零
白銀の世界が広がっていた。
どこまでも続く雪原。虫も、鳥も、動物も、何物も寄せ付けないとされるその山は、神が住むと言われている。
辰帝国の南部に天高く聳え立つ、白き山。その山の雪が溶ける事は無く、目に見えぬその先は、永遠の冬が続いていると噂されていた。
そう、あくまで噂だ。その先を見た事がある者などいない。居たとしても、生きては帰ってはこれないのだと言う。実際、無謀にも、その先を確かめようと意気込んで山を登った者もいたが、一人として戻った者は無い。
それ故か、極寒の地、白き山、死の山。多くの名で、その地の恐ろしさを誰もが語った。
その死の山を登る女がいた。
裏地に毛皮を縫い付けた外套と襟巻きで身を包むが、轟々と吹き荒ぶ吹雪の中では心許ない。極寒の地で寒さを凌ぐには余りも軽装だ。だが、女がそれを気にする様子はない。白い息を吐き、肺までもが凍りつきそうな寒さに耐えながら、女は只管に歩き続けた。
辰帝国は信仰心の無い国だ。神を崇める事を禁じ、信仰を持つ者達を罰した。女も、その教え同様に、神など信じてはいなかった。
しかし、その山に関しては、違った。信仰心の無い国の者たちが、口を揃えて、神が住む死の山と恐れるのだ。
本当に神がいるかどうかは、女には分からないが、女が神とやらの存在を期待をしたのは事実だった。神の信仰に目覚めたわけでも無かったが、女の望みを叶えるには、最早神に縋るしか手立ては無いと考えていたからだ。
山を登った事で死の山と呼ばれる所以を、身を持って知る事は出来たが、それに神が関わっているかどうかまでは分からない。
只の人なら、死を招く程の寒さで凍死してしまう事が事実でも、神に程近い自然の脅威と言うだけで、女を死に至らしめる事は無かった。
だが、痛みは有る。手足には、焼けるような痛みが続いた。やがて、凍傷になり、壊死すると、その傷は瞬く間に癒えた。
そして、また痛みが生まれる。その痛みが女に生きているのだと思い起こさせ、落胆もさせた。女の絶望を知る由もなく、山は女を受け入れ、ただ見守った。
女は、不死身だった。
死を持たぬ肉体は、若さを保ち、永遠とも思える時間を約束した。例え、それが女が望まぬ事だったとしても。
何故、死ねないのか。
それを考える事すら苦痛になった頃、女は思考を止めた。
山を只管に歩き続け、時には山の頂に辿り着き、山々が雲を貫く様を見届けた。又ある時は、朝日が登り雪原が眩しく輝く姿を目にした。だが、この世で見た最も美しい者であっても、女には、全てが無意味に思えた。
食事も、水も、眠りさえ無意味と、人らしくある事さえ止めてしまった。
女にとって、死は救いだった。神が住むと言うのなら、この身から解放してくれるやもと期待したが、それを叶わないと知るも、行く当ても無く、山を彷徨うしか無かった。
――
どれだけの時間が過ぎただろうか。女は、足を止めた。
何かに見られている。そんな気がしてならなかった。凡そ、生き物が暮らせない地で、そんな事が有り得るだろうか。有るとすれば、女と同じ死を持たぬ者が存在するという事になる。
女は、辺りを警戒し、腰に携えた短剣に手を掛けた。視線は次第に気配に変わり、気配はやがて、女の目の前に形となって姿を現した。白い景色の中で、はっきりと発光したそれは、この世の存在とは思えぬものだった。
白銀の龍
見上げる程の大きな姿。白銀の鱗と、蛇の様に長い体と尾に、鋭い爪。御伽噺か、神話でしか知らない存在が、本当に龍なのかは女には分からない。ただ、神々しいという言葉が当て嵌まるそれに警戒も忘れて、女は目を奪われ、龍を見上げたまま呆然と立ち尽くした。
「私を、殺してくれるのか?」
淡い期待を口にするも、女の声は、吹雪の中に飲み込まれるだけで、それが答える事は無かった。
龍は、瞼を閉じた。
次第に気配は薄くなり、白銀の龍の姿は雪の中に溶けて消えていった。龍が現れた意味など、わかる筈も無く、女は再び歩を進めようとした。
一歩、足を前に出した瞬間、女の視界が歪んだ。女の意識は途絶え、その場に倒れ込んでしまった。
吹雪が、強くなった。轟々と鳴る音と共に、吹雪は女の身を包むと、横たえていた筈の女の体は、消えてしまった。
此方は九藤朋(@kudou_tomo)さんからの頂き物です