十六
柑省 省都ソジュ
二人は馬を駆けた。出来る限りの時間を使って、ひたすらに東へと進んだ。宿場街を駆け抜け、ようやく辿り着いたソジュの門は夕暮れ時になり、今まさに閉じようとしている。駆け込む様に中へと入ると、何とか一息つけると宿を探した。
柑省も、雲省同様龍人族が治める領地だ。柑省治める、魏一族は、黄一族分家に当たり、それを明示する様に街並みは黄色で溢れていたが、日が沈むと、次第にそれも見えなくなり、提灯の灯が全てを橙色に包んでいた。
ガラスや陶器の工芸に富んだ街ではあったが、それらを見てまわる余裕などなかった。宿を探す中で、店の前を通り過ぎ、横目に入ったそれに、時間が無い事を恨み、惜しむばかりだった。
何より二人には休息が必要だった。ユーリックは不死身の為か、多少休めば回復するが、蚩尤はそうはいかない。
明日も開門と同時に更に東へ向かわねばならない。皇都まであと少しだが、気を抜くわけにはいかなかった。宿を取り、早々に寝台に伏せ、眠りに着いた。
――
開門の鐘が蚩尤の目を覚まさせた。長い旅路で疲れが溜まっていたのか、深い眠りのおかげで軽くなった身を起こすと、ユーリックの横顔が目に入った。ユーリックは既に用意を済ませて、窓から街を眺めていた。
ユーリックに朝日が当たり、窓から流れ込む風によって、髪は優雅に靡いている。元より、端正な顔立ちではあったが、余裕ある彼女の姿は、蚩尤の目に何よりも美しく映った。
ユーリックは、少ない時間を惜しんでいるのか、外の景色から目を離さずに蚩尤に語りかけた。
「……身体は大丈夫ですか?」
「ああ、問題は無い」
「無理をされている様だったので、起きるまで待ちました」
今までは、蚩尤を疑う様な眼差しが多く、信頼はなく警戒していることが多かった。
今は違う。蚩尤を信頼し、心にも余裕ができていた。
堂々とした姿は、ユーリックが生きた年月を思わせた。蚩尤の方が、より長く生きているが、彼女はそれに勝るとも劣らない様を見せている。
「何が見える?」
「朝日が昇る姿が、どの街も違って見えて素晴らしいです。日が昇る姿が美しいと思った事など、あちらでは無かったのに」
自然と顔が綻び、蚩尤に笑顔を向ける。此方に来たばかりの様に怯えるでもなく、ただ従順な姿な訳でもない、女性らしい姿に蚩尤は心を揺さぶられた。
惑わされそうだ。そんな考えが、蚩尤の頭を過る。気の迷いだと身を起こし、ユーリックに向き直った。
「皇都まで、あと少しだ。そろそろ出立した方が良い」
「わかりました」
その言葉でユーリックはまた、冷静な顔を取り戻し、従順と言える姿に蚩尤は安心した。
二人は宿を出る頃には、既に多くの人々が門へと向かっていた。外門の外にある畑や農場へ向かう者、旅人、皇都へ向かう商人と、様々だ。馬を引き、人の波に乗る様に二人も同じ方角へと向かった。
穏やかな、朝日が溢れる中、蚩尤は、辺りに違和感を感じた。人々の気配の中に、気配を消して動く者達が複数。
それは、ユーリックも同様に感じていた。
「(……何だ?)」
辺りを探るも、人が多すぎて、判別が付かない。前を行く蚩尤が険しい顔つきで振り返った時だった。
「蚩尤、動くなよ」
蚩尤よりも身の丈のある男が深く外套を被り、蚩尤の背後に立ち、肩に手を置いていた。
蚩尤の額からは汗が流れ、鬼気迫る表情が、全てを物語っている。
「そこの女もだ」
ユーリックは、喉に鋭い痛みを感じた。男に気を取られ、知らぬ間に背後には同じ様に外套を被った人物の鋭い爪が喉元に当てられ、血が流れていた。
「此処は人が多いな。門の外まで、同行願おうか」
その声を合図に、今まで気配が消えていた者たちが姿を現した。
外套から僅かに見えた金の瞳で龍人族と思しき人物が一人と、目立つ程大柄な男。
二人は、それぞれユーリックと蚩尤の逃走を阻む様に隣に立つと、歩調を合わせて歩き、更に一人が現れ、馬を取り上げられた。
門を抜け、暫く歩くと、近くにある森へと誘導され、辺りが見通せないほど深く入ると、歩を止めた。
前方には、大男と、龍人族。そして、馬の手綱引く、もう一人の女と思しき人物。
拘束こそされなかったが、蚩尤の背後の男は、肩に手を置いたまま離す事は無い。同様に、ユーリックの背後に居た者も、爪が首に食い込み、その鋭さが、未だに痛みを与えていた。
「蚩尤、こんな形で再会するとはな」
男が静かに口を開いた。背後にいる為、顔色は伺えない。
ただ、穏やかな口調とは裏腹に、殺意にも似た敵意だけが、ユーリックに向けられていた。
「釈明はあるか?」
「祝融様、どうか見逃しては貰えませんか」
「お前らしくないな。お前は明確な意志を持ち、行動すると思っていた。今も尚、話す気すらないとは……その女に惑わされたか?」
蚩尤は答えなかった。
ユーリックは、諦めさえ覚えていた。どう考えても、逃げる算段など思い付かない。
気配を断つ技術を考えても、この者達は皆、手練れだろう。逃げるにも馬も奪われた。
わざわざ、人混みに紛れたのも、蚩尤が暴れてまで逃げないと考えたとしか思えない。
足では、龍からは逃げられないだろう。不安に駆られ、横目で蚩尤を見るも、その表情に焦りは無く、僅かにユーリックを見た。
「蚩尤、何か言ったらどうだ」
何も答えない蚩尤に苛立ったのか、祝融の声には怒りが篭っていた。
「祝融様、残念ながら、今はお答え出来ません」
「あの女を庇っているのか?その理由すら答えられないと?」
祝融の手に力が篭った。蚩尤の肩に食い込む程の力。
今だ。蚩尤は、何の前触れもなく祝融に振り返ると、蚩尤を掴んでいた、その腕を思いきり振り払った。
あまりにも突然で、祝融の手が、僅かに蚩尤から離れた。
その瞬間、突如として、蚩尤を中心に辺りに霧が立ち込めた。
「蚩尤!」
祝融が慌てて叫ぶも、既に、全てが霧に包まれていた。
ユーリックは霧以外何も見えなくなり、全てが閉ざされていた。前方にいた者達も、殺気も、声すら無くなった。
背後に居た者も、動揺してか、その手が僅かに首から離れた。
ユーリックは、肘で鳩尾に一発入れると、男と思しき唸り声と共によろめき、ユーリックの体から離れると、その気配すら霧に飲み込まれてしまった。
「(……これは?)」
自然に起こった霧で無い事だけが分かったが、方角など判別できず、蚩尤の存在も何も見えなかった。どうして良いものかと、歩を進めようとした時、手に何かが触れた。
「ユーリック」
声と共に、蚩尤の存在が、はっきりと目に写り、ユーリックの手を引いていた。
「この馬に乗れ」
蚩尤の手には、黒馬の手綱が握られ、よく見れば、もう一頭の手綱も同じ馬に繋がれていた。
「私が触れているものしか、認識出来ない。先に馬に乗ってくれ」
ユーリックは、それに従い黒馬に跨ると、蚩尤も同じ馬に乗った。
霧の中、ユーリックには自分が何処にいるのか分からなかったが、蚩尤は見えているのか、迷いなく馬を進めていた。
「蚩尤様、これは一体……」
「私の力だ。数百年生きてきて、初めて役に立ったな」
蚩尤は以前、異能があると言ったのを思い出した。あの時は、大して気にも留めなかった異能が、これ程のものなど、ユーリックは想像もしていなかった。
「(魔術など、この力の前では霞んでしまいそうだ)」
一瞬で、全てを飲み込み、掻き消すなど、誰が想像出来ようか。魔術が人の力なら、異能は正しく神の力と言えるだろう。
「祝融様も、この力の前では私を見つける事は不可能だ。暫くは、時間稼ぎになる」
蚩尤は、馬を駆け足で進め続けた。
どれくらい経った頃か、徐々に霧は薄くなり、気付けば、森を抜けていた。
「あまり時間は無い。一気に駆け抜けるぞ」
――
霧が無くなり、当たりが見渡せる様になるまで、祝融はその場に座り込み、何もする事が出来ずにいた。
蚩尤以外、何も認識出来ず、霧から出る事も出来ない。霧が晴れた事で、それまで認識出来ていなかった、全員が殆どその場を動かず、そこにいた。
攻撃性は無いが、何とも恐ろしい力だと、祝融は溜め息混じりに空を見上げた。
共工が辺りを見回すも、既に二人の姿どころか、馬も居ない。
「……初めて、蚩尤の異能を見ました」
「俺もだ。あいつは、使えないと毛嫌いしていたが……やってくれる」
蚩尤は、武だけが強さだと言った。その言葉通り、異能に頼る事は皆無で、剣技だけを磨き続けていた。実際、使える機会も無かったのだろう。永く共に過ごした祝融すら、その力の片鱗すら見る事は無かった。
蚩尤が祝融の隙をずっと窺っていたのかと思うと、祝融は感心してしまいそうになっていた。
祝融は重い腰を上げると、また溜め息が出た。
「さて、追うか」
向かう先は、それとなく分かっている。
恐らく、皇都。
――
二人は街道を外れたまま、東へと駆けた。昼も夜も。ひたすらに馬を走らせた。食べる事も、眠る事も忘れ、馬にも休みを与えなかった。
そして、四日が経った頃、麟省まであと僅かと言うところで、ユーリックが乗っていた馬がその場に倒れた。ユーリックは飛び降り、馬に駆け寄ったが、馬が起き上がる事はなかった。無理をさせているのは分かっていた。
ユーリックは馬を二、三度撫でたが、馬はぴくりとも動かない。
「ユーリック、行こう」
蚩尤が乗っていた馬も限界だった。蚩尤も馬を降り、馬の鞍を外すと、馬はもう一頭に擦り寄り、その場に座り込んだ。
必要な物だけを身につけ、二人は歩き出した。ユーリックは惜しむ様に何度も馬の方を振り返ったが、馬が動く事は無かった。
二人は黙々と歩き続けた。馬もいない今、到底逃げきれないと分かっていても、前に進み続けるしか無かったが、それも、額は続かなかった。
麟省に入り、暫く立った頃、空に陰りが見えた。天を仰ぐと、黒い龍と赤い龍が空に舞い、二人の目の前に降り立った。
黒い龍の背から祝融が姿を現した。外套から顔を出し、壮年を思わせる顔は険しくユーリックを一瞥すると蚩尤を見た。
「蚩尤、まだ逃げるか」
その声は深く低く、怒りを含んでいた。
「祝融様、私は彼女を皇都へ連れて行きたいだけ。出来れば、お引き取り願いたい」
「……それは無理な相談だな。異変が続々広がっている。目で見るまでは、お前を信じていたが……俺が間違っていた様だ。その女から離れろ」
祝融は腰に帯びた剣に手をかけると、殺気を放ちユーリックに向けた。それと共に赤色の龍に乗っていた二人も、その背から降り、二頭の龍は人の姿に変わった。
山賊とは格が違う。四人は祝融の背後に控え、異様な空気が漂い、全ての殺気がユーリックに向けられている。
蚩尤はユーリックを庇う様に前に出た。それを見た祝融の顔色は明らかな怒りに変わった。
「それは、どう見ても人では無いだろう。お前には分かっていた筈だ。唆されたのか?」
それを見ても尚、蚩尤は冷静だった。
「彼女は人です」
「馬鹿を言え、見た目が人なだけだろう」
祝融は剣を抜いた。それを見て、蚩尤も迷い無く自身の剣に手をかけた。
「ユーリック、逃げろ」
ユーリックは蚩尤を置いて逃げられるはずなどなかった。何より、逃げたところで追いつかれるだろう。
「……何も、御恩が返せず、申し訳ありません」
まるで最後の言葉だった。
身に覚えの無い事だが、これ以上逃げる事は不可能だろう。最早、立ち向かうしか、手段は無い。今も、蚩尤は一言二言言い逃れでもすれば良いのに、余計な事は話さず、ユーリックを守る様に前に出ている。そんな男を見捨てて逃げるなど、選択できる訳もい。ユーリックは決心し、蚩尤の隣に立つと、剣を構えた。
祝融はユーリックのその姿に違和感を覚えた。何故、蚩尤を見捨てて逃げないのか。
祝融に迷いが生まれたのを共工は見逃さなかった。
「祝融様、どうやら蚩尤は正気を失っている様です。宜しいですね」
共工の言葉に、祝融はどの道この状況では他に手は無いと口を開いた。
「殺すなよ」
その言葉と共に、四人は剣を抜き踏み込んだ。
共工は一目散にユーリックに向かった。剣を振り、ユーリックの胴を狙うも、すかさず蚩尤が前に出て、それを受け止めた。
共工の剣は重いが、蚩尤はいとも簡単に受け、共工を弾き飛ばした。
蚩尤はそのまま共工に向かい、剣がぶつかり合い、金属の音が響き渡った。
その隙に相柳が、ユーリックに迫った。横から相柳が剣を突くのが見え、ユーリックは後ろに飛び退いたが、既に豪雷が回り込んでいた。ユーリックは身を翻し、剣を弾いた。
蚩尤は、ユーリックを気に掛ける余裕がなくなっていた。共工に加え、明凛も蚩尤を阻んだ。
何より、いつ祝融が動くかが分からなかった。共工や明凛だけならまだしも、祝融だけは、とても蚩尤に太刀打ち出来る相手では無い事は分かりきっていた。
「(これほど厄介な相手もいない)」
共工の剣を受けながら、何か策はないかと考え続けていた。
「蚩尤、相変わらず出鱈目な強さだ」
祝融と豪雷を除いて、ここにいるのは皆武官だ。蚩尤も長く剣を置いていた筈なのに勝てない。明凛もいて、勝機など見えては来ないと共工は怒りすら覚えていた。
蚩尤は剣で負けた事など、一度も無かった。異能は役に立たないと、ひたすらに剣技だけを磨き続けた。
鬼神の如き強さとは正にこの事だろうと、誰もが、その強さに感服した。
「これで武官とは、つまらんものだ」
蚩尤はわざと煽った。共工の性格をよく知っていたのもある。
共工の顔には怒りが満ち、剣を握る手により一層に力が入ると、大振りになった剣を蚩尤はいとも簡単に弾き飛ばした。
得物を失った共工を剣の柄で、こめかみを殴ると、共工は地に臥した。
蚩尤は直ぐ様、明凛へと向き直った。
明凛が焦らない訳が無い。共工が勝てないならば、自分には敵わないだろう。そんな弱気な考えは直ぐに蚩尤によって見抜かれた。
剣を握り直し、間合いを取ろうと一歩下がると、蚩尤はそれを見逃す事はなく、一瞬にして懐に入った。
明凛は慌てて蚩尤の剣を受け止めたが、蚩尤の力を受け止め切れず、剣は折れた。それでも明凛は抗おうと体勢を立て直そうとしたが、蚩尤に背後に回り込まれ、後頭部に一撃をくらい気を失い倒れた。
「やはり無理か……」
後ろで控えていた祝融が動いた。ゆらりと前に出る姿に、蚩尤は再び剣を構え直す。
そうなる事は蚩尤もわかっていた。本音を言えば、祝融に剣など向けたくは無い。何より敵う相手では無い事は百も承知だった。
祝融の身を包む様に、炎が何処からともなく現れた。辺りは一気に熱を帯び、地面に生えていた草は熱量だけで枯れていく。
祝融の異能こそ、戦う為に持って生まれたものだ。蚩尤も幾度となく、それを目の当たりにしていたからこそ、剣技だけでは敵わないと悟っていた。
「お前に剣では敵わん事は分かっている」
祝融は剣にも炎を纏わせた。
「蚩尤、今ならまだ間に合う。あれを見捨てる気は無いか?」
蚩尤は静かに答えた。
「私は導く者に選ばれた。それに従う迄」
「……そうか」
――
ユーリックは防戦一方になっていた。
豪雷、相柳どちらも強く、二人がかりでは受けるのが精一杯だった。
「(……強い)」
蚩尤程の強さでは無いものの、隙を見せれば一瞬で斬られる事はよくわかっていた。だが、剣だけでは負けてしまう。ユーリックは左手に力を込めようと、一瞬気が逸れた。
僅かな隙に相柳が今だと言わんばかりに、ユーリックの右腕を狙った。
ユーリックはそれを剣で受け止めると、相柳の右腕を掴んだ。相柳の腕はたちまち凍りつき、彼は経験した事の無い痛みに身悶え、よろめいた。ユーリックは、相柳の顔を掴むと、容赦無く、そのまま地面へと叩きつけた。
女の力では無い。相柳は意識こそ有ったが、衝撃の所為か、目が回り身を起こす事が出来ず、そのまま天を仰いだ。
豪雷は今だと、斬りかかるも、ユーリックは華麗に身を翻し、後ろへ飛んだ。
豪雷はユーリックに警戒する様を見せ、間を置いたが、ユーリックはにじり寄り、踏み込んだ。形成逆転と言わんばかりに、豪雷に向かって剣を打つ。
豪雷は女とは思えない剣の力強さに驚いた。龍人族に異能は無い。力強さこそ彼等の得意とするものだった。剣を振るえば、幾人の人間の男を弾き飛ばすなど容易な事だった。
だが、どれだけ力を込めようとユーリックは受け止め、更には反撃してくる。
力こそ、豪雷に劣るが速さはユーリックの方が上だった。一対一になったが好機と見て、豪雷に隙を与えようとはしない。
間合いを詰め様にも、左手を警戒して躊躇してしまう。
僅かな豪雷の迷いに、ユーリックは更に踏み込んだ。姿勢を低くし懐に入り込み、豪雷の右足に触れた。
立ち所に豪雷の足は凍りつき、動かなくなった。凍りついた痛みなのか、感覚が麻痺したのか、足は思う様に動かない。
それでも倒れない豪雷にユーリックは思い切り打ち込んだ。豪雷は剣で受け止めたが、剣は弾き飛ばされ、空いた胴に、ユーリックの蹴りが入った。重い体は、見事に飛ばされ、思う様に動かない足も相まって豪雷は立ち上がれなくなってしまった。
ユーリックは息つく間も無く蚩尤へ目を向けた。
蚩尤は祝融と剣を交えていたが、異様な光景に目を疑った。
祝融は炎を纏い、その熱はユーリックにまで届く程だった。剣では蚩尤が優勢だったが、その炎は生きているかの様に動き、蚩尤を襲った。炎が邪魔をし、蚩尤は思うように動けてはいない。
「(あれが、異能……)」
魔術が粗末な力に思えてならなかった。
猛々しく祝融を守り、揺らめくそれは、蚩尤の霧と同じく人の力の敵うものでは無かった。入り込む余地のない戦いに、ユーリックは只、呆然と見ているしか無かった。
ふと、周りを見渡した。ユーリックが相手した二人と蚩尤が相手していた女、そして……
「(……一人いない)」
大男の姿が何処にも無かった。ユーリックは慌てて辺りを警戒したが、時は既に遅く、共工は背後にいた。
ユーリックは振り返り剣を構えるも僅かに遅く、剣を握っていた右手は掴まれ、共工の剣が、ユーリックの胸を貫いた。
激しい痛みが襲い、口から血が溢れ出て、息すらままならない。ユーリックは朦朧とする意識の中、共工を見たが、その目に感情は無かった。
共工が勢いよく剣を引き抜くと、ユーリックは音を立て、地に臥した。
蚩尤の視界に、ユーリックの姿が入り込んだ。俄に祝融を弾き飛ばし、急ぎユーリックに駆け寄った。
「ユーリック!」
「馬鹿者が!殺すなと言っただろう!」
祝融の怒声を気にする様子もなく、共工はユーリックを見下ろすだけだった。
「これで片が付いた」
共工を払い除け、蚩尤はユーリックを抱えた。蚩尤はユーリックが不死身である事は知ってはいたが、だからと言って、その力を見た事はない。
「ユーリック!」
「もう死んでる。祝融様、蚩尤の処遇はどうされますか」
既に事は終わったと、祝融に向き直り、蚩尤とユーリックに背を向けた時だった。
背筋が凍る様な気配が辺りを漂った。それは祝融も蚩尤も、そこにいた全員が感じた。
ユーリックから滲み出る異様な気配に誰もがそちらを見た。
僅かに、身体が動いた。やがて、胸が上下し、呼吸が始まった。
生き返った。そうとしか言えない状況に、蚩尤だけが、安堵していた。そして、蚩尤の腕の中で、ユーリックは静かに目を開けた。
「……シユ…サ…マ」
口の中に血が溜まったままで、上手く話す事が出来ないが、その目は、確かに蚩尤を映していた。
「……蚩尤、それから離れろ」
祝融は再び蚩尤に剣を向けた。異常な存在を大事そうに抱える男は、もはや自分が知っている者ではない。
蚩尤は祝融の様子を気にする事なく、ユーリックを腕に抱いたまま立ち上がった。
「祝融様、私はユーリックをこういう目に合わせない為に貴方を避けていました。だが、結果は変わらなかった」
「何を言っている。その女は何だ」
蚩尤は腕の中で痛みに呻くユーリックに目を落としたまま答えた。
「ユーリックは死を持たない。殺す事は出来ません」
その言葉を耳にした途端、共工は再び剣を振り上げた。
蚩尤の存在を気にする事なく、ユーリックの首を狙ったが、一歩踏み込んだところで、共工は動けなくなった。
足は凍りつき、地に根を張る様に一歩も動けない。足元を見れば、赤い陣が浮かび上がっていた。
それが意味するものは分からなかったが、共工はユーリックを見た。僅かに開いた赤い目は、共工を捉えていた。
「祝融様、昔の様に首を落とされますか?」
祝融はユーリックを見据えた。
ユーリックからは一度も殺意を感じなかった。
殺そうと思えば、共工達も殺せただろう。彼女は自身を守る行為しかせず、蚩尤の身を案ずるばかりで、悪意も、害意もユーリックからは見えなかった。
「ご決断されたのなら、私ごと斬れば良い。死ぬのは私だけですが」
命を懸けると言ったも同義の男の言葉に、祝融は剣を鞘に納めた。
「……皇都へ案内する」
「祝融様!」
共工は祝融の決断に声を荒げたが、祝融は一喝した。
「お前も命令に反した。俺は殺すなと言ったはずだ。死なない身だから良かったが、やり過ぎだ」
祝融はユーリックに近づいた。
「非礼を詫びよう。悪いが、あれらはどうやったら治る?」
ユーリックは共工達を見た。蚩尤はそのまま手を貸そうとしたが、もう治ったと、一人でふらつきながらも立ち上がり、まずは相柳に近づいた。凍った部分に触れると、腕はたちまち元に戻った。
「凍傷にはなっているかもしれない。医者には診てもらった方が良い」
豪雷や共工も同様に治した。
それを確認して、祝融は明凛を起こすと、気怠そうに身を起こし、暫くすると意識がはっきりしたのか、あっさりと立ち上がった。
状況がはっきりとしないが、祝融の落ち着いた様子からどうにも事は治った様だと、明凛は胸を撫で下ろした。
「明凛、俺とこいつを乗せて皇都の別邸まで行ってくれ」
「承知しました」
「豪雷は、飛べるか?」
「何とか」
「ならば、そいつらと一緒に医者に行け。その後に別邸まで来い。蚩尤の処遇は、その後決める」
明凛と豪雷は、それぞれ距離を取った。明凛は赤色の龍に、豪雷は黒い龍に転じた。
ユーリックは威風堂々とした、その姿に息を飲んだ。
今迄に龍が飛んでる姿は見たが、人から龍へと転じるのを見たのは初めてだった。
蚩尤と離れる事に多少の不安を覚えたが、蚩尤は大丈夫だと言った。
「行くぞ」
ユーリックは祝融に引き上げられる様に、明凛の背に乗った。
馬の様に鞍はなく、鱗が硬い。何処に捕まれば良いか分からず、滑り落ちてしまうのではないかと思ったが、それを案じてか、祝融が背後から支えていた。
明凛は、ユーリックが背に乗ったのを確認すると、ゆっくりと浮かび上がった。次第に高く上がり、前進し始める。徐々に速くなり、空を駆け抜ける。ユーリックは目を見開き下を眺めた。
「前を見てろ」
祝融の言葉に、ユーリックは前方に視線を戻した。
広大な緑の景色が広がり、見た事もない景色にユーリックは言葉もなかった。幾つかに村や山を越え、皇都の城壁が見え始めた。街を行き交う人が捉えられるほどに高度が降り、一軒の邸宅の敷地内に明凛は降り立った。祝融は先に降りると、ユーリックに手を差し出した。ユーリックはその手を取り、滑るよう降りた。
「(初めて空を飛んだ)」
不謹慎ではあったが、ユーリックは高揚感で一杯だった。この国に来てからと言うもの、見たことも聞いた事も無い事ばかりだったが、龍の背に乗って空を飛ぶなど、本当に夢物語の中の出来事の最たる物のように思えてならなかった。
「とりあえず、着替えて来い。明凛、女官を呼んで風呂を用意する様に伝えろ。その後は、こいつに付いてやれ」
明凛は頷くと、颯爽と中へ入っていった。
ユーリックは自身を見た。見事なまでに血がべっとりと着いた衣服。胸を貫かれたのだから、仕方がないとは思ったが、ふと背中も同様なのではと、恐る恐る祝融に目を向けてしまった。龍に乗っている間、背後で支えていた男の衣は、見事なまでに血で赤く染まっていた。
ユーリックは祝融の着ている、いかにも高価な衣の価値が見当がつかないだけに、顔面蒼白になっていた。
「申し訳ありません……」
その表情に祝融も自分の衣を見た。
「……あぁ、気にするな。元を辿れば愚息が原因だ。請求などしないから安心しろ」
愚息とは誰を指すのか、一瞬考えたが、剣を刺した男が頭に過った。目の前の男は、壮年を思わせるが、大男はそれよりも上に思えた。基準がわからず、頭を捻ったが、それも祝融の言葉に遮られた。
「蚩尤と旅をしたのは何が目的だった?」
唐突な質問ではあったが、既に敵意も無い男に対して警戒する必要も無く、ユーリックは淡々と述べた。
「最初は、ただ、少し出かけて見ようと、雲省都を目指しました」
「……それだけか?」
ユーリックは頷いた。
嘘をついている様な顔では無かった。
「ただ、途中で異変が起こったと言われ、アコウから、皇都を目指しました」
「……異変を起こしたから、逃げたのでは無く、異変が起こったから、皇都を目指した……か」
「蚩尤様は、白神に頼るしか無いと言われて……神殿に行けば、力を貸してくれるかもしれないと言われて……」
「お前は、どうやってこの国に来た」
「私は自分の意思でこの地に来たわけではありません。白仙山に留まっていたら、白銀の龍に出会い、気付いた時にはイルドに居ました」
ユーリックの目は真っ直ぐに祝融を捉えていた。誠実そのものの姿に祝融は肩の力を抜いた。
「……お前の全てを信じ切れたわけでは無いが、神殿へは俺が連れて行こう。神子に面会するには、神殿の許可が必要になる。俺から書簡を送れば返答は早いやもしれん」
「ありがとうございます」
「その間は此処で過ごせ。蚩尤も後で来るだろう」
見計らった様に明凛が戻り、ユーリックを中へと連れ立った。祝融はそれを見送り、自身も邸宅の中へと入っていった。