進めた。
朱色の城門に立つ兵士たちが扉を開けると、二人を出迎える為に江念が文官を引き連れ待っていた。彼らは、さも当たり前にと静かに頭を下げた。
「蚩尤様、悠李様お帰りなさいませ」
穏やかな老人の姿だが、金の瞳で龍人族と一目でわかる風貌だ。
「私は朱家当主江念と申します、以後お見知り置きを。祝融様と玄瑛様がお待ちです」
江念は悠李に顔を見せると、城の中を先導して歩いた。
事前に通達があったのか、官吏や女官達の横を通り過ぎる度に、彼らは頭を下げる。悠李は慣れないそれに、心苦しくなったが受け入れるしかなかった。
「(……慣れることができるのだろうか)」
心の準備は出来ていると思っていた。いざその時を迎えるとなると、自分が場違いな場所にいる気がしてならない。
「(こんなに緊張したのは、初めてかもしれない)」
礼儀作法は師の付き人として、貴族と相対した時のために身につけたものだった。師を見て真似したため、あくまで人前に出て恥ずかしくない程度でしかない。
無表情を作るのは得意だが、それでも顔に緊張が浮き出ていないか心配になっていく。これから、ここで暮らすのだと考えるだけで段々と胃がキリキリと痛む様な錯覚すら覚えた。
江念は応接間まで辿り着くと、声をかけ扉を開けた。中には、祝融と共工、丹諸侯である玄瑛、そして共工と玄瑛の隣には、それぞれ女性が座っていた。
「元気そうでなによりだ」
祝融とは、一月前に目を覚ました後に会ったきりだった。祝融も仕事があると、丹をずっと離れていることは出来ないと顔だけ見ると早々に帰っていた。
とにかく座れと、空いている席を指差した。悠李と蚩尤が座ると、早速と祝融は口を開いた。
「共工は一度会っているな。一応、将軍職だ。こっちが、丹諸侯の玄瑛。そして、共工の妻の翠玲と玄瑛の妻の珊子だ」
紹介され、玄瑛は表情を変えなかったが、翠玲と珊子は和かに笑った。
「悠李と言います」
悠李は二人の優雅な佇まいに、自分の無作法さが目について気が引けた。出来る限り礼儀正しく有ろうとはしていたが、女性らしさとは無縁にも思えた。
「仕事は武官の補佐官を任せようと考えている。科挙の試験を受ければ文官にもなれるが、どうする?」
悠李は科挙の試験が辰でも難関という事だけは知っていた。こちらの知識が浅い今、興味や関心が薄い事も相まって、とても担い切れる物でも無いと丁重に断った。
「政に携わった事はありません。やめておきます」
「そうか。どちらにしても武科挙は受けねばならん。実績の無い者に下は付いてこないからな」
「承知しました」
「悠李は彼方では軍人だったのか?」
突如、共工が口を挟んだ。悠李の腕前を一度見ている事もあって、気になっていた。
「国に直接仕えていた訳ではないので、傭兵という言葉の方が有っているかと」
「……軍には規律がある。所属する事に抵抗は?」
軍務に徹するならば、将軍職である共工は上官となる。自分が上官でも異論はないかと聞かれている様にも思えたが、悠李に気にする様子はなく、答えは即答だった。
「ありません」
落ち着いた様子に祝融も安心した様だった。
「慣れない事ばかりだろうが、学んでいけば良い」
そんな中、珊子は悠李の姿をじっと見た。
「祝融様、彼女に息女としての役目は求めますか?」
珊子は丹諸侯の妻として、他家の妻や息女を城に迎えては茶会を開いていた。そこには翠玲も参加していたが、それには牽制や情報収集の意味も含まれている。
「所作や作法程度だ。今まで通りお前達二人に任せる」
「承知しました」
「悠李、息女としての習いは二人に教わると良い。まあ、向き不向きもあるだろうが」
悠李は、目が泳ぎそうになった。武官ならば、それほど問題ないのではと思えたが、高貴な令嬢らしくと言われれば、それが一番難題にも思えてならなかった。それまで、優雅さとは無縁の生活だったのもあり、自分が女らしいとすら思えた事も無かった。
「……善処します」
「これに関しては、そこまで期待しないから安心しろ」
「あら祝融様、やれと言われれば扱きますよ」
珊子は上品に笑う姿に悠李は肩を竦ませた。
「加減はしてやれ、元は平民だ」
流石に生まれが違うのだと、玄瑛が珊子を嗜めようとしたが、逆に睨まれる形となった。
「翠玲も同じです。悠李、これから忙しくなるでしょうが、立ち振る舞いや行儀作法程度は覚えて頂きます。宜しいですね」
厳しい顔つきに悠李はたじろいだが、甘やかされる方が性に合わないと珊子に向き直った。状況を考えれば、恵まれていると、悠李は胸を張った。
「わかりました。お願い致します」
今まで隣で見ているだけだった蚩尤はその姿に安心した。
城に向かうとなってからというもの、悠李に不安が押し寄せている事はわかっていた。
穏やかで自由な生活を好む悠李に肩身を狭い思いをさせるとはわかっていても、どう言葉をかければ良いかも蚩尤にはわからなかった。
「悠李は最初から礼儀正しかった。直ぐに身につくだろう」
蚩尤は穏やかな顔で悠李に語りかける姿を見て、悠李以外の誰もが唖然とした。悠李にとっては、当たり前のものではあったが、他は違う。
ここ数年離れて暮らしていたとはいえ、蚩尤のあからさまな態度の違いに最早別人としか言えなかった。蚩尤が他人に穏やかな笑みを見せるのは、大抵作り笑いをしている時だったが、今はその様子は無い。心境を変えた何かは、どう考えても隣に座る女だろう。
「悠李、気をつけろよ。こいつは、その姿で数百年は生きてる。人の良さそうな面を利用して人を騙すのが得意だ」
祝融の揶揄に悠李は横目でちらりと蚩尤を見ると、蚩尤は少しばかり不機嫌な顔付きに変わっていた。
「人聞きが悪い。まるで私が詐欺を働いている様ではないですか」
「実際にそうだろう。お前に泣かされた女を何人見た事か」
蚩尤の機嫌の悪さは増すばかりだった。
「……伯父上、それぐらいにして頂きたい」
「伯父?」
悠李はつい声に出てしまった。祝融と蚩尤が身内と分かっていても、その戸籍の関係を特に考えてもいなかった。
「なんだ、知らなかったのか」
「祝融様は私の伯父に当たる。だから、ある程度の不敬は許される」
堂々と言ってのける言葉に、祝融は呆れた。
「阿呆が、大目に見てやっているだけだ。お前が俺を伯父呼ばわりする時は大抵都合が悪い時だけだと言っておく」
祝融のにやついた表情と言葉に周りは含んで笑っていたが、悠李はただ呆然とした表情で蚩尤を見ていた。
「さてと、悠李」
祝融の顔は真剣そのものの顔に戻った。悠李もそれに釣られて、再度背筋を伸ばした。
「これから色々言われるだろう。だが、堂々としていろ。胸を張れ。誰が何と言おうと、お前が姜一族となった事に変わりはない。決して、頭を下げる相手を間違えるな」
それは、身分を授かった事を実感させる言葉だった。
「承知しました」
「では珊子、翠玲、予定通り頼む」
祝融の声に、二人は立ち上がると、悠李に着いて来るようにと言った。
「悠李様の宮は用意できております。暫くは城の生活に慣れてもらう事が第一と祝融様から仰せ使っております。何か困った事があれば、後ろの花月をお使いください」
江念は悠李の後ろに控えたままだった朱花月を見た。朱家独特の赤髪に龍人族の特徴である金眼。凛とすました顔は未だ幼さが残る。
「歳は若いですが多くを学ばせております。悠李様のお力になれるでしょう。では、参りましょうか」
悠李は、言われるがまま後に続いて行った。
悠李達の姿が見えなくなると、共工と玄瑛も仕事に戻っていき、祝融と蚩尤だけがその場に残された。
「お前が城に戻るのは六年ぶりか……二度と戻らんと言った割に早かったな」
「人らしい生活など、性に合いませんでした。悠李が現れて、より顕著になりました」
「悠李がいなければ、戻らなかったか?」
「ええ。あのまま、イルドで朽ちていたでしょう」
つまらない生活に飛び込んできた異質な存在とも言えたが、蚩尤にとって悠李の存在は大きなものになっていた。
何より、柑省都で見た悠李の姿が未だ忘れられないものだった。
蚩尤の満足気な顔つきに、祝融は悠李に感謝せざるを得なかった。
二人の付き合いは長い。蚩尤は時折、祝融を伯父と呼んだが、長い年月を得て関係としては友人に近いものになっていた。にも関わらず、心に傷を負った蚩尤に祝融がどんなに言葉を掛けようとも、振り返る事はなくイルドへと旅立ってしまった。
それが、たった一年弱過ごしただけの悠李がそれを変えてしまったのだから、世の中何が起こるかなど分からないとしか言えない。
「手を尽くした甲斐はあったわけだ。それで、悠李の事はどう思っている」
蚩尤は途端に顔つきが怪訝なものに変わった。
「彼女の行く末を見届けたく思います」
「良いのか?誰かに取られるかもしれんぞ?」
にやつく祝融に蚩尤は更に真剣な顔つきになった。
「本当に宜しいので?」
「何がだ」
「彼女は不死身です。今後、二度と現れないかもしれない存在なのです」
遠回しな言い方に祝融は苛つきを抑えているのか、指で椅子を鳴らした。
「はっきり言ったらどうだ。」
「祝融様、貴方も彼女と同じなのでは?」
祝融の顔はたちまちに曇った。それまで和やかだった雰囲気から一転して、殺気にも近いものが蚩尤に向けられた。
「五十年前、貴方は、あれから何かを授かった……いえ、呪いを受けたとでも言うべきでしょうか」
祝融の声色が変わった。
「何を根拠に言っている」
「貴方が負った傷は、死んでもおかしく無かったにも関わらず、傷は瞬く間に治っていった。あの時は、不可思議なものを見たとしか思えなかったが、悠李の傷が治る様を見て確信を得ました」
蚩尤の脳裏には、死の境を彷徨う祝融の姿が思い浮かんでいた。
死ぬその瞬間まで人を近づけるなという、祝融の命により、蚩尤と侍医だけが側で様子を見守っていたが、侍医は祝融の回復する様を見て青ざめていた。
とても、人の所業ではないと。
「……誰かに言ったか」
「いいえ。私と当時の侍医のみが知り得る事です。その侍医も私がここを離れる前に、亡くなりました」
蚩尤は侍医に生きていたければ、決して口にするなと口止めをしていた。彼も、姜一族を敵に回したくはないと、死ぬその瞬間まで誰にも伝える事は無かった。
「……それで俺に悠李を当てがおうとでも思ったか?」
「ええ。最初はそのつもりでしたが、手放せなくなりました」
最初こそ、蚩尤も異邦人としての知識や聡明さに興味を持ってはいたが、悠李に何の想いも抱いてはいなかった。
永く生きる祝融には永遠に生きる存在が必要になるだろうという考えだけで、悠李を手助けした。それはいつか、不死身の力で孤独になる悠李の為にもなると思ったからでもあった。
「安心しろ、悠李の事は何とも思ってはいない」
それは、祝融の本心だった。同情と、その力の有益な利用。そして、蚩尤の存在。それだけが、祝融の考えだった。
「ですが、悠李が不死身だからこそ、手を尽くし助けたのでしょう」
「……多少はな。それで俺に遠慮して手を出せないとでも言うのか?」
「彼女はその為に、この地に来たのではと思えてならない」
祝融は悠李の中にいた存在が放った言葉が浮かんだ。
―依代となって更なる厄災となる筈であった
本来なら、この地を呪う為に来た存在などと、悠李を想っている蚩尤に対して口にできるものでは無い。
「言っただろう。俺にその気はない。何より、悠李を養女として迎えたのは、お前の為でもある」
蚩尤は目を伏せた。
祝融の真意を聞いた今、想いを留める必要は無くなったが、それでも利用した事の心苦しさがなくなる訳では無かった。
「分かりました。私もこれ以上は言いません」
「どうせなら、婚約の契りでも交わしておけ。そのほうが、他家への牽制にもなる」
「……暫く、待って頂けないでしょうか」
未だ顔が晴れない蚩尤の姿に祝融はため息が出た。
「全く、今まで大して女に興味も抱かんかったくせに、興味を持った途端に苦悶するとは」
「興味を持てる者が現れなかっただけです」
「知ってる。お前に愛人がいたのもな」
「……」
祝融は呆れていた。これまで蚩尤は三度結婚したが、その内二度は政略結婚だったため、煩わしいと結婚した相手を蔑ろにしていた。それが蚩尤の考えだと、祝融も敢えて口出しする事は無かったが、その間、愛人の下を度々訪れているのも耳に入っていた。唯一、三度目の相手だけは友人関係だったからか、夫婦仲が良好だった。
「お前ほど不誠実な男も中々いない。愛人は不死なのだろう。縁は切れ」
「小玉を娶った時に切りました。小玉が亡くなった後も会ってはいません」
「それなら良いが」
祝融の疑いの眼差しから目を背け、蚩尤は悠李の姿を想い浮かべた。
「悠李は従順な性格です。私が想いを伝えれば、応えてくれるでしょう。出来れば彼女の気持ちを優先したい」
蚩尤は自分の老いた姿が好きでは無かった。
好んでその姿でいる訳でも無く、だからこそ、人を騙すのに丁度良いと利用できた。それを悠李にも利用した事が負い目でもあった。
「(ここまで言わせるとは)」
甥が変わった姿に喜べば良いのか、苦悩する姿に嘆けば良いのか。
祝融は、こんなにも一人の人間に悩む蚩尤の姿をどう取って良いかがわからなかった。
「まあ、後は自分で何とかするんだな」
実の娘では無いからこそ、客観的に見れた。蚩尤が身内でなければ、気にもとめ無かっただろう。
敢えて口にはしなかったが、悠李が蚩尤に向ける眼差しも、そう言ったものには見えたが、未だ出会って間も無い祝融には、はっきりとした判断がつかなかった。祝融は悩んだところで、後は当人同士好きにすれば良い事だと、考えるのを止めた。
さて、と祝融は伸びをして立ち上がった。
「俺も仕事に戻る。お前も明日からは色々手伝ってもらうぞ」
「御意」
祝融は部屋を出ようと扉に手をかけたが、ふと、心の中の疑問が溢れ落ちた。
「蚩尤、お前には俺が何に見える」
祝融の言葉に蚩尤は、迷い無く答えた。
「人です。貴方も悠李も、何ら人と変わりはありません」
「そうか」
祝融は蚩尤に顔を向ける事なく、その場を後にした。
蚩尤は残された部屋で一人空いた椅子を見つめた。集まる親族の中に、確かに自分がいた。そして、その隣には蚩尤の息子とその妻が仲睦まじく座り、自分の腕の中には幼い孫、息子嫁のお腹には命が宿っていた。
在りし日の思い出がまるで昨日の事の様に幻想として映るも、蚩尤はゆっくり目を閉じると、思い出を胸に仕舞い込んだ。
――
本城を抜けると、離宮が幾つも建ち並んでいた。城と同じ朱色の屋根と朱色の柱が小さな街の様にも見える。江念が案内したのはその内の一つの宮だった。
「悠李様のお住まいは此処です」
悠李はまるっと一つの宮を与えられた。
とても一人で住むには大きく見えたが、多くの宮のうち空きが多いため、特に問題は無いとの事だった。
珊子と翠玲に続いて中に入ると、悠李は中を眺めた。蚩尤にイルドで与えらえた部屋のように朱色で統一され高価な調度品や装飾品が誂えられた宮は、やはり悠李には分不相応に思えてならなかった。
「(広いな……)」
「悠李、こっちよ」
珊子に呼ばれ、慌てて後に続き寝室へと足を踏み入れると、そこには、大小様々な箱が山積みに置かれていた。
「祝融様が色々用意して下さったの。他にも、皇帝陛下や風公からの贈り物もあるみたいね」
「風公?」
悠李は公が付く方が特別な存在である事はわかっても、一度も会っていない御仁の顔が浮かぶことは無かった。
「元老院の一人で、祝融様の古くからのご友人なの。貴女の事で何か思う事があるのかもしれないわね」
珊子は控えていた女官達に箱を開けるように言った。
多くが、女物の高価な衣や装飾品だったが、中には胡服や男物に近い軽装の衣も含まれていた。
「悠李は何色が好きかしら」
「……特には」
「じゃあ、目の色に合わせて朱色で良いわね」
「珊子様、こちらも良いのでは?」
珊子と翠玲は一つ一つを確認すると、悠李を他所に二人は楽しそうに、どれを着せようかと話し始めた。
「あの、珊子様、翠玲様……」
「普段は、軽装で良いけど、公式な場は正装ね」
翠玲は朱色の衣を手に取ると、悠李に合わせた。
「珊子様、これにしましょう」
「そうね」
置いてけぼりにされ、悠李は言われるがまま女官達の手を借り衣に袖を通した。
合わせるように髪を結い上げられ、慣れない化粧もされ、簪を付けられる。女官達も何やら、楽しそうで、最早悠李に口を挟む隙などなかった。
ようやく終わったと、悠李はため息を吐きながら、何気なしに鏡を見ると、とても自分とは思えない人物が写っていた。
朱色の衣は金の糸が織り込まれ、皇都で着ていた衣よりも高価なものだった。
「悠李、よく似合ってるわ」
「本当に。さあ、お茶にでもしましょうか」
応接間に移動して、女官達が用意した茶や菓子に口をつけながら、悠李は自分が着ている衣と、珊子や翠玲が着ているものとを見比べた。価値こそわからないが、どちらとも遜色ない程に高価なものという事は一目でわかる。
「この様な高価なものを頂いても良いのでしょうか」
「貴女が姜一族と名乗るに相応しいものを祝融様が揃えただけ」
「私達も色々買ってもらっているし、気にする事はないわ」
二人は至極当然の事と、身分にはそれなりの装いも必要と悠李を諭した。
「悠李、突然こんな所に放り込まれて不安でしょう」
珊子は隣に座る悠李の手を取った。
「でも、顔に出せば貴女が弱い存在と思われる。貴女を良く思わない者達もいるでしょう。時には、高圧的な態度を取られる事もあるかもしれない。その時には、貴女が説き伏せなければならないわ」
悠李は、珊子の言葉に耳を傾け頷いた。
「心を強く持たなければなりません。辛くなったら、言いなさい。貴女の手助けをしてあげれるわ」
「私の時も、色々言われましたから。堂々としていれば良いのです」
「翠玲様は……」
「私は、妓女だったの。姜家の方々は共工様が結婚されることに喜んでくれたけれど、家臣の方々はよく思わなかった。不死だから、認められたようなものよ」
当時、一つの省を纏める一族の一員に妓女が加わるのは、如何なものかと、悪意ある言葉が翠玲に向けられた。何より、祝融の実子である共工に自分の娘を当てがおうとしていた者達には面白く無かったのもあるだろう。
「祝融様が恫喝したから、治ったのよ。あの方の言葉には力がある。だから、安心しなさい」
「蚩尤様も、味方なら尚更大丈夫でしょう。ところで……」
珊子は一口お茶を飲むと、悠李を鋭く見た。
「蚩尤様とはどういう関係なのかしら?」
本来の目的は、悠李に気を使ってくれという祝融の言葉から、こうしてお茶を楽しんでいるのだが、先ほどの蚩尤の様子を見た二人は、それが気になって仕方がなかった。
「蚩尤様には、良くして頂いています。それだけです」
面白がる二人を他所に、悠李の回答は淡々としたものだった。
「蚩尤様は、こちらではどのような方だったのでしょうか」
「……どうって、ねえ」
珊子は翠玲と目を合わせた。
「私は、珊子様程永くはここには居ませんので……」
二人のはぐらかす態度に不審に思った悠李は、自分が知る蚩尤と二人が知る蚩尤の人物像が違うのではと思えた。
「蚩尤様は、その……気難しい方で、敬遠する者も多いわ。人が良さそうに見えて、何を考えているかが良く分からない方……と言えるかしら」
翠玲の曖昧な表現に悠李はどことなく、当てはまる様にも思えたが、いまいち掴み所がないと首を傾げた。
「私にはとても優しかったです。勿論何を考えているかはわからないとは思いました。ですが、単に自らの考えを簡単に口にしないと言う事では?」
悠李の蚩尤を庇う発言に、珊子は悠李が騙されていると、捲し立てる様に口を開いた。
「陰険な方よ。相手の腹の中を探って、使えるか使えないかで判断するの。その上、自分の胸の内は晒さない。普段にこりともしないのに、貴女にあんなに穏やかに微笑むものだから、中身が別人とすり替わったのかと思ったわ」
珊子は悠李が蚩尤の毒牙にかかってはいけないと、その身を案じて言った言葉だったが、それも突如降り注いだ声によって止まった。
「ほう、その様に思っていたのか」
珊子は声のした方を向いた。立っていた人物に驚きはしたものの、強かに微笑んで見せていた。
「あら、いらしていたのですね」
相変わらず気配なく背後に立つ蚩尤の姿に悠李は少しほっとした。
「私のいない所で陰口とは、弁が立つ様になったな」
「蚩尤様こそ、女同士で話している時にこっそり入ってくるなど、配慮が足りないのでは?」
玄瑛の妻となれば珊子は蚩尤の義理の娘になる。玄瑛こそ義理の子息であったが、身内同士で遠慮など必要ないと、珊子は和かに微笑みながら嫌味を返した。
「蚩尤様、ご一緒に如何ですか?」
「いや、止めておこう。悠李の様子を見に来ただけだ」
「あら、城内に居るというのに随分と心配されるのですね」
「お前達が余計な事を吹き込んでいないか様子を見にきただけだ。失礼する」
これ以上余計な事を言うなよと、珊子と翠玲を睨むと蚩尤はそそくさと出て行った。
「悠李、あれが真の姿よ」
珊子は睨まれた事など意にも介さずと言った態度で、お茶を啜った。
「確かに私が見てきた蚩尤様とは違います」
悠李は楽しげに笑った。
蚩尤が穏やかなだけでは無いとは思っていたが、実際に見ると、それはそれで面白い。何より、身内として心を許してくれた様にも思えていた。
珊子には、悠李の顔に蚩尤への嫌悪など無いどころか、好意的にも見えた。
悠李ならば、蚩尤を受け入れるかもしれない。珊子は二人が並び歩く姿を思い浮かべた。
「(蚩尤様には、悠李が必要なのかもしれない)」
本当は、蚩尤に対しての警告をするつもりだったが、余計な口出しはしない方が良いだろうと、珊子は口を閉ざした。
その後も、日が暮れるまで三人の談笑は続いた――。




