十
明朝、祝融は麾下である玄豪雷と共に城の広場にいた。
豪雷は龍人族の玄家の一人だった。龍人族は皇帝の命でも無い限り、人を背に乗せる事は余り無い。
豪雷は、祝融の為人に好感を持ち、自ら彼に下ることを決めた。勿論、玄家からは反対されたが従わなかった。二度と戻るなと親に言われたが、彼にはどうでも良いことだった。
豪雷は祝融と距離を取ると、その身を黒い龍へと転じさせた。頭には角が生え、尾が現れ、爪は鋭くなり、黒い衣は鱗へと変わっていった。祝融が豪雷の背に乗ると身体が浮き上がり、空へと飛び立った。
向かう先は、現在蚩尤が住む、イルド村。
蚩尤に志鳥を送ったが、二日経っても返事が無い。何かあったのかも知れないとも思ったが、暫く会っていないのも有り、久方ぶりに祝融は様子を伺いに行く事にした。
馬では不周山を迂回する事しか出来ず、十日以上かかる距離だが、龍ともなれば僅かニ刻とかからない。
暖かい春の日差しの中を、馬よりも早く空を駆け抜けた。川を越え平原を越え山を越える。暫く行くと平原が青々とした稲穂が揺れる田畑に変わる。田畑のその先に小さな村が見えた。その中でも一際目立つ屋敷が見えると豪雷は高度を下げ、敷地内に降り立った。
豪雷は祝融が背から降りるのを確認すると、人の姿へと戻った。
屋敷の門環を叩くと、二人を出迎えたのは、屋敷を管理しているジオウだった。ジオウは二人の姿に驚く様子は無く、当たり前の様に頭を下げた。
屋敷は姜一族の所有物で、祝融も蚩尤が此処で暮らす前は時折使用していた。姜一族は幾つかの別邸を持っていたが、その中でもイルドが一番静かだと、過ごしやすい春にのみ休暇を過ごした。
本来ならば今は、その時期に当たるが、異変が起こったとなれば休暇などと言っている暇など無い。
「祝融様、豪雷様、お久しぶりです。ご滞在ですか?」
「いや、蚩尤に会いにきた」
その言葉にジオウは戸惑った。
「蚩尤様でしたら、お連れ様を伴って出掛けられました」
祝融は思いもよらない答えに耳を疑った。蚩尤からは何も聞いていない。
「出かけたとはいつだ」
「十日程前です。暫く戻らないと聞いています」
「何処に行った」
「雲省に行くとだけ聞いておりますが、詳しくは……」
蚩尤が省都にいた頃は、家に閉じ籠り、出かけようとしなかった。それを思えば、行動を起こした事は喜ばしいが、祝融に連絡する手段があるにも関わらず、何も伝えずイルドを離れたというのが信じられなかった。
「連れとは誰だ?」
「ユーリックという女性です。去年の秋ごろに突然現れました」
祝融は耳慣れない名前を不審に思った。
「村の者が見つけたらしいのですが、鎮守の森から現れたとかで。蚩尤様が言うには、誤って鎮守の森に迷いこんだ旅人だと……ここ半年は客人として滞在されていました」
鎮守の森から現れたというのに、蚩尤は祝融に何も告げなかった。蚩尤が異変と判断しなかったのか、それとも別に理由があるかはわからない。蚩尤が見せる行動は明らかに不審とも言えた。
「その女の特徴は、わかるか?」
特徴と言ってもジオウが思い出せるのは、黒髪に紅い瞳だけだった。ジオウはユーリックの事をよく知らなかった。何度か会話をしたし、自身の仕事も何度も手伝ってはいたが、名前と性別程度しか、思い出せない程度だ。
「歳は二十中頃、容姿は端正で黒髪に紅い瞳が目立つ事ぐらいで……そう言えば、彼女の持ち物が残っています。」
そう言うと、ジオウは屋敷に入った。祝融と豪雷もそれに続き、ユーリックが使っていた部屋へと案内した。部屋の片隅には、小さな袋が一つ置いてあるだけだった。祝融はその袋を手に取ると、中に入っていたものを手の上に並べた。
「……これは、金か?」
陽皇国のものでは無い硬貨に似たそれに、祝融は首を傾げた。
「豪雷、見覚えはあるか?」
「祝融様が見た事が無いのであれば、私には検討もつきません」
祝融は硬貨から目を離す事無く、ジオウに話し掛けた。
「女はどんな人物だった」
「……礼儀正しく真面目で、仕事をよく手伝って頂きました。蚩尤様が、その方を甚く気に入られていた様で、良くお話をされたり、散歩に出かけられたりしていました」
祝融には、耳を疑うような事ばかりだった。
蚩尤は人嫌いが酷い。どうでも良い相手や、都合に合わせて、愛想は振りまくが、毛嫌いする相手は視界に入れる事すら嫌がる。潔癖では無いが、そんな男が珍しく気に入ったという事が信じられないとしか言えなかったが、与えられた部屋と、話を聞く限りでは、客人としてもてなしていたというのも、相当に気に入っての事だろうと思えた。
あまりの珍しさに、ジオウ相手に、その女に惚れたのかと疑惑を投げかけそうにもなっていた。
「後は、蚩尤様と何度か剣を交えていた事ぐらいです。蚩尤様が久しぶりに、手応えのある相手だったと言っていたのを覚えています。それと、娘が言っていたのですが、彼女は最初、季節外れの毛皮の外套と見た事も無い衣服を着ていたと。それはあまりにもボロボロで捨ててしまいましたが……」
耳慣れない名前に、この国の物では無い硬貨らしきものに、見た事も無い衣服。言葉は通じていた様だが、祝融の中で、僅かに覚えのある考えが浮かんでいた。
「そうか……もし蚩尤が戻ったら、連絡する様に伝えてくれ」
「承知しました」
祝融と豪雷は屋敷を出た。歩きながらも、祝融は思考を巡らし、手に持ったままの硬貨をまじまじと見続けた。
陽皇国と違い、文字がはっきりと分かる。打刻された文字は理解出来たが、あまりにも出来が良すぎた。
同じ物が数枚あったが、見た限り、どれも寸分違わず同じ形をしている。陽の物はもっと歪だ。重さは同じでも、形は並べると同じとはいかない。
「祝融様?」
「昔……似たような事があった」
祝融はどれだけ前かは思い出せ無かったが、一人の異邦人が頭に浮かんでいた。
「言葉が通じない青海から来た異邦人が持っていたものの中に、硬貨と思われる物があった。やはり、見たこともない形だった」
祝融は硬貨を袋にしまうと、懐に入れた。
「豪雷、一度キアンに戻る」
その言葉で豪雷が龍へと転じると、祝融は颯爽と背に乗り、イルドを後にした。
城へと戻ると、玄瑛がいる執務室へ向かった。部屋にいた文官達を下がらせ、玄瑛に事の次第を話すと、蚩尤の様に驚きのあまり、目を丸くし黙り込んでしまった。
「お前は何も聞いていないな」
「聞いていません。イルドに行ってからは志鳥も送っていませんでした」
「女は多分、異邦人だろう。只の異邦人なら、蚩尤が女を連れて旅行か観光にでも行ったと喜んでやれたがな……」
無気力だった頃を思えば、何かに興味を持っただけでも、祝融にとっては嬉しい限りだった。
「問題はその女の出所だ。青海から現れる異邦人がわざわざ陽の最北端にいるのは何故だ?」
丹に海は無い。背後に聳える白仙山があるだけで、海から最も遠い省だ。そして、イルドは人が住める土地で、最果てに当たる。海から誰の保護も受けずに此処まで来れるものだろうか。
祝融にはそんな思考が浮かんでいた。
「異邦人が現れた報告は?」
「無い。容姿は赤目が目立つ程度だそうだ。言葉も通じる。どっちにしろ、誰も気づかんだろう」
「何を疑っておいでで?」
祝融は推測の段階で口にするのはどうかとも思ったが、余りにも不自然だった。何より、同時期に不周山で異変が起こった事が、祝融には引っ掛かっていた。
「……白仙山を越えた、とかな」
「あり得ないでしょう。人では無理です」
「人で無いなら?」
玄瑛は突飛な発言に、また目を丸くしたが、鎮守の森から生きて出て来た事を考えると、その考えがあり得るものにも思えた。
「蚩尤が異邦人の連絡を怠った理由を考えるなら二つしかない。必要が無いと判断したか、隠さなければならない事が起こったか」
「父上が、その異邦人を庇う理由など無いでしょう」
「なら何故連絡も無く消えた。……どうにも納得いかない事が有る」
必要が無いと判断したにしても、祝融から志鳥が送られたにも関わらず、連絡を返さない事がより一層の不信感を募らせていた。
「如何しますか」
「蚩尤はイルドから雲省へと向かったそうだ。朱家の者達に蚩尤が何処へ向かったか調べさせろ」
「御意」
「俺はこれから皇宮へ向かう。あとは任せる」
祝融立ち上がると、背後に立つ豪雷に向いた。
「すまんな、今度は皇宮だ。頼む」
「問題ありません」
祝融は再び玄瑛に向き直った。
「今はまだ何もわかっていない状態だ。異邦人の事は他言無用だ」
「承知しました」
玄瑛は頭を下げた。諸侯になっても尚、玄瑛にとっては、祝融が主だった。そして、蚩尤にとってもそれは同じはず。玄瑛は頭を下げながら、義父が何を考えているかが分からず不安になっていた。
不安を悟られない様、顔には出せないまま玄瑛は祝融の背中を見送るしかなかった。