一
陽皇国
海と山々に囲まれ、その姿を世界に認知される事無く存在するその国は、神々によって守護され、様々な神が信仰されている。
信仰が全てで有り、信仰が神の強さと存在を保つとされている。神を信じ、信仰心を持つ事が、その国の習いでもあった。
丹省 イルド村
秋。
北方丹省、陽皇国の北の果てにある小さな村、イルド。霊峰白仙山の寄り近くにあり、また神住む鎮守の森と共にある信仰深き村でもある。山々は紅く染まり、田は黄金色の稲穂が揺れている。秋深まり、駆け足でやって来る冬が近づく前に、稲の収穫が始まろうとしていた。村人は、収穫祭の準備の為に忙しなく動き回り、小さな村ながらに、騒がしくも穏やかなものだった。
その小さな村に、そぐわぬ大きな屋敷が一軒、村の端に佇んでいた。田舎では珍しいガラス窓を拵え、高貴な者が所有すると誰もが一目でわかる。
その屋敷の主人である男が、二階の窓から村を眺めていた。
白髪混じりの髪と口周りに髭を蓄え、高年に差し掛かった姿だが、身の丈が六寸と高く体躯の良さからも、見た目の年齢と相反する。
男は、高位な者を思わせる上等な絹の衣を身に纏い、その目に村は映すも、これと言って、興味があるわけでも無かった。
男の名は、姜蚩尤と言った。
長く勤めた仕事を後継に譲り、省都である、キアンから遠く離れたイルド村に移り住み、穏やかな日々を過ごしていたが、省都では忙しく過ごしていたのもあって、何もする事なく過ごすのが苦手だった。
白仙山や鎮守の森を伺うには丁度良い場所ではあったが、何もする事が無い。
日がな一日、本を読んで過ごすも、大抵の書物は読んでしまい、面白味も無い。だからと言って、省都に戻りたいとも思えず、怠惰とも言える日々を過ごし、窓から外を眺める事も日課になりつつあった。
友人曰く、「そんな田舎で燻っていては、中身まで見た目通りの年齢になってしまう」などと言われた事を思い出すも、本当にそうなりそうだと、思わざるを得ないほど、退屈な日々でしか無かった。
――
収穫祭も明日に迫ったある日、村は騒ついた。
その日は、鎮守の森に祭壇の確認をしに村人のカンが向かっていた。
鎮守の森に入ることは許されないため、入り口に前に祭壇を設置し収穫した供物を捧げる。収穫祭当日は収穫した物の一部を供えるのだが、祭壇を建てたからには収穫祭が終わるまで少量の供物は必要になる。今日はカンが当番になっていたため、朝についた餅を手に祭壇へ向かった。
村からはそう遠くはない。四半刻も歩けば祭壇に着く。
鎮守の森に近すぎるところには、人の手は入れてはいけないと云われている為、誰も村から鎮守の森にかけては手出しはしない。時々様子を伺う者のために、ある程度は管理された道があるが、収穫祭の為、邪魔になる草を取り払っただけで、轍ばかりで歩きにくい。皆が足元を確認しながらヨタヨタと足を取られまいと歩く。カンも同様に足元に気を使いながら歩いた。
祭壇まで着いたカンは昨日まで供物が乗っていたであろう皿に持ってきたものを捧げた。
取り替えに行くと、供物は無くなっているという。
鎮守の森の神が持っていくと言う者、動物が食べてるのだろうと言う者と考えは様々だが、神であれ動物であれ、カンは子供の時に餅を炊きながら、餅を喉に詰まらせないか心配になったが、神様がそんな間抜けなわけが無いと笑われたのを思い出した。
これで役目は終わったと、また歩き出そうとしたその時だった。鎮守の森から、草木をかき分ける音にカンは狼狽えた。この森は虫も動物も住んでいないと聞いていたからだ。
神が住む場所は神域と呼ばれ、生者には毒だ。遊びの真似事で森に入ろうものなら、出てこれないのだと伝えられている。
だが、今まさに目の前で何かが動き出てこようとしている。もしかしたら、神の姿を見れるのか、はたまた森に入れる動物がいたのか……。
茂み掻き分けるように、ゆっくりと姿を表したその姿は人間だった。外套を身に纏い、襟巻きの所為で顔は良く見えない。身の丈から男と思しきそれに、いかにも怪しいとカンは身構えた。
それは、ゆっくりと顔を上げるとカンと目があった。
カンは肩を竦ませた。
外套の隙間から紅玉の如く揺れる瞳が覗き、カンは、まるで異形のものにでも出会した様で慄いた。余りの恐ろしさに、警戒し、身を低くすると、カンの身体が波打った。
カンの手や顔、身体中から獣の毛が生え、それは全身を覆ったかと思うと、カンの姿は黒い狼へと変わった。
牙を剥き出しにし、唸り声を上げる。敵意を顕にし、怪しいそれに向けたが、それは敵意に気付く事もなく、身体が揺れたかと思うと、その場に倒れ込んでしまった。
余りの呆気なさに一瞬気は緩むも、ピクリとも動かぬそれに、カンは恐る恐る近づいた。
鎮守の森から出てきたとなればそれは、神か。
どちらにしてもカンでは判断ができなかったが、一人の人物が頭に思い浮かんだ。カンは姿を転じたまま、村への道を走って戻っていった。
村に戻ると、カンが狼に転じたままで走る姿を見た村民達は何事かと問いただそうとしたが、カンは構う事なく目的の屋敷へと真っ直ぐに向かった。
玄関先に着くなり、焦りからか、取り付けられた門環を無視し、無意識に扉を叩き大きな音を立てている。
そうして、暫くすると扉から顔を出したのは、屋敷の管理を任されているジオウ。
騒々しいと言わんばかりの顔を見せ、カンに煩いと物申そうとするも、あまりの気迫と険相に思わずたじろいだ。
基本は穏やかな村で、何かに慌てるなど珍しい事でもあった。カンは自身が出会ったものの事を伝えると、ジオウはカンに待っている様に言うと、急ぎ屋敷の中に戻って行った。
待ってる間もカンは気が気でなかった。自身が見つけてしまった物は一体何なのか、それともただの怪我人だったら――と、あれこれ考えながら扉の前をそわそわと彷徨く。
暫くすると、扉が開いた。屋敷の主人である蚩尤の姿穏やかそうな人相に安堵するも、見たものを伝えようと、ただ慌てては口が上手く回っていない。蚩尤は只々、カンに落ち着くように言った。
「とりあえず落ち着きなさい。何があった」
諌めるように話す蚩尤の姿に、少しは落ち着きを取り戻すものの、カンは落ち着いてる暇など無いと捲し立てる様に口を開いた。
「鎮守の森に供物を持って行ったら、変なやつが森から出て来たんです」
それを聞いた蚩尤の顔色は変わった。鎮守の森に何者も入れない事は蚩尤も知っていた。
「人の姿をしていました」
蚩尤は考える間などなかった。一度屋敷内に戻ると、自室に置いてあった剣を手に取り、急ぎ鎮守の森へと馬を走らせた。
カンの言う通り鎮守の森の前には一人の人間がうつ伏せに倒れていた。身の丈から男とも思えたが、外套の所為で身体つきさえ分からない。せめて顔を確認しようと近づき襟巻きをとり、無造作に伸びた髪をかき分けると、歳若い女の顔が現れた。薄汚れているが、蚩尤がそっと口に手をかざすと、僅かに呼吸が見られ、人にしか見えないそれは気を失っているだけ。
人である事に安堵もしたが、不安もあった。人の姿をしている何かではないのか。蚩尤は悶々と考えるも、その場では答えは出ない。いつまでも悩んでいても仕方がないと、女を抱えようとした時だった。
蚩尤は突如森を見た。
何者かの気配が自身を見ている様な気がしてならなかった。剣に手をかざし、辺りを探るも姿は見当たらない。
『 』
人の言葉とは思えぬ何かが確かに聞こえると同時に、ぞわりと背筋をなぞる様な寒気が蚩尤を襲った。それが何にせよ、自身には聞こえぬ筈の声だと確信し、戸惑いながらも今一度、女を見た。何かの暗示か、警告か。とても人以外の何者にも見えないが、女を抱え上げると蚩尤は馬に乗りあげた。
屋敷に運んだそれは、蚩尤にもよくわからなものだった。今の時期には必要の無い内側に毛皮の貼られた黒い外套に、ここらでは見ない衣服を身に纏っていた。持ち物も護身用と思われる短剣と、陽皇国のものと似てはいるが、見たこともない硬貨の様なものを持っているだけ。
外界からやってきた異邦人かとも思ったが、顔立ちは陽皇国の者と遜色は無い。異邦人は必ず陽皇国の南端にある海より現れると言う。北の果てである、イルドまで迷い込むものだろうか。何より、神かそれに連なる存在しか入れない鎮守の森から出てきたと言うのが、理解できなかった。
女は、まるで国を巡り続けた放浪者の様に薄汚れていたため、屋敷で働くジオウの娘達に女の体を清め着替えさせた。指示を受けた使用人達は、薄汚れた衣服とは違い、女の身体は傷ひとつ無く、旅人とは思えぬ程白い肌をしていたと言った。
蚩尤は日に二度、三度女の様子を見たが、何日待っても目覚めない。医者に見せるわけにもいかず、歯痒さを感じながらも待つしかなかった。
そして、女を見つけてから九日が経った夕暮れの事、今日も目覚めないと溜め息を吐きながら部屋を出ようとした時だった。
背筋が凍る様な気配を感じた。鎮守の森の気配と似ているが、更に悍ましいものを感じると、蚩尤は振り返り、女を見た。
「(これは……)」
異様な気配に蚩尤は汗が滲む手を握り締めた。
これは危険な存在だ。
蚩尤は明確な殺意と共に女に近づき、女の首に手を伸ばした。だがそれは、またもや聞こえた声によって阻まれた。
『 』
それは神の意思か。
今一度、女を見た。安らかに眠る顔は、人でしかない。蚩尤は思い留まり、手を引いた。
女は未だ眠ったまま、目覚める気配はない。