十七
麟省 皇都シンラン
ユーリックが姜家の別邸に着いて一刻半の後、蚩尤達も手当を済ませ到着した。
蚩尤は軽い火傷だったが、他の三人は凍傷になりかけていた。
医者はこの時期に見る症状では無い為、首を傾げるばかり。しかも一人は龍人族と、下手な事も言えず、黙々と診察するだけだった。
四人が邸宅へ着くなり女官は居間へと案内した。そこでは祝融が待ち構えており、ただ座れと言った。顔色を伺えば、少なからず共工と蚩尤には怒りを見せている様だった。
「まず共工だが、俺は殺すなと言ったはずだ。何故命令に従わなかった」
「判断が遅れたならば、危ぶまれるのは私の身だけではありません。私にはあの状況ではあれが最善と思いました」
「ユーリックを疑っていたのは俺も同じだが、まだ何も判明していない状態だった。次に俺の判断に従えんのなら、丹省の武官としての立場が無くなると思え。良いな」
「承知しました」
言葉ではそう言ったが、共工は内心、不服だった。祝融の判断が間違っているというよりは、明らかに危険な存在を野放しにしている状態が不満でしか無かった。だが、立場は祝融が上だ。上官に逆らったのなら、それ相応の処罰は当たり前の事。祝融の実子だから、何の処罰も下らないだけだと言うのはわかっていた。
「次に相柳」
「俺ですか……」
自身に対して言われることは何も無いと思っていただけに、少しばかり焦っていた。
「お前、ひどく鈍っているな」
その言葉に相柳は肩を竦ませた。兵士だった頃の方が余程、鍛錬に身を入れていたのは確かだ。
妖魔狩りも然程苦には成らない程ではあったが、ユーリックに苦戦して見抜かれていたのかと、祝融の目を直視は出来無いでいた。
「相手が女だからと高を括ったのも有るだろうが、相手の実力も計れん程とは気の緩み過ぎだ」
「申し訳ありません……」
「蚩尤、丹に戻ったら武官を全員鍛え直せ」
「承知しました」
鬼が戻ってくる。相柳には、そう思えてならなかった。過去に祝融や蚩尤、共工相手に鍛錬を積んだ事はあったが、その中でも特に蚩尤は峻厳だった。武官にまでなったのに、まだこの御仁に指導される身になると思うと身震いすら覚えた。
「豪雷も暇な時は参加しろ。俺の付き人ばかりさせていたのも有るが、これからを考えるとお前も鍛えた方が良い」
「御意」
豪雷は平然としていたが、ユーリックに負けて悔しく無いわけではなかった。祝融の直属付きである立場を思えば当然の事だった。
そして、祝融は最後に蚩尤を見た。
「それで、経緯を話す気にはなったか?」
蚩尤は祝融に面と向かった。
「……祝融様にだけ、お話します」
「蚩尤!お前ここまで来て何様のつもりだ!」
共工はそれを聞いて腹を立てたが、蚩尤は共工を視界にすら入れない。祝融は仕方が無いと、三人に下がる様に言った。命じられては、今回ばかりは共工も分が悪いと素直に引き下がるしかない。
三人の足音が遠ざかるのを聞くと、蚩尤は静かに口を開いた。
「ユーリックは如何していますか」
「今は離れにいる。明凛も一緒だ。共工と鉢合わせする事は無いと思うが……後で会いに行くと良い」
祝融は蚩尤がユーリックを心配しているのが妙な感覚だった。あまり個人に固執する様な男では無く、半年程度共に過ごした相手に、情を持つ男とも思えない。
「何故、ユーリックが白仙山を越えてきた異邦人だと黙っていた」
僅かな表情の機微を見せながらも、蚩尤は淡々と答えた。
「ユーリックが不死身と知った時、祝融様に仕える存在だと思いました。同時にどうやったら、此方に取り込めるかを考えました。彼女がこの国へ来たばかりの頃に祝融様に会わせた所で、彼女は猜疑心の塊で、不信感しか抱かなかったでしょう。ある程度、懐柔させる必要がありました」
祝融は、椅子に肘を付き、やはり思惑はあったのだと、心の内で安堵した。
「お前らしいな。だが、それだけでは納得は出来ない」
「彼女の性格、行動、実力、それらを計る時間が必要でした。祝融様に返答をしなかったのは、沈黙しか手段が無かったからです。正直、不周山での異変は計算外でした」
「適当に嘘でも吐いておけば、ユーリックを傷付けずに済んだはずだ」
「それは、後にユーリックに対しての不信感に繋がります。何より、不周山で異変が起きた事により、祝融様が何も知らないという状況も必要になりました」
「知らなければ、元老院達の前で発言する義務も発生しない、か?」
「ええ。祝融様の立場に害は及びません」
「結果的に俺はユーリックを害の無い者と判断し、ユーリックもお前を信じ、丹に取り込めそうな所まで来ていると言ったところか」
「そうなります」
悠々と言ってのける蚩尤に祝融はユーリックに対する態度が脳裏に浮かんでいた。
ユーリックが不死身だと知っていたはずなのに、蚩尤の姿は失う事を恐れている様だった。その姿には慈しみの感情にも見えた。
「それにしては、些か固執している様にも見えたが」
「……長く時間を共にし、ある程度の情は湧きました」
表情は変わらず、蚩尤が何処まで本音で話しているかは見えてこない。
「とてもそれだけには見えなかったがな」
「異国ならではの考え方や話には関心があります」
「聞き方を変える。気に入っているのか」
蚩尤は迷いなく答えた。
「出来れば、手元に置きたい」
「それは、侍従としてか?」
蚩尤は答えられなかった。判断に迷っていると言うよりは、答えたく無いと、祝融から目を逸らした。
「初めて会った時、彼女は眠りについていました。目が覚め、ユーリックは暴れるでも、怯えるでも無く、私の目を見て頭を下げました。試すつもりが、試される羽目になるとは、思いもよりませんでした」
「……随分と骨抜きにされてるな」
「礼儀を弁え、状況を読み取り、知も武も持ち合わせている。これ以上の人材を逃す手は有りません」
珍しい事もあるものだと、思うより無かった。
蚩尤は人嫌いで、自分の傍に置く人間を選り好みした。最初は、優男を装い、腹の中を暴くと、毛嫌いする。しかも、嫌悪する相手には分かりやすく顔に出すものだから、手に負えない。
浅慮を嫌い、欲目を嫌い、礼儀を弁えぬなど、もっての外だった。
ユーリックは、そのどれにも該当しなかったのだろう。
「異邦人である事と、現状の異変を除けばな」
「だからこそ、神殿に赴く必要が有るのです。ユーリックが白銀の龍に会ったなら、何かしら理由は在るはずです」
「お前が相当気に入っている事だけは良く分かった。だが、神託は無い。神殿がどう応えるかは分からんぞ」
祝融は、椅子に凭込み、未だ悩まし気な顔を見せる男に呆れすら覚えていた。
「今の所、お前の評価だけだが……ユーリックの望みは何だ。何故、白仙山に居た」
蚩尤は、目を伏せ、確かに聞いたユーリックの悲痛な叫びを口にした。
「誰もいない場所で、生きていたかったと。望みも、人の尊厳を持って生きていたいとだけ」
唖然とする祝融を他所に、蚩尤は更に続けた。
「客人として扱ったのは、礼儀があったからですが、ここまで手を尽くそうと思ったのは、他人事と思えず、放っては置けなかったのも有ります」
ユーリックがどれだけ生きているかは、分からない。
だが、どれだけの時間だろうと、誰もいない場所で生きていこうと思える程の事があったのだろう。
そして、彼女には、自らの手で死ぬことすら選択出来ないという残酷とも言える運命がある。
「私は最悪、自ら死を選べます。彼女は、それすら許されないのだと思えば、いくら私でも、同情します」
祝融は顔を歪ませ、頭を抱えた。
ユーリックが不死身と言う事、誰もいない場所で生きていこうとした事、望みが人の尊厳だけと言う事。
何も聞かなくとも、何かしら残酷な事が行われたという事だけが、容易に考え付く。
「異変が起こってしまったのならば、どの道、国は彼女の存在を知る事になる。身元を保証する者が必要です」
「俺の名の下、保護はする。共工の行いの償いをせねばならん。だが、それだけでは他の元老院が黙ってはいないだろう」
現状で、神託は無い。異変の原因が全て、ユーリックと断定されれば、糾弾は免れないだろう。
祝融は、蚩尤をじっと見た。
「……正直、俺かお前の養子にするしか、手立ては無い」
「現状で、私に身分はありません。位を戻すのも、皇帝の許しが必要です。姜家当主の養女の方が、格は上です」
「だろうな」
祝融は、姿勢を崩し、天井を仰いだ。
只の異邦人なら、どれ程楽に考えられただろうか。適当に蚩尤の連れ合いにでもしてしまえば、それで終わりだ。
だが現状、婚姻では、事足りない。誰かが、婚姻は無効と国に上奏すると、審議が執り行われる。そうなれば、立ち所に、ユーリックは無法者に逆戻りだ。
ならば、養子にするしかない。養子ならば、各省に判断を委ねられ、無効となる事も無い。だが、養子とすれば、今度は異議を唱える者が目に浮かぶ。
「彼女が納得するかどうかだが。一度、ユーリックから話を聞く。話はそれからだ」
「承知しました」
――
女官達がユーリックに差し出した衣服は上等な絹の衣だった。金の糸が織り込まれ、明らかに高価なそれに戸惑った。客人として扱う様に言われたらしく、ユーリックには拒否する術は無い。
イルドの屋敷に比べ、より格式高い邸宅に、一つの省を任されるということが、卑賤の生まれであるユーリックには、いまいち想像がつかない事ではあったが、姜一族が相当な資産家である事だけは伺えた。
ユーリックは明凛と共に離れの部屋を与えられた。離れにはいくつかの部屋が中庭を囲う様に連なっている。共工と顔を合わせ無い方が良いとの祝融の判断からだったが、来客用なのか、どの部屋も朱色を基調とした調度品で整えられ、窓の細かい細工までこだわり美しく蓮や流水の模様が彫られている。
とても、問題ある人物を泊まらせる様な部屋では無い。
ユーリックは套廊に座り、草木や花が人工的に植えられ日の光を浴びる様を眺めた。後ろには明凛が控えていたが、ユーリックに話しかける素振りすらなく、その姿勢は監視を思わせた。
それでも、先程の戦いが嘘の様に穏やかに過ごせていることが夢の様に思えてならなかった。結果は良好なものとなったが、一歩間違えれば蚩尤が、どうなっていたかと心が締め付けられた。
不意打ちの様に起こる胸の痛みに比べても、ずっと苦しい。もう、二度と味わいたく無い思いだったのに、今また恐怖が胸に広がっている。ずきりと痛む胸を押さえ、俯くユーリックの背を誰かがそっと撫でた。女の手では無いゴツゴツとした感覚に、ユーリックはそっと顔を上げると、憂いを帯びた蚩尤が隣に座り、ユーリックを労っていた。
いつから居たのだろうか。そんな思いも浮かんだが、無事な姿は一度見ているはずなのに、ただ其の姿に安堵した。
ふと、明凛が動き、蚩尤に頭を下げた。
「先程は無礼を働きました」
その声に蚩尤は立ち上がり、明凛に向き合った。
「お前は祝融様の命に従っただけだ。気にする事はない」
朱家として本来ならば剣を向けてはいけない相手だった。祝融の命とはいえ、姜一族は仕えるべき存在。明凛は蚩尤の言葉を聞いても尚、深々と頭を下げ続けた。
「少しユーリックと話がしたい。外して貰えるか」
明凛は素直に指示に従い、套廊の先へと姿を消した。
蚩尤がユーリックの隣に座ると、至る所に巻かれた包帯や火脹れを起こしている顔の痕が目についた。更には、無理をしていたのだと一目で分かる程、疲れが顔に浮き出ている。
「蚩尤様、何日も休まず此処まで来ました。お休みになられた方が……」
「不死身の貴女ほどでは無いが、不死は丈夫だ。数日飲まず食わずでは死にはしない」
それを聞いて多少は安心出来たが、ユーリックの不安な顔色は変わらなかった。
「傷は大丈夫でしたか?」
「何、貴女程重傷を負わされた訳でも無い」
「私は直ぐに治ってしまいますので、傷も残っていません」
ユーリックは貫かれた胸部に手を当てた。既に痛みは無い。落ち着いた表情を見せるユーリックに蚩尤は眉を顰めた。
「すまなかった。」
蚩尤は頭を下げた。その姿にユーリックは慌てた。
「蚩尤様の所為では有りません。私が油断したのです」
それを聞いても尚、蚩尤はユーリックを見る事は出来なかった。
「本来なら、悠々と旅をするだけの筈だった。私の目論見は大きく外れ、結果貴女に危害を加える結果となった」
「丸く収まったではありませんか。それに、とても美しいものを見る事が出来ました」
蚩尤は、漸く、ユーリックを見る事が出来た。清々しい顔と共に、微笑む顔がそこにあった。
「この国は、とても美しい。そう思える事だけでも、私には十分です」
吸い込まれるような、紅色の瞳が蚩尤を映し、女性らしく美しく微笑む。アコウを思い出しているのか、うっとりと美麗を語る姿に、蚩尤は動きを止め目を奪われた。だがそれも、自分の老いた姿を考えると、想いを打ち消す様に、目を伏せた。
蚩尤の僅かな機微に気づくも、それが何を指し示しているかは、分からず、ユーリックは首を傾げた。
「蚩尤様?」
蚩尤は、心を落ち着かせようと、息を吐くと、ユーリックの目を見た。
「何故、白仙山に居たか、聞いても良いか?」
真剣な眼差しを向ける蚩尤に、ユーリックは迷いながらも、口を開いた。
「私は、自分の意思で白仙山を選んだわけでは有りません」
その顔は、悲哀の表情が浮かんでいた。
「ある者が、白仙山は安全だと言ったのです」
「その者は何故わかった」
ユーリックは戸惑いながらも、蚩尤ならば信じてくれるのではと思い口を開いた。
「彼には、不思議な力が有りました。まるで、未来や、目に見えぬ何かが見えている様で。私は彼の指す道に従い、白仙山に辿り着いたのです」
只人が聞けば、出来すぎた話に聞こえただろう。
「全て、話してくれるか」
ユーリックは唇を震わせながら、ゆっくりと語り始めた。